第45話 沙織さんの引っ越し【未来14歳/沙織26歳】
14歳の春。
私は、中学3年生になった。
今日は日曜日なので、いつもよりもう少し長く布団の感触を楽しもうとしていたのだけど、それを邪魔する可愛い存在がやってきた。
「ねーちゃー。おきてー」
妹のつむぎが、とことこと歩いてきて私の布団をはぎ取ろうとする。つむぎは小さな手でぐいぐい布団を引っ張っていく。力強くなってきたな、大きくなってきたな、と少し感動しつつ、
「食べちゃうぞー!」
がばっと起き上がり、つむぎを布団の中に引きずり込んでいく。引きずり込まれたつむぎは、きゃっきゃと嬉しそうにはしゃいでくる。楽しい。可愛い。
しばらくそうやって遊んだあと、仕方ないので起きることにした。
リビングに向かうとお父さんがコーヒーを飲みながら座っていた。新聞から目をあげて、私を見ると「未来、おはよう」と笑ってきたので、私も「お父さん、おはよう」と返す。
「おはよー!」
つむぎは笑って手をあげると、ぱたぱたとお父さんに向かって走っていく。そしてそのまま膝の上に飛び乗ったので、お父さんが手にしていたカップからコーヒーが少しこぼれて新聞紙を濡らした。
「紬希もおはよう…今朝は二回目だね」
「おはよー!」
「はい、三回目」
お父さんは嬉しそうにつむぎの頭を撫でている。
コーヒーの香りが美味しそうだったので、私も自分のコーヒーを準備することにした。昔はこの匂いが苦手だったのに、最近は好きになってきている…これが成長してきた、っていうことなのかもしれない。
「お母さんも、おはよう」
いつもどおり、飾ってあるお母さんの写真に向かって挨拶をする。私もつむぎも大きくなっているのに、お母さんだけは4年前と変わらず写真の中で笑っていた。
「今日、お父さんはつむぎを連れて会社にいくんだよね?休日出勤、おつかれさま」
「…まぁ、つむぎを一人にしておくわけにはいかないからね」
そう言うと、お父さんはコーヒーをまた一口すすって、膝上のつむぎを見た。
「紬希も、お父さんのこと好きだろ?」
「ねーちゃの方がすきー」
「…そうかー」
お父さんは残念そうにそういうと、私の方を見つめる。私はやれやれと肩をすぼめた。
「ごめんね、つむぎ。お姉ちゃん、今日は用事があるんだ」
「えー」
頬を膨らませるつむぎが可愛い。もう、この子は世界中の可愛いを詰め合わせて出来上がっているんじゃないだろうか。
こんなやりとりをしながら、朝食も終わり、お父さんはつむぎを連れて外出していった。
「車のカギはそこに置いてあるから、沙織さんによろしく言っておいて」
「ねーちゃー、ばいばーい」
2人が出ていくと、家の中はとたんに静かになった。
春の日曜日の今日、沙織さんは、海と山に挟まれたこの街を出ていくのだった。
沙織さんが勤めている高校は、ここから電車で30分の距離にある。
近いような、遠いような、絶妙な距離。
沙織さんは実家を出て、高校の傍のマンションで一人暮らしを始めることになった。たいていの荷物は引っ越し業者さんがもう運んでくれているらしいのだけど、その他こまごましたものを実家から引っ越し先に持っていくために、車を持っていない沙織さんは今日、お父さんの車を借りるためにやってくることになっていた。
(寂しい)
どうしても、そう思う気持ちが消えない。
去年、私は沙織さんに告白して…そして、断られた。
断られたのだけど…それでも、沙織さんから、好きよ、と言ってもらえた。
私は沙織さんのことが大好きで。
沙織さんも…私のことを、好きでいてくれていて。
それでも、付き合ってはいない、この関係。
沙織さんの引っ越し先とこの街の距離は、電車で30分。近いような遠いようなこの絶妙な距離は、そのまま今の私と沙織さんとの距離にも似ていた。
沙織さんを待つ間、私は椅子に座って、ペディキュアを塗っていた。足の指先の爪が、ほんのりとした桜色に染まっていく。塗りながら、沙織さんのことを思う。私の頬も桜色に染まっていることだろう。
少しでも綺麗になって沙織さんに会いたい。少しでも可愛い私を沙織さんに見てもらいたい。
心臓の音を聞きながら、私は沙織さんの訪れを待っていた。
■■■■■
春の朝の陽射しが柔らかい。
