第50話 【閑話休題⑥】結城美麗の場合②
梅雨が終わり、7月に入ったというのに、まだ風の中に湿り気が残っているような気がする。
夕方の廊下を歩いていたら、通り過ぎる生徒たちから挨拶をもらった。
「結城先生、さようなら!」
「はいはい、寄り道しないで帰るのよ」
しませんよー、たぶん、と言いながら去っていく女生徒たちの後ろ姿を見ていると、自分が女子高生だった時のことをふと思い出した。
(まぁ、私は不登校だったんだけど)
あまり普通の高校生活は送ってこなかった。自分がそうだったからこそ、受け持ちの生徒たちには二度と戻ってこない青春を心の底から楽しんでもらいたいな、と思う。
窓の外から部活帰りの声が聞こえてくる。
テニス部が笑っている。サッカー部が大きな声をあげている。吹奏楽部が調子はずれのチューニングをしている。
それらすべての音たちがまるで夏の前触れであるかのように感じられ、私は思わず足を止めた。
(もうすぐ夏休みか…)
正確には夏休みに入る前に期末テストがあり、たいていの生徒たちにとっては夏休み前の大きな障害となって立ちふさがるものではあるのだけど。
(がんばれ、若人たちよ)
そんなことを思う。
30代の背中が見えてきた今、二度と手に入れることができない若さというものは、それはそれはキラキラ輝いていて大切なものに映るのだった。
「…あれ?」
職員室に戻る途中、曲がり角の先を歩いている水瀬先生を見つけた。スーツ姿で書類を抱えたまま廊下を歩いていく彼女の背中は…なんというか、少し、ほわほわしていた。
(この前から、様子がおかしい…)
心ここにあらず、というべきか。
本人はまっすぐ歩いているつもりなんだろうけど、時々ふらっとして壁に当たりそうになっている。そのたびに誰もいない空間に向かって「ごめんなさいっ」と謝ったり、そして目の前に人っ子一人いないと分かったら恥ずかしそうに頭をかいたり。
(あやしい)
女の勘、というほど鋭いものではない。たぶん、誰が見ても分かるくらいの、例えば私がコナン君でなく、毛利のおじさんだったとしても、一目で犯人だとバレてしまうくらいの、分かりやすいあやしさだった。
「水瀬先生、お疲れ様です」
「あ、結城先生…お疲れ様です」
社交辞令のように挨拶をすると、水瀬先生は笑った。
どこか柔らかい笑顔…いや、柔らかいというより、『ほどけている』そういった印象だった。
ぎゅっと絞っていたものがほどかれて、ふわぁっと拡散していっているような、そんなふわふわとした感じ。
「水瀬先生…大丈夫です?」
「だ、だいじょうぶですよ…いやだわ、結城先生ったら」
おほほほほ、と、似合わない笑い声を出す。
うん。大丈夫じゃないな。
私はそう確信して、水瀬先生の腕をぎゅっと握りしめた。
「結城先生!?」
「はい。連行します」
まだ残っている仕事はあったけど、それはもう明日に回すことにする。今はこの、糸の切れた風船のような可愛い後輩をなんとか木に縛り付けて勝手に飛んでいかないようにしないといけないだろう。
「こ、困ります、私、今から部に顔出しに行かないと…」
「部活?」
「はい、文芸倶楽部に…」
そういえば先日、水瀬先生、新しくできた文芸倶楽部の顧問になっていたな、と思い出す。そして同時に、その部活に所属している部員は問題児である1年の神見羅由良さんただ一人だけだったことも思い出す。
「別に顔出しなんてしなくてもいいんじゃないですか?」
「そ、そんなわけには…」
「どうせ行ったところで、神見羅さんの寝顔を夕方まで眺めるだけの無意味な時間を過ごすだけですよ」
「そんなことは…」
ない、といいかけて、水瀬先生はぐっと目を閉じる。
神見羅さん、私の授業でもいつもずっと寝ているしな…というか、あの子が起きて動いている姿をほとんど見たことがない。つちのこ並にレアな子だ。…それでいて、一学期の中間テストの成績は断トツで学年一位だったのだから、教育の敗北というものをまじまじと見せつけられているような気がしてくる。
まぁ、そんなことはどうでもいい。
「さぁ、早くはやく」
「うー…」
抵抗しても無駄だと悟ったのか、お風呂場でお湯をかけられてすべてを観念してしまった飼い犬のように大人しくなった水瀬先生を引き連れて、私は校外のなじみの喫茶店に足を運んだのであった。
■■■■■
「思えば、ここにくるのも1年ぶりくらいになりますね」
「…そうでしたっけ」
目の前にだされたアイスコーヒーを眺めて、水瀬先生は小さな声でつぶやいた。
相変わらず落ち着いた雰囲気のこの喫茶店は、一年前と変わらない空気で、1歳としを加えた私たちを出迎えてくれていた。
店内にある水槽で泳いでいる鯉の数が少し増えているような気がする。変わったといえばそれくらいで、白髪で落ち着いた雰囲気のマスターが眼鏡をふきながら座って新聞を読んでいるのがみえる。
「さて」
私はコーヒーを一口飲んで、水瀬先生を見つめた。
「水瀬先生、洗いざらい話してもらっていいでしょうか」
「洗いざらいって…」
何を?とは言わない。何を問い詰められているのかは、自分でも理解されているようだ。悩んでいるのは、何を話そうということではなく、どこまで話せばいいのだろうか、というところくらいだろうか。
なので、助け船を出すことにした。
「ちょうど1年前、ここで水瀬先生の相談に乗ったことを思い出しますね」
あの時は、告白されて、好きとこたえて、でも付き合うことはできないって返した、と言っておられましたね?
