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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第五章 【未来14歳/沙織26歳】
57/85

第57話 沙織さんの高校の文化祭③【未来14歳/沙織26歳】

 どうして走っているのか分からない。

 どうして泣いているのか分からない。

 ただ、分かるのは、沙織さんが…男の人と手をつないでいて。

 感情が…ぐちゃぐちゃになって。

 気が付いたら、走っていた。


 人にあたる。

 高校生の人。文化祭を楽しんでいる人。

 きらびやかな人。笑っている人。


 ごめんなさい。

 あたってごめんなさい。

 泣いてしまってごめんなさい。

 雰囲気を悪くしてしまってごめんなさい。


「未来!」


 声が聞こえてくる。

 私の大好きな人の声。

 私の…彼女の声。

 いつも優しく包み込んでくれるその声から、いま、私は逃げ出してしまっていた。


 ごめんなさい。

 ごめんなさい。

 ごめんなさい。


 頭の中がぐちゃぐちゃだ。

 息が切れる。酸素が少ない。

 手にしていたクッキーの袋をぎゅっと握りしめる。

 手の中で、クッキーが割れる感触がする。

 

 いたい。

 いたいよ。


 走って、走って、走って。

 誰にも見つからない場所を探して。


 秋の日の楽しい文化祭で。

 私の顔は濡れてぐちゃぐちゃになっていた。



■■■■■



 未来を追って、走って、走ったけど、見失ってしまった。

 生徒たちに見られている。

 息も絶え絶えで、たぶん髪の毛もぼさぼさで。

 履いているパンプスがずれて靴擦れができていて。

 お腹が痛くて、汗が噴き出していて、血液がめぐりめぐって心臓が破裂しそうで。


 それがいったい、どうした。


 大事なあの子が、泣いている。

 誰に見られようが、何を言われようが、関係ない。

 未来のことより大事なものなんてない。


「水瀬先生、どうしたんですか?」


 声が聞こえる。

 耳の奥がどくどくする。いったん息を落ち着けて、その聞き覚えのある声の主を見つめる。

 結城先生が、心配そうな目で私を見つめていた。


「そんなに走って…あぶないですよ」

「結城…先生…」


 喉から心臓が飛び出しそうだった。喉の奥に血の味がした。いったん目を閉じる。少しでも、息を落ち着かせようとする。収まれ、収まれ。


「未来を…みませんでしたか」

「未来?」

「私の…」


 結城先生を見る。心配そうに見てくれているその瞳。風が吹いて、結城先生の美しい金髪が煌めいて見えた。周りに人がいる。こんな人ごみの中を走ったのだから、注目されてしまっても仕方ない。でも…でも、いまは、関係がない。

 私はもう一度結城先生をみて、しっかりと、はっきりと、口にした。


「大切な…彼女です」


 一瞬、驚いた顔をした後、結城先生がゆっくりと近寄ってきた。顔が触れそうになる。結城先生の息遣いも聞こえる。

 そして、結城先生は、私だけに聞こえるように、小さな声でそっとつぶやいてきた。


「事情は分かりませんが、伝わりました。水瀬先生、大きな声は出さないで。焦っているのは分かりますが、落ち着いて」


 結城先生はにこやかに笑って、周囲に集まっている人にも聞こえるような声で、


「水瀬先生、急用で呼び出しを受けたからと言って、急いでいかなくても大丈夫ですよ。せっかくの文化祭なんです。少し待たせておきましょう♪」


 そう言うと、私の手をとってこの場から私を連れ出してくれた。

 何人かの生徒たちは、何事かと私たちを見ていたけど、すぐに大したことはないと悟ったのか、友人同士で笑いながら文化祭へと戻っていく。


(ありがとうございます…)


 心の中で思ったのか、口に出したのか、それももう分からなくなっていた。

 ただ、結城先生の心遣いが暖かくて。

 息をととのえて、しっかりと前を向いて。


(この人なら…ちゃんと分かってくれる)


 歩きながら、周囲の人には気づかれないような声で、ことのあらましを相談した。




■■■■■


 

