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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第五章 【未来14歳/沙織26歳】
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第56話 沙織さんの高校の文化祭②【未来14歳/沙織26歳】

 生徒たちにとっては文化祭とは楽しいだけの行事かもしれないけれど、教師にとっては「お祭り」というよりも「戦場」といった方が正しいかもしれない。

 展示物の最終チェック、部活動の監督、クラス展示の確認、やるべきことは山ほどある。


「水瀬先生、おはようございます。この書類の確認、お願いできますでしょうか?」


 生徒たちに呼び止められて、書類をみる。特に問題はなかったので、「うん。大丈夫。これでいいわよ」と言って返すと、一言礼をいってその生徒は走り去っていく。

 その背中をながめていたら、また別の生徒から声をかけられる。

 朝から校内は熱気に包まれ、私は行きつく暇もなく走り回っていた。


 私は忙しく動きながら…どうしても、意識は一人の女の子を探してしまっていた。


(未来、もう来ているかな…)


 まだ学校がはじまったばかりだし、来ていることはないとは思うけど…けれど、もしかしてという気持ちを抑えることは出来なかった。


 昨夜、未来から届いたメッセージ。


『沙織さんに会えるの、すっごく楽しみです!』


 ほほえましくて、何度もなんども見返してしまっていた。あの子が、私に会いたいと思ってくれている。ううん。会いたいのは、私。

 私の心も、私の細胞も、恋人に会いたい、恋人を抱きしめたいと叫んでいるのが分かる。

 けれど。


(我慢、しなくちゃ)


 ここは学校。周りにどんな目があるか分からない。軽率な行動はとれない。

 そう頭では理解していたとしても、いざ未来を目にしてしまったら、自分がどんな行動をとってしまうかは分からない。それほどまでに、私は未来を求めてしまっていた。


(会いたいけど…怖い)


 それが嘘偽りのない、私の感情だった。


「水瀬先生、お疲れ様です」


 落ち着いた声が、私に語り掛けてきた。

 振り返ると、白鳥先生がそこに立っていた。

 40代後半の先生は、控えめな口紅に淡いグレーのスーツを着こなしていて、厳格でありながら情の深い女性で、この高校の教頭でもあった。

 私は思わず、姿勢を正す。


「おはようございます。白鳥先生」

「朝からみんな、楽しそうに動いていますね」


 白鳥先生はそう言うと、優しそうな瞳でせわしなく動いている生徒たちの姿を見つめていた。あぁ、この人は、本当に生徒たちのことが好きなんだな、と伝わってくる。


「年に一回の文化祭ですから」

「そうですね。生徒たちにちゃんとした思い出を作ってもらうためにも、私たち教師陣がしっかりと見守っていてあげないといけませんね」


 白鳥先生はそういうと、かけていた眼鏡に手をかける。これは先生の癖で、こうした時にはちょっとした苦言が出るということを、私はこの数年間の付き合いでよくわかるようになっていた。


「ところで、水瀬先生」

「は、はい」

「文芸部は、水瀬先生が顧問でしたよね?」

「…は、はい…」

「神見羅さん、ずいぶん個性的な展示をしているとか?」

「…あの子は…なんというか…」


 ああいう子、なんです、と、私は冷や汗をながしながら答える。自分のことを吸血鬼だといって、展示も全て吸血鬼関連のものにしていた。普段は寝てばかりいるのに、いったいどこにあれ程までのバイタリティを隠し持っていたのだろうか。


「ふふ。まぁ、楽しめているようなら、いいことです」


 意外にも、白鳥先生は軽く笑った。この先生は厳格で、厳しくて、融通がきかないけれど、生徒の自主性をさまたげるような人ではなかった。

 とはいえ、微笑を浮かべたのはほんの一瞬であり、すぐにまた、いつもの険しい顔に戻る。


「午後からは教育委員の方もこられますので、粗相のないようにお願いしますね」


 そう言うと、去っていった。

 その背中をみながら、私はそっと、ため息をはいた。


(粗相、か)


 目をとじて、未来のことを考える。


(校内で恋人と会うなんて…粗相の内に入るかな…)


 入らないわけはないだろう。生徒に模範を示さなければいけない教師としては、あってはならない姿ではある。


(けど…あの子の前では…)

(教師、としてではなく)

(一人の女…水瀬沙織として、全てをさらけだしたい)


 そんなことを思ってしまう。

 思いながら、首をふる。こんなことを考えていてはいけない。

 私は、未来を守らなければならない立場なのだから。私は…大人、なのだから。


 最近は、その大人と女との間にある境界線が少しずつあやふやになっているような気がしてならない。


 教師としては間違っている。けれど、女としては、これが正しいと思ってしまう。


(駄目だなぁ、私)