想いが呼び水のように思い出される。
1年前の水瀬先生は、はたから見ていて分かりやすいくらい、悩んでいた。
今の水瀬先生も悩んでいるのは分かるし、伝わってくる。けれど、その悩みの種類が、1年前とは違っているように感じられるのだ。
「もしかして、また、告白されました?」
助け船を出しただけでなく、救命用具まで投げ込んであげることにする。ここまでおぜん立てを整えたなら、さすがの水瀬先生も手を伸ばしてくることだろう。
「告白は…」
水瀬先生は少しうつむいて、後ろの水槽で泳いでいる鯉の背中の模様よりも綺麗な薄紅色で頬を染めながら、言葉を続けてきた。
「この一年間、ずっとされてます」
「あらら」
思ったより、積極的な子なんだな、と思った。
思って、思い出した。
ああ、あの。
4月に水瀬先生が私の住んでいるマンションに引っ越してきた日に、マンションの入り口ですれ違った可愛らしい女の子。
私と姉さんの姿を見て、慌てて水瀬先生がつないでいた手を離していたっけ…ごまかすのがへたくそなんだから。
(まるで私を敵みたいな目で睨みつけていたな)
とも思い出す。
まだ高校生になっていない、中学生くらいの、可愛らしい女の子。でも、その全身で、私を警戒していた…大事なものを守る母猫のように、みえない総毛を逆立てて、力いっぱい、「この人は、渡さないっ!」といった風な感じで。
(あれは手ごわいなぁ)
くすっと笑ってしまう。
あんなに、全身から力一杯「好き」という雰囲気を溢れ出している子なんて、そうはなかなかお目にかけることは出来ない。
そんな子の告白を、この一年間、水瀬先生はずっと受け続けてきた、というわけだ。
「なら…」
ついに想いを、受け入れてあげることにしたんですか?と、聞いてみる。
一年前、私はこの同じ場所で、水瀬先生に(想いを受け入れるのが怖いと思っておられるなら…いまは、断ってもいいと思います)と伝えた。
それが正解だったのか、正解じゃなかったのか、それは分からない。
ただ、あの時分かっていたのは。
(水瀬先生は、あの子のことを大事に想っていて)
(思っているからこそ、想いに答えるのが怖い、と思っている)
ということだけだった。
あの時、水瀬先生は、想いを断った。
想いだけを受け入れて、それでもそこから先の関係へと足を踏み出そうとはしなかった。
あれから一年。
ずっと磁力を浴び続けてきた鉄が磁石に代わるように、好きな人から、好きという言葉を浴びせ続けられた水瀬先生は、変わってしまったのだろうか。
「断ろうと思っています」
返ってきたのは、想定していたのとは違う答えだった。
少し、意外だった。
「私は、あの子のことが好きです…でも、私は26歳で、あの子はまだ、中学3年生なんです」
水瀬先生はコーヒーカップをテーブルに置き、先ほどまでのほわほわしていた揺らいだ大人ではなく、背筋を伸ばしてしっかり先を見据えた、ちゃんとした一人の社会人として言葉を続けてきた。
「子供を導いてあげるのが大人の役割です。それになにより、私は教師ですから…そんな立場の者が、一時の気の迷いで大事な生徒の運命を変えることなんてしてはいけません」
ちゃんとした、大人の答えだった。
ふと、昔を思い出す。
私の…大人の答えなんて知らずに、子供の気持ちのままで突き進んで、そして大人の責任の重さというものを思い知ってしまった過去を。
「だから、あの子の想いは断ろう、と決めたんです」
決めたんです、と言いながら。
水瀬先生の瞳から。
一筋の涙がこぼれた。
つぅっと落ちたその涙は、ぽとりぽとりと、テーブルの上に染みをつくる。
「そう、決めたのに…」
水瀬先生は私を見つめる。
昔、罪を犯してしまった私を。
「断ろうと思います。思っているのに…頭じゃそう理解しているのに、私、未来ちゃんに会ったら、もう、断れない…」
涙が電灯の光を浴びて、キラキラと輝いている。
「好きです。好きなんです。私は…水瀬沙織は、姪っ子の星野未来ちゃんの事が…もう、誰よりも、大事なんです」
だから、あの子が悲しむ顔はみたくない。
あの子を悲しませたくない。
ううん。
違う。
そんな、きれいごとじゃない。
水瀬先生は、そっと手を伸ばして、私の左手に触れた。
薬指にはめられた指輪に触れた。
「結城先生、1年前、言われましたよね」
(相手を大事に想って、離れても忘れられずに、その恋が残っているなら)
(恋は追いかけて追いついてきますから)
水瀬先生は、泣きながら、笑った。
「私、追いつかれちゃいました」
あの子に。
恋心に。
自分の中の心に。
私は、あの子が。
欲しいんです。
と、水瀬先生は。
震える声で、でも、はっきりと。
そう、言った。
■■■■■
7月末。
私は電気もつけずに、マンションの中にいた。
夜風がカーテンを揺らして、部屋の明かりが揺らめく。
遠くで、花火の音がする。
大輪の花が、夜空に咲き誇っている。
きらきら。
輝いていて。
「…美麗」
後ろから声がする。
バスローブ姿の愛する人、姉さん、私の恋人、綾奈。
「綺麗」
私は姉さんをみて湧き上がった気持ちをつたえると、そのまま、また窓の外を見つめる。
花火が、舞っている。
姉さんは私の隣に立って、そのまま優しく抱きしめてくれる。
姉さんの鼓動と、私の鼓動と、遠くから聞こえる花火の音。
この部屋に残る音は、ただそれだけだった。
今日は花火大会。
あの大輪の花の下で。
新しい花が、咲いているのだろうか。




