第63話 キス、したい【未来15歳/沙織27歳】
高校生活初めてのホームルームが終わり、教室内はざわざわとした雰囲気で包まれている。
机を寄せ合って自己紹介の感想を言い合う声が、窓から入る春の風に混じって流れていく。
春。
そう、今は、春なんだ。
気持ちが高揚していくのも仕方ない…だって、高校一年の春の初日なんて、人生で一回しか経験できないんだから。
私は席をたつと、誰にも声をかけられずに一人だけで浮いている男の子、玲央くんの傍にむかった。
「玲央くん、こんにちは」
「星野さん、お久しぶりです」
「一緒の高校になれたね!」
「…まぁ、俺の場合は、ギリギリもギリギリって感じでしたけど…」
背が高くて、金髪で、耳には三連ピアス。目つきもするどくて、黙って座っているだけでも威圧感がある。そんな虎みたいな玲央くんだけど、実は猫みたいに優しいところがあると私は知っていた。
「…未来…この人…知り合いなの…?」
私のうしろから、おずおずとした声で聴いてきたのは、凛だった。
私は振り返り、凛を引き寄せる。
「うん。藤原玲央くん。つむぎの通っている保育園の先生の息子さんで、以前、悪い人に絡まれていたところを助けてもらったことがあるんだ」
「絡まれてって…未来、そんなことがあったの!?」
「あ、ごめん、言っていなかったっけ?」
「初耳…なんともなかった?」
心配して、焦って私の手を握ってくる凛。普段はツンとすました日本人形みたいに冷静な子なのに、私にだけは、こうやって感情をあらわにしてくれるのは、正直、ちょっと嬉しい。
「大丈夫だったよー。大丈夫じゃなかったらこんなこと笑って言えないよ。玲央くんに助けてもらったんだよ。かっこよかったよ」
「…別に、普通のことしただけだよ」
少しだけ照れてる玲央くんは、少しだけ可愛かった。
凛はまじまじと玲央くんを見つめていたけど、やがてため息を一つつくと、玲央くんに向かって語り掛けた。
「私、白鷺凛って言います。未来を助けてくれてありがとう…あなた、見た目は怖いけど、けっこういいところあるみたいね」
「それはどうも…あんた、入学式で代表挨拶していた人だよね?」
「そうだけど…それが何か?」
「ってことは、首席で合格ってわけだ」
真顔な玲央くん。いぶかしげに見つめる凛。その間でおろおろする私。
そして、破顔一笑。玲央くんが笑った。
「俺、たぶん最下位入学だから、学年トップとビリがこうやって話してるのって、なんか面白いな」
「…あなたが変な奴、ってことだけは分かったわ」
凛は笑って、手を差し伸べた。
「これからよろしく、劣等生さん」
「こちらこそよろしくな、優等生さん」
そうして、握手をする。
なんか変な関係だけど、一応友達になった、ってことでいいのかな。
「それで、未来」
2人のやりとりを見ていた私にふりかえって、凛がたずねてきた。
「部活はどうするつもり?」
「どうするも何も…」
決まっている。
「文芸部に入るよ。神見羅先輩もいるし」
「…またあの人と一緒になるのかー」
凛がため息をつく。
中学時代を思い出すなぁ…凛と神見羅先輩、いつも皮肉や軽口をいいながら、なんだかんだでいい関係だったと思う。凛に言ったら怒るだろうし、神見羅先輩に言ったらドヤ顔で返されそうだけど。
「部活、かー」
座ったままの玲央くんがつぶやいた。
「俺、中学時代はどこにも所属していなかったけど、高校生にもなったし、どこかに入ってみようかな」
「そうなの?あなた背も高いし、何かスポーツでもやっていたのかと思ったわ」
「人を見てくれだけで判断してもらいたくないな。たとえば、俺の趣味、お菓子作りなんだぜ?」
「…意外だわ」
「ちなみにあんたの好きなお菓子、和菓子だろ?」
「…人を見てくれで判断しないでくれる?」
さっき知り合ったばかりだというのに、凛と玲央くん、波長が合うのだろうか?2人のやりとりを聞いていると、もう何年も付き合っている友人のような気がしてくる。
「母さんの手伝いをしていたら自然に好きになったんだよ。母さん、保育園によくお菓子とか持っていくから」
「あ、いつもつむぎが美味しいっていっていたお菓子、実は玲央くんが作っていたの?」
「時々、だよ。時々」
照れる玲央くんは、まるで猫みたいだった。
「まぁ、高校で菓子研究会に入るのもなんだし、やっぱり体育系の何かにするわ」
「じゃぁ、バスケ部とかいいんじゃない?あなた、背高いし」
「あんた本当に頭いいのか?割と適当に言っていないか?」
「大真面目よ。うん。あなた、バスケ部が天職よ。バスケ部に入って甲子園目指しなさい」
「…学年首席さんに言われるなら仕方ないか」
玲央くんは手を頭の後ろに組んで、椅子にもたれかかりながら言った。
「バスケ部にするかー」
いいの?本当に?