 来たことがない校舎の奥。

 どこかも分からない場所。

 とにかく、人の声が聞こえない場所を探して走って歩いて下を向いてさ迷って。

 気が付いたら、薄暗い場所で私はうずくまっていた。


 スマホが光っている。

 見ると、凛からのメッセージだった。


『未来、いまどこにいるの?いま葵と合流して文化祭回っているんだけど、姿が見えないから心配』


 ごめんね。

 私、自分のことばかり考えてるね。

 私はスマホを手にして、返信する。


『心配かけてごめんね。人混みに酔っちゃって、今休憩しているところ。私は大丈夫だから、先に文化祭楽しんでいて』


 ははは。

 電話じゃなくてよかった。

 もしも電話だったら、私の声聞かれていたら、すぐに気づかれてしまう。


 もう一度、スマホを見る。

 沙織さんからの着歴が入っている。

 胸が痛い。

 ごめんなさい。わがままでごめんなさい。

 すごく話をしたいのに、今は話をしたくないんです。

 耳の奥が痛い。血の流れる音って、こんなに大きい音だったかな。


 私、変だ。

 思ったように身体が動かない。暖かいのに、寒い。

 暗い。

 私はじっとうずくまって、そのまま時間が流れるのを待っていた。

 待って。待って。


 …いったい何を待っているのだろう。


 すねた子供みたいに、おもちゃを買ってもらえなかった子供みたいに。

 泣けばなんとかなると思っているのだろうか。


 いやだ。

 いや。いや。


 こんな自分が、いや。


「…沙織…さん」



「未来」


 え。

 この声。

 どうして。


「やっと、見つけた」


 顔をあげる。

 光が差し込んでくる。

 白くて、まばゆくて、輝いていて。


 私の大好きな人が、私を見つめてくれていた。



■■■■■



 結城先生と相談して、二手に別れて未来を探すことにした。

 初めての高校。初めての場所。

 詳しいことは分からないはずだから、そんなに難しい場所に隠れていることはないと思った。


 私は校舎の中を、結城先生は校舎の周りを探すことにした。

 見つけたら、すぐにお互いに連絡を入れるようにして。


 別れ際に、結城先生が少し笑った。


「結城先生?」

「あ、ごめんなさい…少し、昔を思い出してしまって」

「昔?」

「ええ…私が高校生だった時の文化祭で、こんな風に、二手に別れて人を探したことがあったんです」

「そうなんですか?」

「そうなんです」


 思い出を思い出すように、結城先生は目を閉じていた。どんな過去があったのだろう?こんな時だけど、気になってしまって、つい尋ねてしまう。


「…その時、誰を探しておられたんです?」

「姉さんです」

「おねえ…さん?」

「はい。私の告白から逃げ回っていた姉さんを、親友と一緒に探したんです」


 …それで、どうなったんです?

 聞いてみる。

 結城先生は、にっこりと、笑った。


「ちゃんと見つけて、告白できました…だから」


 今回もきっと、大丈夫です。

 逃げてる人って、逃げてるようで…本当は、見つけて欲しがっているんですよ。



■■■■■



 運命なんて信じない。

 運命なんてあるとしたら、最初から物事が全部決まっているとしたら、人生ってなんてつまらないものなんだろう。


 私が姉さんを好きになったのは、運命のせいじゃない。

 私が、自分で、好きになったんだ。


 私が未来を好きになったのは、運命のせいじゃない。

 私が、自分で、選んだんだ。


 運命のせいにできるなら、運命にすべてを委ねるなら、何も選択をしないなら、それは…悪いことじゃなくて、幸せなことなのかもしれない。

 正しい方に導いてくれて、失敗しないようにしてくれて、優しくて、甘美で、責任を追及されることもなくて。


 でも、そんなのは、私は嫌だ。


 私は、自分の選択に、ちゃんと自分で責任をとっていきたい。

 それは私のわがままだけど、わがままを選んだのは、私だ。


 私は未来を選んだ。

 私の彼女に選んだ。

 未来との、一緒の未来を選んだ。


 この責任を他の誰にも譲ってなんかやらない。

 私の、私だけの、大切な責任で…宝物なんだ。


 校舎を探すのを選んだのは私だ。

 階段を登るのを選んだのも私だ。

 諦めないことを選んだのも私だ。


 ほら。

 私の選んだその先に。

 私の未来が、待っていた。



「やっと、見つけた」


 うずくまって泣いている私の彼女に向かって、私はそう声をかけた。



■■■■■



「沙織…さん」


 泣きそうな目で、未来が私を見つめてくる。

 しゃがんで小さくなっている未来は、もう私と同じくらいの身長になっているのにも関わらず、とても、小さく見えた。


「…未来」


 そう言って、私は手を差し伸べようとして。

 少し考えた後、手を元にもどして、ちょこんと未来の隣に座りこんだ。

 コンクリートの床が、お尻を冷やしてくる。


(一人でこんなに寒いところにいたなんて)


