第36話 その感想を語るにおちる【未来13歳/沙織25歳】
夜。
私はもう暗くなった部屋の中で、自分の机に座ると、テーブルランプの電源を入れた。年代物のそのランプの白熱電球の光が、机の上をほんの少し黄色っぽく染め上げる。
このランプは、お母さんが使っていたランプだった。
もうお母さんはいないけど、それでも形見のランプを使っていたら、そばにお母さんがいてくれるような気がしてきて、ほっと心が暖かくなる。
鞄から一冊のノートを取り出し、机の上に広げる。
今日、凛から借りてきたノート。開くと、中は文字で埋め尽くされている。
(私と同じ)
手書きなんだ、と思った。
几帳面な文字で、凛の性格がうかがい知れる。
まだ出会って数日しかたっていないにも関わらず、私は、凛に好印象を抱いていた。
『彼女の指先が触れた瞬間、世界が音を失った』
『どうして好きになってはいけないの?』
『私は、ただあなたの隣で笑いたいだけなのに』
凛が綴った物語は、女の子が、女の子を好きになる話だった。
いたいけな少女たちが、恋に落ちていく話。
その恋愛は、官能的な…ある種の肉体的な表現を用いられていた。
私だって、もう13歳で、中学生で。
いわゆる…「そういう」感情がないとは言わない…むしろ…多い方…かもしれない。
思うときは、つねに、沙織さんを想う。
おわって、洗面台で手を洗っている時、口にしずらい罪悪感に襲われる。
好きな人を想うことは、いけないことなんだろうか。
私は、いけないことをしているのだろうか。
いつもそう思って、でも誰にも打ち明けることなんてできなくて。
大事な親友にも…美月にも、颯真にも、私の中の好きって気持ちを伝えたことはあっても、この心の奥にあるどろどろっとしたものまでは伝えてはいない。
『たとえ誰に知られなくても、それが恋であったことに、嘘はない』
凛の書いた物語の中で、2人の少女は手をとりあって、混ざり合って、一つになって、それでもなお、最後には別々の道を歩いていっていた。
冷たい。
なんだろう。
気が付いたら、私は、泣いていた。
泣いているつもりはなかったのに、目から涙があふれてきて、止まらない。
胸の奥が、熱くて、苦しい。
「女の子が、女の子を好きになるなんて…いけないこと」
声に出す。
今までさんざん、教えられてきた言葉。
美月も、颯真も、私の言葉を大切にしてくれて、私を気遣ってくれて、ずっとずっと大事な親友なんだけど。
それでも、その瞳の奥から、私の想い…沙織さんに対する想い…への、忌避感が潜んでいることは伝わってきている。
(ううん)
それは、当たり前のこと。
当たり前じゃないのは私で、それでも、こんな当たり前じゃない私を受け入れてくれている二人は…
(優しい…ね)
胸に手をあてて、あの2人が親友でいてくれて、本当にありがたいな、と思った。
(けど)
凛の描く世界の中は。
私が今まで…知らない世界だった。
(誰かを気づ付けない限り)
この感情を、持ってもいいの?
