第32話 そしてまた春はやってくる【未来10歳/沙織22歳】
秋。
山々は紅葉し、海辺の街は青い海と紅い山とに挟まれる。
風が吹いて、落ち葉が舞う。
私はぼぅっとして、教室の窓の外の風景を眺めていた。
先生の声が遠くに聞こえる。今は授業中。算数の時間だった。先生は黒板にいろんな数字を書いているみたいだけど、私はちらりとそれを見ただけで、すぐにまた視線を外に戻す。
「落ち葉…綺麗」
山を見る。この街に引っ越しをしてくるまで、私は山奥の田舎に住んでいた。この時期になると、暖かい色の落ち葉に包まれていたものだった。
今は、海が見える街に住んでいる。
海に紅葉はないのに、春の海と、秋の海とではやっぱり目に入る色が変わっているような気がする。
変わったのは、海ではなく、見るものの心の方なのかもしれない。
「沙織さん…」
山にいたころには知らなかった人。
海の街に来て知り合った人。
私が大好きな人で、私のお母さんの妹。
「はやく授業終わらないかな」
今日の放課後は、いったん家に帰って、それから家族みんなで出かける予定になっていた。
私にとっての家族とは、お父さんと、つむぎちゃんと、沙織さんだ。
(家族)
そう、沙織さんは、家族だった。
お母さんが亡くなってから、頻繁に私の家に来てくれている。泊ってもくれる。一緒につむぎちゃんの世話もしてくれる。
朝ごはんも作ってくれるし、後片付けもしてくれる。
一緒に座ってテレビを見ることもあるし、なんなら、時々一緒に寝てくれることもある。
まるで、お母さんのように。
私の心の中にあいた、お母さんっていう穴を、沙織さんは必死になって埋めてくれているみたいだった。
私が寂しくないように。
私が悲しまないように。
けど。
(…沙織さんは…お母さんじゃない)
頭では分かっているのに、こころでも分かっているのに、それでも、ずっとそんなふうに接してくれているから、時々、ふっと、沙織さんのことをお母さんと勘違いしてしまうことがある。
私の初恋。
生まれて初めて、好きになった人。
その大事な初恋が、キラキラしている初恋が、優しくやさしさと思いやりにつつまれて、その暖かさゆえに、中の光がくすんで見えなくなっていくようで、そんなことを思うこと自体が、いやだった。
(好き)
この気持ちは変わっていないはず。
変わっていないはずなのに。
「未来ちゃん」
「おい、未来」
席の隣と後ろから、同時に私を呼ぶ声が聞こえてきて、私は妄想から引き戻された。
親友の美月が心配そうに私を見つめてくれている。
颯真が私の後ろから小声でつぶやいてきてくれている。
「しっかりしていないと、先生にあてられるぞ」
「…ごめん」
視線を前に向ける。
先生と目が合った。
「お、星野、ちょうどいい、この問題分かるのか」
先生はそう言うと、手を腰にやって私に立つように促した。
「…すまん」
颯真が小声であやまってきて、「いいよ、気にしないで」といって私は立ち上がり、黒板へと向かった。
さぁ。
なんといって。
先生にあやまるとするかな。
手に国語の教科書をもったまま、私は数式が書かれている黒板の前に立ったのだった。
■■■■■
「水瀬先生、今日のお昼はお弁当ですか?」
「昨夜の残り物を詰めただけなんですけどね」
お昼時、職員室の自分の机に座ってお弁当箱のふくろを開いていたら、隣の席の結城先生がそう声をかけてきた。
みてみると、結城先生は手にパンの袋を持っている。
「結城先生は?」
「カレーパンです」
購買にいったら生徒たちとの戦争になっちゃうので、受け持ちの授業がなかったから、授業中に先に買いに行ってしまいました、と、悪びれもせずに言うと、結城先生はぺろりと舌を出した。
美人はなにをしても許されるな、と思った。
「美人はなにをしても許されますね」
思うだけじゃなく、口にも出してみた。
新任教師としてこの高校に赴任してきてもう半年が過ぎた。結城先生とは、こういった軽口を言い合える程度の仲にはなっていた。
「本当は」
愛妻弁当を持参してきたいんですけどね、と、結城先生はぽそりとつぶやく。
(愛妻弁当…)
この言葉の重みを、私は知っていた。
結城先生は、結婚はしていない。していないけど、一緒に暮らしている人はいる。その相手は…同性で…同じ女で…そして…
(お姉さん)
だった。
女同士で姉妹同士なので、もちろん結婚などできるはずもない。だから、戸籍上は、結城先生は独身だった。けれど実際は
(結婚、しているようなものなのか…)
変な感覚に襲われる。
世の中には、たとえ血がつながっていようとも、たとえ女同士であっても、そんな壁も障害も気にせずに乗り越えていく人種というものが、たしかに存在するのだった。