 気を引き締めないと。

 そう思って、私はもう一回、大きなため息を吐いた。



■■■■■



 午前中は慌ただしく過ぎ去っていってしまい、気が付けばもうお昼が近くなっていた。

 お腹が少し減っているのが分かる。

 今日は文化祭。クラスでは様々な出し物をしていて、校庭にはいたるところに生徒たちが出している屋台が並んでいる。


(どこかにお邪魔しようかな)


 ふと、そう思う。私が担任をしているクラスが出しているのは、たしかクレープ屋さんだった。お昼ご飯かわりにクレープというのも悪くはないかもしれない。


(でも、どうせなら…)


 もうそろそろ来ていてもおかしくない未来と合流して、一緒に食べたい…と思ってしまう。思ってしまったあと、その考えを振り払うように首をふる。


(そんなところ、誰かに見られたら…)

(…でも、はたから見れば、ただ教師と生徒が一緒に食べているだけかも)

(恋人同士には…見られないよね)


 26歳の女教師に、14歳の中学生。

 はたからみたら、ただの教師と生徒にしか見られないとは思う。思うけど、それはそれで、少し寂しくも感じてしまう。私たちは恋人なんだから、恋人だって、胸を張りたい…

 未来を守らないといけないとは頭で分かっているのに、心がそれとは矛盾したことを考えてしまう。


 そんなことをいろいろ考えて立ち尽くしていた時、私に呼びかける、落ち着いた男の人の声がしてきた。


「お、水瀬先生、こんなところにおられたんですか」


 ふりむくと、体育教師の鷲尾先生が笑顔で手を振っていた。

 日焼けした腕にジャージ姿、背は高く、がっしりしたその身体の上に、まるで学生のように無邪気に笑っている顔がのっかっている。

 私の一つ年上の鷲尾先生は明るいムードメーカーで、男女問わず人気があり…私は少しだけ、苦手だった。


「お疲れ様です、鷲尾先生。忙しそうですね」

「いやいや、今日はどこに行っても声かけられますね。まさに文化祭、って感じですね」

「そう、ですね」

「水瀬先生は何をしておられたんです?」

「私は少し、見回りを…」

「いやー、えらいですねぇ」


 そう言いながら、自然に私の隣を歩き出す。


「俺はバタバタと動き回ることしかできませんから、水瀬先生みたいに落ち着いて、細かいところまでちゃんと見られるところ、尊敬しますよ」

「…ありがとうございます」


 でも、私なんてまだまだですよ、と軽く答えて離れようとする。

 いい人なんだけど、いい人だとは分かるけど、近くにずっといると疲れてしまいそうだった。


「今日のカーディガン、すっごく似合っていますよ」

「…どうも」


 あいまいな返事をする。

 社交辞令ではなく、純粋な誉め言葉なんだろうけど…けど、私が褒めてもらいたい人は、別にいるのだ。


(未来に…綺麗だって、思ってもらいたい)


 それが偽りなさざる私の本音だった。他人からかけられる100万回の賛辞なんかより、大好きな恋人からの一言が欲しい。

 会いたい。早く会いたい。

 気が付いたら未来の姿を探している自分に気づいてしまう。


「私、そろそろ部室の方に顔出しにいかないといけないので…」


 そう言って、この場を離れようとする。

 離れようとしたのに、鷲尾先生は私を引き留めてきた。


「ご担当の部の展示が気になるのは分かりますけど、もうちょっとだけ、もう少しだけ、お話しませんか?」

「いえ、私は…」

「後生ですからっ。あ、焼きそば、そこの焼きそばおごりますからっ」


 鷲尾先生は手を合わせると、まるで拝むように私に頼み込んでくる。どうしてこんなに必死なのだろう。そんな笑顔を見ていると、断り切れなくなってしまう。私があいまいに頷くと、鷲尾先生は嬉しそうに頭をかいた。


「いやー、職員室じゃまわりの目もあるし、なかなか水瀬先生と話せないな、と思いまして」

「いまだって、文化祭なんですから、生徒の目はたくさんあるんじゃありません?」

「生徒たちはいいんです」


 そう言うと、鷲尾先生は頭の後ろで手を組んで、楽しそうに笑った。


「年齢離れてますし、可愛い子たちじゃないですか」


 年齢…そうか、普通、そうだよね。


「俺、昔から文化祭って好きなんです。なんか特別ですよね?生徒たちの顔もいきいきとしていて、こういう空気って、青春って感じがしません?俺が高校生だった頃を思い出して、なんか懐かしくて、手助けしてあげたいな、って思うんですよね」