凛の世界の少女たちは美しく、穢れてしまった後も清らかで、優しくて、優しくて、
その優しさが、逆に怖かった。
仄暗い水の奥に落ちていくようで。
優しさは赤く燃え上がる火とは違って、静かで静寂な湖で。
一度沈んでしまったら…もう二度と、浮かび上がってこれないような気がする。
湖の中からいくら手を伸ばしたとしても、その手を握ってくれる人はいない。湖の遠くから、小さい影となって心配そうに声をかけてくれるだけだ。
優しい2人は声をかけてくれるけど、私は湖の底に沈んで行って…足首が、捕まれているような気がした。
その手は、知り合ったばかりの、黒髪の、眼鏡の女の子。
私は…
「…ちゃ」
光が、後ろから私を照らす。
「ねーちゃっ」
「つむぎ…っ」
いつの間にか、つむぎが私の傍に来ていて、パジャマ姿のつむぎが、心配そうに私の手を引いていた。
「いたいの?おなかいたいの?」
じっと私の目をみつめてくる。まっすぐに、私だけをみて。
時々、月に数日か、私がお腹が痛くて横になっている時も、つむぎはこうやって私の傍にきて私を助けようとしてくれる。
私がつむぎを守らないといけないのに、庇護対象のはずのつむぎの方が、私を気遣ってくれている。
「大丈夫、大丈夫だよ」
「ねーちゃ…ないてる」
「ううん、大丈夫」
私は袖で涙をぬぐって、つむぎを抱きかかえる。
「つむぎちゃんのおかげで、お姉ちゃん、とっても元気になったんだからっ」
私は光につつまれて。
まだ、ここにいてもいいんだ、って思った。
■■■■■
翌日の放課後。
授業が終わると、私はすぐ、教室を出た。
颯真からの言葉も、美月からも言葉も、すべてを差し置いて、私にはいかなければならない場所があった。
同じ教室では語れない。
語れるのは、窓から金色の光が差し込んでくる、文芸倶楽部の部室の中だけ。
私は誰もいない部室の扉をあけ、ノートを手にしたまま、その子が来るのを待っていた。
教室を出る時、「先に、待ってるから」と伝えていた。
息をのんで、心臓を落ち着かせながら、部室の扉が開くのを待つ。
待つ時間は長かった。
自分の心臓の音だけが耳の奥から聞こえてくる。
まだ…まだなの?
そう思って、扉をみつめ、その扉が、開いた。
「ごめんなさい、遅くなりました」
入ってきたのは、転校してきたばかりだからまだ新しい制服に身を包んだ黒髪の少女。
「こっちこそ、ごめんね、凛」
私はそう言うと、凛の後ろにまわり、凛を椅子に座らせた。
そのまま、そっと、部室の扉に鍵をかける。
誰も来ることはないだろうけど…それでも、今日だけは、誰にもここに入ってきてほしくはない。
「…凛の小説、全部読んだよ」
「ありがとうございます」
凛は控えめにほほ笑んだけど、その瞳は、嬉しそうに輝いていた。
自分が作った物語を人に共有することができる…その気持ちが、彼女を高ぶらせているのかもしれなかった。
「あの…なんていうか…」
私は、何をどう話せばいいのか、少し迷ってしまった。
いろいろ話をしたいと思っていたけど、いざ、その時がきてしまうと、とたんに頭の中が真っ白になる。
「すごく、おもしろかった」
言葉に出すと、とたんに鎮撫なものに感じてしまう。いや、違う、私が伝えたいのは、もっと別の、根源的なことなんだ。
「綺麗だった。切なかった。最後は泣いちゃってた」
感情をそのまま伝えていく。
凛は、嬉しそうに聞いていた。
登場人物の描写や、動きや、考えや、いろんなことを、私が感じたことをそのまま口に出していく。
凛はにこにこしている。
自分の創作物が受け入れられた悦びなのだろう…私にはまだ分からない…私は自分が書いた小説を誰かに読んでもらったことが一度もないのだから。
私が熱弁して、凛がそれを受け止める。
ファンの言葉と、作者の態度。
私の中に、少しの違和感が生まれる。
ちがう。
私が語りたいことは…聞きたかったことは…
ちょっとずれているのかもしれない。
私は唾を飲み込んで、少し黙った。
「…未来?」
不思議そうに、凛が首をかしげる。
「あのね」
言葉が喉につまって、そこからなかなか出てこようとしない。
私は言い淀んで、喉の奥が乾いて、ちりちりする。
聞いちゃいけないのかもしれない。