私は家を出ると、空を見上げた。水色の空を、霧のような白い雲が広がって斑に染めていた。
今日は引っ越し作業なので、できるだけラフな格好で外に出る。
歩きながら、海の潮風を感じる。
(もう、この潮の匂いを感じることも無くなるんだな)
そう思うと、不思議な気持ちになる。
生まれてから26年間、私はずっとこの街に住んでいて、ずっとこの潮の匂いに包まれていた。
引っ越し先には海はない。
新しい生活というものを印象付けるのは、視覚よりも嗅覚によるものの方が大きいのかもしれないな、と思った。
何度も通った道をまがり、白い家の前にくる。
以前はこの家のことを、姉さんの家だと思っていた。
今は、未来ちゃんの家だと思っている。
変わらないのは、私が好きな人の家だということだけだった。
(未来ちゃん)
12歳年の離れた姪っ子のことを思う。いつも笑っていて、いつも私のことをまっすぐに見てくれていて、私のことが大好きで、そして、私が引っ越しを決めた理由になった女の子。
(このままずっと近くにいたら)
(もう気持ちを抑えることが)
(できなくなってしまうかもしれない)
好きだから、少し、距離を置こう。
あんまり近くにいすぎたら…私が我慢、できなくなってしまうかもしれないから。
未来ちゃんの家の前につく。
私は大きく深呼吸した後、扉をあけた。
「おはよう」
「おはよう、沙織さんっ!」
昔と変わらない明るい声。いつも元気に、真っ先に私を出迎えてくれる透き通った声。
春の陽射しよりもずっと暖かい晴れ渡った表情で、未来ちゃんが私を出迎えてくれた。
薄着で、身体のラインがはっきりとわかる。明らかに膨らんできているその胸をみて、その中身を想像してしまい、私はあわてて目を逸らした。
未来ちゃんの足元をみる。
桜色にそまった足の爪。
「綺麗だね」
思わず、声をあげる。
「えへへー。沙織さんにそう言ってもらえて、嬉しい」
本当に嬉しそうにしている未来ちゃん。少し幼さを残していたポニーテールはもうやめていて、今は肩を少し超えたあたりまでのセミロングになっている。
その首筋のした、未来ちゃんの鎖骨が見えて、どきっとする。
(…可愛い)
この年頃の女の子は、毎日おどろくほど成長していくもので、女の子から女に代わる過渡期であって、それが好きな子の変化なのだから、心がざわめいてくるのを押しとどめることは到底できることではなかった。
しばらく黙ってみていたら、未来ちゃんが首をかしげて私を見つめ返してきた。
「沙織さん、どうしたの?」
「な、なんでもないよ」
しまった。
あんまり可愛かったものだから、つい、見入ってしまっていた。
あんなに小さかった未来ちゃんも、もう私と変わらないくらいに背が伸びていた。
中学3年生の女の子と、26歳の社会人の私だけど、立場は違っても身長の差はほとんどないんだな、追いつかれてきたな、と思ってしまう。
「そ、そろそろ行こうか」
私はあわてて話題をそらすと、未来ちゃんから車のカギを受け取った。
心臓がどくどくいっているのが分かる。
好きな子と過ごす時間は…どうしてこう、刺激的なものなのだろうか。
引っ越し先まで電車で30分。車でいっても同じくらいの時間がかかるかな。車の中、密室の中。
好きな子と密室の中で30分以上。
(私、耐えられるだろうか)
そう思いながら、それでも私は、高鳴る胸を抑えることは出来なかった。
■■■■■
「ここが、沙織さんの新しいマンション?」
「ええ、そうよ」
車から降りて外の空気を吸う。私の家なら潮の匂いがするのに、この街の空気には潮はまったく含まれてはいなかった。
隣に立っている沙織さんを見て、目を逸らす。
(…まだ、胸がドキドキしている)
車の中でいろんな会話をしたはずなのに、その会話のことをまったく覚えてはいなかった。
運転をしている沙織さんは綺麗で、とっても綺麗で、なんていうか、綺麗で、ああもう、私の語彙力がないのが悔やまれる。
あの白い指先がハンドルに触れているのをみるだけで、私はハンドルになりたいと思ったし、触ってもらいたいとも思ってしまった。
車の中の空気は沙織さんの匂いでいっぱいで、私の肺の中は沙織さんで充満していて、息を吐くのがもったいなかった。
「…」
そっと、沙織さんの手を見る。