 と思って、未来に身体をくっつける。

 私の体温が、未来にちゃんと伝わりますように。


「…どうしてここに来たの?」

「恋人をね、探しにきたの」

「沙織さん、ごめんなさい」

「どうしてあやまるの」

「だって…だって…」


 未来の肩が震えている。

 私はそっと、その肩を抱き寄せた。


「沙織さんが…あの…男の人と…手を握っているのをみて…」


 震える声で、未来は絞り出すように言葉を伝えてくる。


「なんか、胸がもやもやして、心が黒くなって…」


 それはね。

 嫉妬、っていうのよ。

 私は思う。

 嫉妬なんて、そんな感情を持つ歳じゃないと思っていた…けど、未来はいつもまっすぐで、いつも私のことを思ってくれているから、だからその気持ちに支配されてしまったんだ。


 私は、思い出す。


(姉さん)


 姉さんが、旦那さんを連れてきたとき。私に、「この人と結婚しようと思うの」と伝えてきた時。

 心の中に溢れてきたあの黒い黒い感情。どす黒いコールタールに胸までつかったかのような、逃げ出したくても逃げ出せない、あの感情。

 醜い。

 醜悪。

 でも、それは…心の中に湧き上がったその黒いものは、たしかに自分の感情で。目を逸らして逃げてはいけないものだった。


「未来」


 呼んだ瞬間、胸が締め付けられた。

 この子は、あの時の私だ。

 いまうずくまっているこの子は、私だ。誰も救ってくれなくて、誰も手を差し伸べてくれなくて、黒い感情の正体を知ることもなく知ろうともせず、全部飲み込んで染まってしまった私と同じだ。


 未来が、私を見つめてきた。

 頬に涙があたって、涙が煌めいている。


「私、沙織さんが好きです」


 14歳の女の子が、私の姪っ子が、勇気を振り絞って、語り掛けてくる。

 私を…選んでくれている。


「沙織さんを見ていると…幸せで、胸がぽぅっとして、幸せで、でも」


 ひとつひとつ、言葉を選んでいるのが分かる。

 気持ちを、心を、言葉と言う形にして、私に伝えてくれようとしているんだ。


「だから、この幸せがなくなるのが怖いんです」

「私は沙織さんが大好きで、沙織さんも私のこと、好きだっていってくれて」

「嬉しいのに、すっごく嬉しいのに」

「だから…怖いんです」


 涙がこぼれている。

 未来のまつげが濡れている。


「さっき、あの時、沙織さんを見て」


 喉が揺れる。

 震える。


「沙織さんが…私だけのものじゃないって、思っちゃったんです」


 私の沙織さんなのに。

 私だけの沙織さんなのに。

 どうして。どうして。どうして。


「嫌い…こんな私…嫌い…」


 泣きながら、肩を震わせながら、未来は、絞り出すように、胸の奥に秘めていた想いを、見せたくない気持ちをまっすぐにぶつけてくる。


「…でも、一番嫌いなのは…こんな風に泣けば、私が私のことを嫌いって自分でいえば…沙織さんが、私の方を見てくれるかもって、思っちゃってる自分がいるのが…嫌い」


 この子は。

 いったい、どこまで。

 まっすぐなんだろう。

 いったいどれくらい、私の心を、溶かしてくるのだろう。


 未来は私を見て、そのまま、目を閉じて。

 その唇が、震えていて。

 リップを塗ってるのが分かる。触れたいし…触りたい。


(このまま…触れてしまえば)