聞くべきではないのかもしれない。
でも、聞きたくて仕方がない。
私は、知りたい。
あの物語を。
私に涙させたあの物語を、書ける人の、気持ちを。
「…凛も…、女の子なのに…女の子が、好きなの?」
沈黙が流れた。
部室の中の空気が凍ったかのようだった。
耳をすますと、外から部活をしている子たちの声が聞こえてくるかのようだった。
音がないのはこの部室だけで、止まった時間が痛かった。
「えーっと」
困惑したように凛は顔をあげると、その黒髪をそっとかきあげて、淡いまつげを瞬かせながら、苦笑しながら言葉を続けた。
「私は…物語書くのは好きだけど…いわゆる、そういうのは無いかな…」
少し困ったような表情を浮かべる凛を見て、私はあわてて空気をかえるように口を開いた。
「あ、ごめんごめん、そうだよねっ」
焦って手をぶんぶんとふりながら、場を取り繕うように言葉を続ける。
「いや、変なこと聞いちゃってごめんね。なんかその、凛の書いた物語がすっごくリアルだったから、だから、ついつい登場人物たちに凛を重ねちゃって…っ」
「ふふ、そこまで深く読んでくれて、嬉しいです」
凛は笑った。
笑って、顔を近づけてくる。
「今度は、私が未来の書いた小説も読みたいな…見せてもらえますか?」
「うん、こんど、こんどねっ」
今はここにないから、家にあるから、と私は汗をながしながら、慌てながら、そう答える。
うしろに後ずさって、後ろ手で部室にかけていた鍵を外す。
これで、ここは、閉じられた密室じゃなくなった。
「約束ですよ」
凛が言うのを見て、私も「うん、やくそく、約束っ」と返事をする。
返事をした私の頬は、たぶん春先の桜よりも赤くなっていたと思う。
■■■■■
部室でのやりとりからだいぶ時間もすぎて。
帰宅した私は、自分の部屋を眺めていた。
自分の部屋、といっても正確にいえば私の部屋は半分だけだった。
葵と共同で使っているこの部屋は、真ん中を境にして、見事に受ける印象が変わっている。
私の部屋は、綺麗に整理整頓された本で本棚が埋め尽くされていて、机の上においてあるものも全部きれいに並べられている。
対して、私のふたごである葵の区分は…
(映画のポスター)
(転がるバレーボールにバット)
(心理学の本に、演劇の本)
(メイク道具に、その他いろいろ…雑多なもの)
時々、本当に私と同じDNAを持っているのか疑わしくなる。
まぁ、それはいい。
今日はとっても…とても、素敵な一日だったのだから。
(自分の小説の感想教えてもらえるのが、こんなに嬉しいものだなんて9
知らなかった。
初めての経験だった。
前の学校では、小説書いている子なんていなかったし、そもそも本が好きな子だって少なかった。
前の学校では…
(いろいろ)
そう、いろいろ、あったから。
そう思い、まだ主人の帰ってきてない、自らの部屋の隣半分を眺める。
壁にかかっている制服。
今の中学の制服に…前の学校の制服。
ナイフで、ずたずたに引き裂かれた、葵の服。
(未来)
新しくできた友人のことを思う。
はじめて、私の小説を読んでくれた子。
美人さん。
たくさんたくさん、私の小説の感想を言ってくれた。
すっごく嬉しかった。
快感だった。
とけそうだった。
未来の言葉を思い出す。
言われた言葉は、一語一句、たがえることなく復唱することができた。
(…凛も…、女の子なのに…女の子が、好きなの?)
…
言葉がひっかかる。
なにか、喉元に、魚の骨がささったかのような。
なんともいえない、違和感。
なんだろう。
頭をひねって、思い出す。
あの時の、未来の顔。
紅潮した、未来の顔。
汗。
(あ)
そうだ。
あの時、
(…凛も…)
(…)
『も』
たった、一文字。
けれど、その一文字が、私の胸を静かに締め付けた。
「…も、ということは…未来は…」
違和感の正体に気づいて、指先が震える。
唇が動く。唇が震える。
…も、女の子なのに、女の子が、好きなの?
なら。
未来は。
「…女の子が…好き…なの?」
部屋の電灯が、またたいた気がした。
それは気のせいだったかもしれない。
ただ、気のせいではないことが、一つだけあった。
それは、私の世界が。
私の中に、新しい「物語」が。
生まれた瞬間だった。