思わず笑ってしまう。つられて、凛も笑う。凛の笑顔、可愛いんだからもっと他の人にも見せればいいのにな。
「颯真はサッカーの推薦で入ったから当然サッカー部だろうけど、葵はどこに入るつもりなのかな?」
「あの子は…まぁ、好き勝手やるでしょう」
凛は腰に手をあてながら言った。ふたごなのに、凛と葵はけっこう違う。中学から高校になって、これから先、もっと変わっていくんだろうな。
「とりあえず進路も決まったことだし、これからも頑張ろうね」
そう言って、笑う。
笑いながら…私は、ふと視線を廊下へとむけた。
沙織さんが、廊下の向こうを歩いているのが見えた。
急に胸がぎゅっとして、息が詰まった。
思い返されるのは、さっきの感覚。
沙織さんが、私だけに向けてくれた合図を見た時の、あの溢れんばかりの幸せな感覚。
みんなの前ではちゃんと「先生」なのに、私に対してだけ、そっと「恋人」だと伝えてくれる…それが嬉しくて、思い出すだけで、喉の奥が熱くなる。
(沙織さん…)
もう一度、廊下の向こうで歩く沙織さんを見つめる。
教師としての顔をしている。
背筋の伸びた歩き方をしている。
白いブラウスにジャケットで、柔らかくまとめた黒髪の後姿がたまらなく大人っぽい。
そんな沙織さんが他の先生方と並んで歩いている姿を見ると、それがいつもよりほんの少し、遠くに感じて。
その遠さが、痛い。
(…沙織さん)
その名前を心の中で叫ぶだけで、肌の下に熱いものが走る。血液の代わりに溶岩が流れているような、私を焼き尽くすような灼熱の熱さ。
その時。
廊下の向こうを歩いていた沙織さんが、ふいに足を止めて。
ほんの一瞬だけ。
こっちを見た。
目が、合った。
たったそれだけのことなのに、私の世界はそれで完璧に完全に静かになった。
凛の声も、玲央くんの声も、教室内のざわめきも、窓の外も、何もかも、世界がすべて。
全部遠くなって。
沙織さんが、ほほ笑んでくれた。
他の人には分からないくらい、少しだけ。
私だけに向けて。
そしてそのまま、沙織さんはすぐにまた前を向いて歩きだした。
歩きながら、とん、とん、とん、と3回、人差し指で右耳を叩いた。
胸がつかまれる。
甘く痛くなって、いとおしくてたまらなくなる。
(沙織さん…)
(好き…大好き)
(…沙織さんに、触れたい…)
(沙織さんの、声が聞きたい…)
みんなと楽しく話をしているのに、みんなの話にちゃんと相槌をうったり答えたりしているのに、私の心はもうすでにここには無かった。
私は一人で、恋をしていた。
もう、この気持ちは、私の中で膨らんで、膨らんで、胸の中に入りきらない。
私の身体中を駆けずり回って、細胞の隅々まで酸素と愛で満たされていく。
春の風が窓から吹き抜けてきて、髪を揺らし、私の想いは止まらなくなる。
駆け出したい。
その背中に飛びつきたい。
沙織さんの匂いを感じたい。
駄目なのは分かっている。
我慢しなくちゃいけないのも分かっている。
でも。
想いが溢れてくるのはとめられない。
(沙織さん)
私。
いま。
すっごく。
沙織さんと…
キス、したい。