 鷲尾先生の声は、言葉の隅々からまっすぐな熱を持って伝わってくる。それは純粋な好意からくるものであり…その無垢さは、私にとってある種の刃のように感じられることがある。


(生徒たち)

(生徒と、教師)

(それが、普通の関係、だよね)


 生徒は生徒同士、大人は大人同士、間に線を引いて、お互いがお互いを尊重して尊敬して付き合うのが、人として当たり前の行為なのかもしれない。


(でも、私は…)


「水瀬先生って、ほんっと、優しいですよね」


 思考が、途中で止められる。隣を歩いている鷲尾先生が、屈託のない笑顔を浮かべて私を見つめている。


「そんなこと、ありませんよ…」

「ありますって!生徒たちもいつも言っていますよ。水瀬先生、話すと落ち着くって…」

「それは…よかったです」


 笑って答える。力が少し抜けてしまう。私はどうしてここにいるのかな。模擬店の香りがだたよい、遠くから吹奏楽部の演奏や生徒たちの笑い声が溶けあって聞こえてくる。

 文化祭の学校はこんなにも騒がしいのに、私はいま、少しそこから隔絶したどこかにいるような気がしてくる。


「…先生、水瀬先生っ」

「あ、ごめんなさい」

「大丈夫ですか?なんか心ここにあらず、といった感じでしたよ」


 心ここにあらず、か。

 たしかにそうかもしれない。

 私の心は…恋人のところにだけ、あるのだから。


「無理、しないでくださいね。水瀬先生、いつも頑張っておられるけど…見ていて少し、不安になることがあるんですよ」

「え…?」

「何か抱え込んでいるような気がして。俺には何もできないかもしれませんけど、でも、もしも俺に何か手伝えることがあるなら、何でも言ってくださいっ」


 そう言うと、鷲尾先生は私の手を掴んで、しっかりとつかんで、私を見つめてきた。

 心臓が一瞬、止まりそうになった。

 この人は…純粋に、私を気遣ってくれている。それはただ、同僚に対する心配なだけかもしれないけど。

 さっきから不必要なまでに明るく絡んできているのは、この本音、私に対する心配からくるものなのかもしれないけど。


 手が、痛い。

 握りしめられる手は大きくて、厚くて、それは。


 男の人の手、だった。


「ありがとうございます、心配してくれて…でも、大丈夫ですよ」


 振り払えない。

 男の人の手は、強い。純粋に、強い。

 鷲尾先生にそんな気はないとは分かっているけど、これが、男と女の差なのだろうか、と思った。


 私が欲しいのは…違う。


 私が欲しいのは…柔らかくて、繊細で、触ったら壊れてしまいそうで、いつも私を求めてくれる、いつも私の心を溶かしてくれる、そんな…まるでガラス細工のような、恋人の手だった。


「鷲尾先生、私…」


 声が少し震えていたと思う。

 手を握られたまま、鷲尾先生にお断りをいれようとした時。


 その時。


 視界の端に、姿が映った。


 群衆の向こう側に、制服姿の少女。

 私が見間違えるはずもない…私の、大切な、彼女。


(未来)


 こちらを見つめたまま、足を止めている。

 その目が、私を見つめている。

 鷲尾先生と手を握り合っている、私を。


(違うの)


 声を出そうとしても、喉が動かなかった。

 未来と視線が合ったのは、ほんの数秒。

 けれどその数秒が、永遠のもののように感じられた。


 未来の表情は見えない。

 みえないけど、どんな顔をしているのかは分かった。

 未来は、手に何かを握っているようだった。

 ピンク色の…何か。

 それをぎゅっと握りしめたまま、未来は、くるりと背を向けた。


 走っていく。

 混雑した人並みの中に、未来の姿が消えていった。


「…水瀬先生?」


 鷲尾先生の声に、我にかえった。

 手は握りしめられたまま…男の人の手。がっしりとした、手。

 私はそれを振りほどくと、笑顔を作った。


「ごめんなさい…ちょっと用事を思い出しまして」


 返事も聞かずに、私は振り返り、小さくなっていく未来の背中を探した。

 胸の奥が焼けるように痛い。


(未来)


 恋人の名前を思う。

 恋人のことを思う。


(待って…)


 遠くから笑い声が聞こえる。

 校舎裏の風が頬を撫でる。


 どう見られているのか分からない。

 私はいま、ちゃんと教師の顔をしているだろうか。


 分からない。

 分からないけど。


 私の心が未来を求めていることだけは、分かった。


 消えていくその背中を追って。


 私は、走った。

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