存在というか、むしろ目の前にいる。
「…ん、美味しい」
その存在、結城先生は美味しそうに頬張りながら、私の視線に気づいたのか、口にカレーパンを含んだままで私を見つめると
「ふぉふぃいです?ふぉのふぁん?」
と声をかけてくる。
…せめて、パンを飲み込んでから言ってほしい…たぶん、「欲しいです?このパン?」と言ってきたのだろうけど、分かるけど、けれど問題はそうじゃない。
「あげれませんよ」
食べちゃいましたから、と、パンを飲み込んでから結城先生は言った。
「それはそれとして」
にこりと笑って、私の持参した弁当を見てくる。
「その卵焼き、食べたいです」
「…どうぞ」
昨夜の残り物のひとつである卵焼きにを一つとると、そのまま結城先生の形のいい唇の前に持っていく。結城先生は嬉しそうに笑うと、ぱくんと一口で食べてしまった。
「うん。美味しいです。水瀬先生、いい奥さんになれますよ♪」
「…私が奥さんになれるわけがないじゃないですか」
知ってるくせに、と思う。
結城先生は…この人は…私が…私の恋愛対象が女だと知っているのだった。
当然、私から言ったわけでもないし、深く質問詰問されたわけでもない。ただ、この人は、当たり前のように、知っているだけだった。
(まぁ)
自分がそうだから、同類を見つけるのがうまいのかな、と思った。この人は私と似ていて、そして似てはいなかった。
私が渇望して熱望してどうしても手に入れることができなかった未来を、この人は全て手に入れていた。
そしてそれは…不快ではなかった。
美人、だからではなく、結城先生から醸し出されている雰囲気というか、生き方そのものが、何か透き通るような純粋さを持っているからかもしれない。
「私たち、いい友人になれそうですね」
「そうです?」
「そうですとも」
結城先生はそういうと、にっこりと笑って…私のお弁当箱の中身をもう一度みつめる。
「わたし、プチトマトが欲しいです」
「本当にいい友人になれそうだわ…」
私は半分あきれると、ご所望のミニトマトを差し出した。
結城先生は嬉しそうにそのトマトを食べるといった。
「…この御恩は、絶対に忘れませんから」
「利子付けて覚えておきますね…」
後から考えると。
このプチトマト一個から私が受け取ることになった利子は、山ひとつの農地からとれるどんな作物よりも大きくて巨大でありがたいものになったので。
私は、いい取引をしたものであったのだ。
■■■■■
学校が終わって帰宅すると、沙織さんが先に来ていた。
「沙織さーん!」
嬉しくなって、とるものもとりあえず、真っ先に沙織さんに飛びつく。
もういつもの光景になっていたので、沙織さんはよろめくことなく私を受け止めてくれた。
「おかえり、未来ちゃん」
「沙織さん、ただいま!」
海からふいてくる潮風が、足元に落ちていた紅葉したもみじの葉を宙に舞わせていた。
見上げると、沙織さんの綺麗な黒髪も揺れている。沙織さんの黒髪は紅葉することなく、深くて艶のある透き通った闇の色をしている。
「お、未来、かえったか」
家の奥からお父さんの声がする。
「うん、ただいま、お父さん!」
家の中に向かって私が挨拶すると、かえってきたのは。
「うーーー!」
つむぎちゃんの声だった。
続いて、つむぎちゃんを抱いたままお父さんが出てくる。生後六か月を過ぎたつむちちゃんは生まれた時の倍くらいの大きさになっていて、最近は言葉にならない言葉をあげては、きゃっきゃと嬉しそうに笑うことが増えてきた。
正直、可愛い。
この笑顔を見てしまったら、夜泣きで私を眠らせないことやミルク飲んではげぷーってすることやうんちたくさん出してオムツいっぱいにすることなんかも、全部全部吹き飛んでしまう。
「つむぎちゃん、ただいまー!」
「あーーーーー」
私の言葉が分かるとは思わないけど、私を見て顔をくしゃっとほころばせるつむちちゃんは、誰にもあげたくない私の大切な宝物であり、妹だった。
「未来、じゃぁ荷物を部屋においてきてくれ、すぐに出発するから」
「わかったー」
お父さんの声に素直に従って、私はつむぎちゃんに「ちょっとだけばいばい」と言って家の中に入る。そしてランドセルを机の上におくと、そのまますぐに外に出て、「つむぎちゃんただいま」と言ってそのぷにぷにのほっぺを触った。
「車準備するから、紬希持っていてくれ」
「うん、お父さん。つむぎちゃん、お姉ちゃんと一緒にいようね」
「あーーーー」
つむぎちゃんを受け取る。ちょっと重い。動くからさらに重い。
「未来ちゃん大丈夫?」
「大丈夫だよ、沙織さん」
だって私、お姉ちゃんだから!