 私も唇を近づけそうになり、目を閉じて、そして。


 息を吸い込み、首を振った。


 未来がうっすらを目を開ける。潤んだ瞳で、私を見つめてくる。


「…キス、してくれないんですか」

「まだ、駄目」

「どうして」

「あなたを、守りたいの」


 そう言って、未来の髪を撫でる。


「守るって…どういう意味ですか」


 未来は、まっすぐ私の目を見つめる。


「沙織さんが…先生だからですか…私が…12歳も年下だからですか…女同士だからですか…私が…沙織さんの…姪っ子だからですか…私って、そんなに…」


 魅力、ないですか。


「私の未来なんて、もう全部、沙織さんに奪われているのに…」


 その言葉に息が止まる。

 胸の奥が、きゅっとなる。

 あぁ、こんな時なのに、どうしても、思ってしまう。


 私は、もうどうしようもないくらい、この子に惹かれている。

 私は、未来が、好き。


 好きだから。

 大好きだから。


「こんな風に、弱っている未来につけいるように、キスしたくないの」


 未来は泣きはらした目で私をみつめている。

 キスされなかった唇が、ほんの少しだけ震えている。


「泣いた顔、沙織さんに見られたくないです」

「…未来」


 私はそっと、未来の頬に指を添える。

 そしてそのまま顔を近づけて、未来の目元に、唇をつけた。


 未来の涙が、私の唇を潤す。

 それは世界で一番透き通ったリップのようで。


 お互いの息が触れあう距離まで顔を離すと、私は自分の唇に指をあてた。

 少しだけ、気づかれないくらいに、舌をだして、未来の涙を味わって、そして私の指を濡らして、その指を未来の唇に押し当てる。


「…ん」


 これはキスじゃない。

 キスじゃないけど…この一瞬に、私の心の全ての想いを込める。


「…沙織さん…」

「今日は、ここまで」


 指を離し、見つめあって、私は、少しだけ笑う。


「また今度、未来が本当に、勢いじゃなく、私を求めてくれた時に…」


 秋風が、窓の隙間から入り込む。

 それは未来の髪と私の髪を揺らして、


「キス、しましょうね」


 私の言葉を遠くへと運んでいった。




■■■■■



「水瀬先生!!」


 校舎の外から声が響いた。

 よくとおる声。

 心配の中に、少しのいらだちが混じっている。

 白鳥先生の声だった。

 足音が近づいてくる。

 このままでは…未来といるのを、見つかってしまう。


(どうしよう…)


 思わず未来を庇うように引き寄せて、縮こまってしまう。

 ただ、姪っ子と2人で文化祭を楽しんでいたんです…といっても、あの教頭には通用しないだろう。

 嘘なんてすぐにばれてしまうと思う。

 震えている未来の体温を感じて、なんとかしなくちゃ、と思っていた時。


「教頭先生!」


 その声を遮るように、別の明るい声が響いてきた。

 結城先生だった。


「こんなところにおられたんですか、教頭先生。教育委員の方々が教頭先生を探されていましたよ」

「え…もうそんな時間でした?」

「ほらほら、早くしないと…先方をまたせるなんて、教頭先生らしくないですよ」


 そう言いながら、結城先生が教頭の先生の肩をおすようにして、去っていくのがわかった。

 足音が遠ざかっていく。

 沈黙。


 そして。


 ぴょこんと、私のスマホが光る。

 見てみると、結城先生からスマイルマークのスタンプが送られてきていた。


 未来を見つけた時、取り決めどおり、結城先生に連絡をいれていた。

 だから…助けてくれたのだろう。


(有難うございます)


 心の中で、感謝を伝える。

 本当に…何からなにまで…お世話になってしまっている。




「くしゅんっ」


 隣で、未来がくしゃみをした。

 寒くなってきたから…私はもう一度、ぎゅっと抱きしめる。


「もう大丈夫?」

「…はい」


 未来は小さくそう答えると、私をのぞき込んできた。


「沙織さん」

「なぁに?」

「沙織さんに、プレゼントがあるんです」


 そういうと、ポケットの中から綺麗にピンク色に包装された袋を取り出してくる。


「じゃーん!」


 と言って差し出した後、未来はその袋を開けて…そして、


「あ…割れてる…」


 つつみの中から、少し欠けたクッキーを取り出してきた。


「走ってる時、思いっきり握りしめちゃったから…」


 残念そうな表情を浮かべる。

 私は、そんな表情も可愛いな、と思って、すこし悪戯心が湧いてくる。


「あーん」


 といって、口を開ける。

 待つ。

 早くしてくれないかな…26歳にもなって、こんな格好しているの恥ずかしいんだけど…


「沙織さん…私の手作りクッキー、食べたいですか?」


 さっきまで泣いていたくせに、未来も調子にのってくる。

 薄眼で見てみると、にやーっとした顔で笑っている。もう、可愛いなぁ。


 口をあーんとしたままだから、声で返事をすることは出来ない。

 だから、私は口をあけたまま、首を縦に振った。


「じゃぁ、条件があります」


 ちょっとだけかけたハート型のクッキーを手にしたまま、未来は、私の彼女は、12歳も年下のくせに、独占欲の強いわがまま彼女は、まるでいたずらっ子のように私に告げる。


「これから先、一生、沙織さんと手を握っていいのは私だけですからね!」


 そして、私の口の中にクッキーを入れてくれた。


 うん。

 美味しい。

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