第43話 私は…【未来13歳/沙織25歳】
小さな水滴が長い時間をかけて石に穴をあけていくように、未来ちゃんから寄せられるまっすぐな「好き」という感情が、私の心に少しずつ穴をあけていったようだった。
小さなひび割れから中にたまった想いという名の水が零れ始め、一度溢れ出した想いはひびを押し広げて穴が大きくなっていく。
その想いを止めようと手で蓋をしても、指と指の間から零れていくのを止めることは出来なかった。
朝の光が、カーテンのすき間から白く差し込んできていた。
いつもより少し早く目が覚めてしまったせいで、胸の奥にあるざらついたものが、まだ夜の続きのように残っていて離れない。
昨夜の未来ちゃんの顔が、表情が、頭から離れない。
(沙織さん、好きです。付き合ってください)
まっすぐで、何一つ飾らないむき出しの心。
あの子らしい、優しくて不器用な告白だった。
(私も、未来ちゃんのこと…好きよ)
思わずこぼれ出た私の本音。私ですら気づいていなかったこの気持ちを、それでも何とか押しとどめようとあがいてた。
「好きよ、か…」
口に出して、寝返りをうつ。
お気に入りの枕を抱きしめながら、目を閉じる。
そして、昨夜、その後に続けた言葉を心の中で反芻する。
(…でもね、ごめん。未来ちゃんと付き合うことはできないの)
未来ちゃんは、まだ13歳。
ほんの少し前まで、制服のリボンの結び方も分からなかった女の子だ。
それでも、未来ちゃんを見るたびに、心がうずいていくのが分かる。
未来ちゃんが笑うたび、少し背伸びした仕草を見せるたび、どんどんと彼女が「女の子」から「女」へと変わっていこうとしているのが伝わってくる。
その変化が、嬉しくて、苦しくて、怖い。
(未来のこと、お願いね)
姉さんの最後の言葉。
我が子を思う、母の言葉。
私が愛した人から頼まれた、愛する子を託された言葉。
その愛の言葉は、今は私を呪いのように縛り付けている。
優しい愛の言葉は黒いいばらの棘となり、私に巻き付いて離れずに、私の身体の奥底にある心を閉じ込めるように締め付けてきている。
「私が…未来ちゃんを壊してしまうかもしれない」
13歳のか弱い女の子を、ガラス細工のように繊細な、大好きだった姉さんの残した宝物を、願いを託された私自身が、壊してしまうかもしれない。
守らなければならない対象を、握りしめて、手の中で粉々にしてしまうかもしれない。
ぎゅっと枕に抱き着いて、顔を押し当てて、息ができなくなるくらい縮こまる。
もう死んでしまった姉さん。
本当は、愛する我が子の成長をずっと見守っていたかったはずの母親。
いなくなってしまった姉さんには、声をかけることもお願いすることもできない。だからただ、彼女が残した最後の言葉を、粛々と守っていくしか他に方法がない。
枕もとのスマホが震えた。
私は手を伸ばすと、画面を見つめる。
届いていたのは、未来ちゃんからのたった一行のメッセージ。
『昨夜は困らせてしまってごめんなさい』
胸の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
困らせてしまったのは私の方なのに…あの子は…どうして…優しすぎるのだろう。
嫌なわけじゃない。
むしろ、未来ちゃんの気持ちが嬉しかった。
嬉しすぎて、気持ちに応えてあげたくて。
でも、そんなことは言えない。
(私は大人で、教師で、叔母で)
(そして、何より…)
(未来ちゃんを守らなければいけない立場だから)
私はベッドから起き上がり、鏡の前にたった。
寝ぐせのついた髪をとかしながら、そこに映る自分の姿をみつめる。
立っているのは、冷静さを装った大人の女。
暗くよどんでしまった目。
…けれど、その瞳の奥底に見え隠れしているのは、昨夜の余熱を引きずっている…『ひとりの女』の表情だった。
「…だめだな、私」
ため息をつきながら、ブラウスのボタンを留める。
零れだす想いは尽きることがなく、私を濡らして、女に変えていく。
(駄目)
(いけない)
(ちゃんと…これからも、未来ちゃんの前では、優しい沙織さんでいてあげなくちゃ)
指先が震える。
想い浮かべるのは、未来ちゃんの笑顔。
(…だんだんと…)
(姉さんに…)
(似てきたな…)
かつて、私が愛した人に。
ずっと恋焦がれて、そしてついに手が届かなかった初恋の人に。
未来ちゃんの中には、あの人の残滓が確実に残っている。
だから惹かれてしまうのだろうか。
だから好きになってきてしまっているのだろうか。
(駄目)
(未来ちゃんは)
(私が守らなきゃいけない対象で…)
ううん。
本音から…目を逸らしてはいけない。
姉さんの最後の言葉も、表情も、思いも、私を縛る黒い鎖も、棘も、全部全部ひっくるめて、そこに残る答えは…
(私は…姉さんの代わりを…未来ちゃんに…)
求めてしまっているのかもしれない。
それは最低の行為だ。
人として、恥ずべき行為だ。
あっちが駄目だったから、今度はこっちで、なんて。
恥ずかしい。
私は自分で自分が恥ずかしい。
(抑えなきゃ)
この、生まれ始めた感情を、気づいてしまった感情を、出してはいけない感情を、溢れ出してくる感情を、抑えないといけない。
人として、私が人でいるために。
私は鏡をもう一度見る。
そこにうつっている、女の顔をした自分を見る。
女から、母親になろう。
女から、叔母になろう。
感情を、理性で押さえつけよう。
大事なあの子を、姉さんの忘れ形見を、キラキラ輝く宝物を。
守るために。
そう決意し、私はその場にうずくまった。
背を丸くして、鏡をみないようにして。
固く、硬い決心をして。
そして零れてきた言葉は。
「…でも…好き…なの…」
殺しきることのできない、醜いばかりに飾ることのできない、私の、女としての本音だった。
結局、いくら取り繕ったところで、見ないようにしたところで、一度溢れだした想いを止めつくすことはできないのだった。
私の初恋は実らなかった。
実らなかった想いに、意味はあったのだろうか。
ううん、実らなかったからこそ、意味を求めて、初恋にしがみついているのかもしれない。
意味があったのだと思いたいのかもしれない。
私は初恋をかかえたまま、一生生きるつもりだった。
初恋を最後の恋にするつもりだった。
初恋が終わったいま、私に恋は残っていないはずだった。
光なんてこない。
私は一生、暗いままだ。
暗いままの、はずだった。
そのはずだったのに。
未来ちゃんの笑顔。
まっすぐな笑顔。
溶けていく。
ああ、そうか。
いろいろ考えたけど。
いろいろぐちゃぐちゃに考えたけど。
答えは…簡単なものだったんだ。
わたしは、ただ単に。
同性に。
姪っ子に。
12歳年の離れた女の子に。
恋してしまった、それだけのこと。