お父さんが車を出してきた。いつも家族で乗ってるこの車。いろんな…本当にいろいろな思い出のつまった、この車。
「じゃぁ、出発しようか」
お父さんが運転席。後部座席に乗せたチャイルドシートにつむぎちゃんをしっかりと乗せてハーネスつけて、私がその隣に座る。沙織さんは助手席に乗って、家族がそろう。
ちゃんと後方確認すると、お父さんはそろりそろりと安全運転で、今日の目的地に向かって車を出発させた。
■■■■■
海が見える小高い丘。
潮風がギリギリ届かない距離。
代わりにまるでカーペットのように落ち葉が敷き詰められた一角。
私たち家族は、お母さんに会いに来ていた。
「また来たよ、お母さん」
私はつむぎちゃんを抱きかかえたままそういうと、お母さんの名前が刻まれたお墓の前に立った。
黒い御影石の墓は、磨かれた表面で秋の陽光を柔らかく反射している。
墓に刻まれたお母さんの名前を、私は指でそっとなぞった。
(冷たいな)
と、思った。
指先が少し濡れている気がする。お母さん、寂しくないかな。お母さんが寂しくないように、これからもいつも来るようにするね。
今日は、お母さんの月命日だった。
私たち家族はお母さんの墓に来て、掃除して、お花を添えて、そして祈った。
「あーーーうーーーーーー」
つむぎちゃんだけは祈ることなく、大きな声をあげて私に抱かれたまま動き回る。でも、どんな祈りよりも、このつむぎちゃんの鳴き声の方が眠っているお母さんを安心させてあげれるんじゃないかな、と思った。
みんなでお祈りした後、お父さんが先に車の準備をするために離れる。
私はつむぎちゃんをあやした後、もう一度お母さんのお墓を見る。
沙織さんが、まだ、祈っていた。
手を合わせて、目を閉じて。
泣いている。
声はあげていないし、嗚咽もしていない。
ただ、静かに、祈りながら、泣いていた。
沙織さん、と声をかけようかと思ったけど、声をかけちゃいけない気がした。
風が吹き、落ち葉が舞って、祈りが終わる。
沙織さんはふところからハンカチを取り出すと目をぬぐって、それから初めて私が見ていることに気づいて、目の端を紅く腫らせたまま、ごめんね、と謝ってきた。
ううん。
あやまることなんてない。
あやまることなんて、なにもないんだよ。
「待たせたね。じゃぁ、行こうか」
踵を返して、私の前を進む沙織さん。
その背中を見て、私は、思わず声をかけてしまった。
「沙織さん…お母さんのこと…好きだった…?」
沙織さんは足を止めて、振り返ることなく、小さな声で、でもはっきりと、言った。
「…うん。好き…だった」
声に込められた想いが、私に伝わってきた。
沙織さんはそのまま歩いていく。
私はつむぎちゃんを抱いたまま、その背中を…寂しそうな背中を見つめる。
(あ)
(そうか)
分かってしまった。
今まで見えていたのに、見ていなかったものが。
見えてしまった。
(沙織さん)
(お母さんのことが)
(…)
私は、沙織さんが好き。
大好き。
だから、いつも、気持ちを伝えている。
けど。
沙織さんが私に向けてくれる瞳は…優しくて…暖かくて…柔らかくて…
お母さんみたいで。
でも、それだけ、だった。
私の初恋相手が好きな人は、私じゃなかった。
私が好きな人が好きな人は、私じゃなかった。
私が好きな人が好きな人は、もういなくなってしまった。
いなくなってしまったのに…ずっと、あの人の心の中に残っている。
ぽっと。
私の心の中に。
小さな、火がついた。
生まれたばかりのその火は、小さくて、小さくて。
今にも消えそうな火だったけど…たしかに付いていて。
私は、はっきりと、その火を感じて。
心の中のその火に手を伸ばした。
熱い。
焼けるように、熱い。
その火が、私につげてくる。
私を燃やしながら、伝えてくる。
私の中に、生まれた、新しい想い。
(私は)
沙織さんに…
(私を、好きになってもらいたいんだ)
「ああーーーーーうううーーーー」
抱きしめていたつむぎちゃんが泣き始める。
大きな声で、私はここにいるよって、いうみたいに。
私はつむぎちゃんとぎゅっと抱きしめながら、同時に。
私の中に生まれた、新しい想いも…ぎゅっと抱きしめていた。
強く…強く。
■■■■■
3年後。
桜の舞い散る中、私は少し袖の長い制服に身をつつんだまま、校門をくぐった。
伸びた髪はポニーテールでまとめ、胸も少し大きくなっている。
13歳。
私は、中学2年生になっていた。
「沙織さん…今年こそ…」
私はぎゅっと手を握り締めて、口を開く。
「私のことを…好きになってもらうんだからっ」
桜吹雪の下で、私は今も変わらぬ初恋の続きを始める。




