第54話 ガラスの橋【未来14歳/沙織26歳】
出勤前の朝。
普段から出勤前の時間は少し憂鬱になるものだけど、夏休みが終わって新学期が始まるという今日の朝は、億劫な気分がいつもの二割増しになっていた。
(…特に、今年の夏はいろいろあったし)
スーツに着替えながら、この夏のことを思い出す。26歳になって、初めての恋人ができた夏。
スマホがなった。アラームの音ではなく、メッセージの着信の音だった。画面を見てみると、つい先ほど思い浮かべた恋人の名前がのっていた。
『沙織さん、おはようございます』
憂鬱だった朝の気分が、一瞬で淡く暖かいものに書き換えられる。いま、にやけているんだろうな、と思いつつ、返事をかえす。
『おはよう、未来』
『今日から新学期ですね』
『そうね。少し憂鬱』
『そんな沙織さんに、元気の出るプレゼント!』
そんなメッセージと共に、写真が送られてくる。
にっこり笑って、手を振っている未来の写真。
(可愛い)
嬉しい。未来とは、スマホで写真のやりとりをすることが多くなっていた。私の写真フォルダの中は、未来の…恋人の写真で一杯になってきている。
自分の写真が元気の出るプレゼントになると思っている未来が可愛いし、そしてその思惑どおり、私に元気が湧いてくる。
すぐに返事を返そうとして、ちょっと止まる。
(えっと…ここらへんに置いておいたかな)
ノートを見つける。新品の、まだ真っ白なノート。
私はそのノートに、黒いサインペンで大きく『未来、大好き。』と書く。そして少し悩んだあと、その隣にちょっと小さな文字で『あなたの恋人、沙織より』と付け加えた。
(我ながら、浮かれているなぁ)
自分でそう自覚しつつ、そのノートを手に持って、文字がみえるように自撮りをする。
なかなかうまく撮れた…よし、送信。
既読。
しばらくして。
『えへへへへ。嬉しいです。逆に私が元気もらっちゃいました』
『本当のこと書いただけだから』
『沙織さん、大好き。本当に好き。私、世界一幸せです』
『私もよ、未来。大好き』
お互い、好き、好きと送信しあって、いつまでたっても終わりそうになかった。やめどきが見つからない…何度『好き』と送っても、まだ足りない。
(このままじゃ遅刻しちゃうなぁ)
そんなことを想いつつ、私は朝の光の中で幸せを甘受していた。
■■■■■
マンションを出ると、ちょうど結城先生と鉢合わせになった。同じマンションに住んでいて同じ高校に勤めているので、こういうことはたびたびおこる。
「おはようございます、結城先生」
「おはようございます、水瀬先生」
軽く挨拶をする。結城先生は少し首をかしげて、覗き込むように私を見つめてきた。
「水瀬先生、何かいいことありました?朝から顔がゆるゆるになっていますよ?」
「そ、そうですか」
朝から未来といろいろやりとりをしていたので、どうやら気持ちも緩んでしまっていたらしい。気を引き締めないと。私は高校教師。生徒たちの模範とならなければならない立場なのだから。
「結城先生も幸せそうですよ」
何の気なしに、軽く言葉を返す。すると結城先生は何食わぬ顔で答えてきた。
「ええ。昨夜も、姉さんにたくさん愛してもらいましたから」
「愛し…あ、え…」
返答に窮してしまう。愛してもらう、この言葉はこの言葉どおりの意味というか、結城先生の場合は、その、お姉さんと。
いろいろ、愛されているわけで。
時々、結城先生とお姉さんが一緒に歩いている時に遭遇する時があるのだけど、そんな時、2人は同じ匂いをまとっていて。つまり、そういうことなのだ。
「ふふ」
結城先生は悪戯っ子のような笑みを浮かべると、足取りはそのままで私に尋ねてくる。
「恋人さんとは、うまくいっているみたいですね」
「…」
「見てるだけで、分かりますよ?」
結城先生は分かりやすいんですから、と言う。そして、少し険しい顔になって、
「ですから…気を付けてくださいね」
私を見つめてくる。その目は、真剣だった。私を心配してくれている目だった。
私と未来との関係を、結城先生は知っている。
というよりも、知っているのは結城先生だけだった。
私と未来が恋人同士になったというのは、秘密にしておかなければならない。
(悪いことをしているわけではないのだけど)
と、想う。と、想おうとする。
けれど、自分たちがどう思おうとも、世間一般の目で見れば私たちの関係はいわゆる「普通」からは大きくかけ離れていた。
12歳差。
女同士。
叔母と姪の関係。
どれ一つとってもアウトなのに、三つも重なっているのだからスリーアウトチェンジだ。弁解のしようもない。
(…かつて、同じ経験をした私から忠告させて頂きますと)
(水瀬先生と、姪っ子ちゃんとの関係は)
(絶対に他人に漏らしてはいけません)
結城先生からそうアドバイスをもらっていた。
その言葉は本当に真摯なもので、自らが犯した過ちと同じレールの上を走ろうとしている私たちを何とか救ってあげたい、という思いが込められているのが伝わっていた。
そうだ。
たしかに、私は浮かれてしまっていた。
未来のことが…恋人のことが、嬉しすぎて、可愛すぎて、幸せすぎて。
でも、未来は私より12歳も子供だ。
大人である私が、守ってあげなければならない。
未来はまだ14歳。
せめて…せめて未来が成人する、18歳になるまでは。
(この恋人関係を)
(秘密に)
私はそう決意を新たにして、足取りをすすめた。
■■■■■
放課後の職員室には、紙とインクのにおいが漂っていた。
窓の外ではグラウンドに夕陽が落ちかけていて、部活の掛け声が風に混じって聞こえてくる。
陽射しはまだ夏の名残をなんとかとどめてはいるのだけど、風だけはもう少し冷たさを含んでいた。
「…ふぅ」
書類をまとめていた手をとめて、ひとつため息をつく。
夏休み終わって初日の授業はやはり少し緊張してしまい、勝手が戻るまではもう少し時間がかかりそうだった。
目を閉じて、ふと、恋人のことを考える。
未来も今頃、夏休み明けの学校を満喫している頃かな?