さっきまで、ハンドルを握っていた手。白い指先。綺麗。
「…沙織さん」
「なに?」
「…手…握っても…いい?」
私、何言っているんだ。
困らせちゃうじゃないか。沙織さんが私を見る目つきが変わってしまったような気がする。恥ずかしい。でも、我慢できなかったんだ。
「人が見てるから」
「ちょっとだけ…少しだけ…」
恥も外聞もなく、頼み込んでしまった。
なにやってるんだ。なにやってるんだ、私。
ああ、もう。
駄目だな、私。
「…」
暖かい。
沙織さんの手。
沙織さんは、なぜか頬を少し紅潮させたまま、何もいわず、そっと、私の手を握ってくれた。
「…」
私も何も言えなかった。
ただ、マンションの前で、沙織さんがこれから住むマンションの前で、2人で手をにぎって、押し黙って、下を向いて、握った手を通じてお互いの体温を交換しあっていた。
胸がドキドキしていて、もう、心臓が耳の後ろについているんじゃないかと思った。
隣を見る。
私と沙織さんの身長は同じくらいだから、沙織さんの顔も私の顔の傍にあった。
(同じ)
私と、同じみたい。
え…なんか…なんか…
嬉しい。
「沙織さん…」
と、声をかけようとした時。
「あ、水瀬先生」
声をかけられた。
マンションから出てきたその人は、煌めくような金髪で、白皙のような白い肌で、沙織さんより少しだけ年上にみえて、そしてびっくりするくらいの美人さんだった…まぁ、沙織さんには及ばないけど?
「結城先生、おはようございます」
「もうお昼前ですけどね」
そう言うと、結城先生と言われた女の人は笑った。
いつの間にか、沙織さんは手を離していた。寂しい。私は離された手を、もう片一方の手で握りしめる。
自分の体温じゃぁ、さっきみたいな暖かさを感じることができなかった。
「…あら」
その結城先生のうしろに、もう一人、美女がいた。
落ち着いた感じの、赤い服を着た人。長い黒髪…沙織さんよりも長い、腰まで伸びる艶やかな髪。
なに、このマンション。美人しかいないの?
こんなところに沙織さん住むの…沙織さん、とられちゃわないよね。
じーっと見つめる私を見て、その美人さんは笑った。
「はじめまして、結城綾奈です。こちらの結城美麗の姉で…」
「恋人です」
言い切る前に、結城先生?と言われていた金髪の人が言葉をさえぎり、そのまま彼女の手を組んだ。
「ふふ、恋人です」
「妻です」
また関係性をレベルアップしてくる。
「水瀬沙織です。いつも結城先生にはお世話になっています…これから同じマンションに暮らすことになりましたので、どうか宜しくお願いいたします」
「こちらこそ、よろしくお願いします…私たち、用事があるので、これで失礼いたしますね。行きましょう、美麗」
「うん、綾奈」
2人はそう言うと、一礼をして私たちの間を通り過ぎていった。
通り過ぎたあと、美麗、と言われた方の、金髪の美人さんの方が少し振り向いて、沙織さんに向かってウィンクした。
「!?」
なんで?
なんでー!
沙織さんを見ると、すこし苦笑しながら、手を振っていた。
なんでー!
このマンション、危険かもしれない。
こんなところに沙織さんを一人で住まわせるなんて、猛獣の群れの中に霜降り牛肉を置いておくよりももっと危険かもしれない。
ぐるる、とそんなことを思っていたら、沙織さんがぽんぽんと、優しく私の頭を撫でてくれた。
「行きましょう、未来ちゃん、引っ越し手伝ってくれるんでしょう?」
「…うん」
そのために来たんだし。
でも…さっき見たあの美人姉妹…美人夫婦?美人妻妻?を思い返す。
やっぱり、危険だなぁ。
そんなことを思っていたら。
「…っ」
手が、暖かくなった。
ほわぁっと、心が暖かくなる。
(沙織さん)
沙織さんから、手を、握ってくれた。
沙織さんは恥ずかしそうで、視線は私から離しているけど、つながれた手がその気持ちをはっきりと伝えてきてくれていた。
やっぱり、私。
沙織さんのことが…大好きだ。
私は沙織さんの手をぎゅっと、ぎゅーっと握り返して、えへへ、と笑いながら、沙織さんの新しい引っ越し先へと向かっていった。
この時の私は知らなかったけど。
知るはずもなかったのだけど。
未来。
4年後。
私は、このマンションに。
沙織さんと一緒に、住むことになるのだった。