私は高校で教師をしていて、未来は中学で授業を受けている。立場も場所も違うところにいる私たちだけど、心の底はしっかりとつながっていた。
「水瀬先生」
後ろから名前を呼ばれて、振り返った。
そこには、妙齢の女性が立っていた。
白鳥真理子。48歳。
私の勤めている高校の教頭で、厳格な性格ながらも芯の通った優しさもあり、生徒たちからは恐れられながらも慕われている。
白鳥先生は黒髪をきっちりとまとめ、表情はいつも崩さない。その目の奥は、いつも冷静に相手を見つめていて、見られるものに緊張をいつも抱かせてくる。
「来月行われる文化祭、その進行の確認をお願いできますか?」
「私が、ですか」
「ええ。あなたが、です」
白鳥先生はかけていた眼鏡に手を添えた。
「一年生のクラスで、少し指導が行き届いていないようなので」
「分かりました。明日の放課後にでも見に行ってきます」
「お願いしますね」
生徒たちにとっても、文化祭は大切な思い出の一助になるのですから、と、教頭は続けた。
この人の行動は常に生徒のことを第一に想っての行動なのだけど、かもしだす雰囲気がどうしても厳格で厳しいのだけが、少し誤解される原因だと思ってしまう。
(白鳥先生に未来の可愛らしさの100分の1でもあれば、もっと生徒たちに人気がでるだろうになぁ)
なんてことを考えてしまう。
「…」
白鳥先生が、ふと私の顔を見つめてきた。
「…水瀬先生、夏休み前に比べて、少し顔が優しくなったわね」
「そうですか?」
「ええ。悪いことではないけれど」
私がこういうのもなんだけど、と、ちょっと自嘲気味に教頭は続けた。
「優しいことと、甘やかすことは違いますからね」
「…」
「立場というものは、顔に出るものよ」
教頭の顔は真剣で、私を思って指導してくれようとしていることが、はっきりと伝わってくる。
「あなたにどんな事情があるかは分かりませんけど…教師としての顔、は、きちんと切り替えておきなさいね」
それが生徒を指導していく教師としての責任ですから。
言葉づかいは穏やかなものだったが、その裏に流れる想いは厳しいものだった。ある種の、警告、を含んでいるように感じられる。
私は唾をごくんと飲み込んで、
「はい。ご指導ありがとうございます、白鳥先生」
そう答える。
「頼みましたよ、水瀬先生」
そう言って去っていく白鳥先生の背中を見ていて、私の胸の中にちいさなざらつきが残っていた。
私は教師。
私は、生徒たちを守り、指導していかなければならない。
私には、大人の責任がある。
(未来)
恋人の顔を思い浮かべる。
好き。大好き。
大好きだからこそ…
(私が、しっかりしないと)
窓の外では、夕陽がグラウンドを黄金色に染めていた。
誰かが笑い、誰かが走り、日常が続いていく。
日常を続けられる、その「当り前」ということを守ることが、どれだけ難しく、大切なことか。
私が今たっているこの場所は、綺麗なガラス細工で作られた橋のようなもので、綺麗で、繊細で、輝いているからこそ、ほんの少しの油断で亀裂が入り、ガラスの橋は砕け散って私たちは奈落の底へと落ちて行ってしまうだろう。
私一人が落ちるならともかく。
未来を…巻き込むわけにはいかない。




