第3話 水瀬沙織の初恋。【未来8歳/沙織20歳】
姉さんの声を聞くだけで、心の奥がじんと濡れてくる気がする。
姉さんの顔を見るだけで、心臓の鼓動が止まらなくなる。
ずっと会いたくて、でも会うわけにもいかず。
会いたくて、会いたくて、会いたくて。
想いこがれていた人が、今、目の前にいる。
星野陽子。
私の姉さんの名前。
水瀬沙織。
私の名前。
「…星野」
私は、星野という苗字が嫌いだ。
姉さんにふさわしいのは、水瀬の苗字だ。
「水瀬陽子」
姉さんは、ずっとその名前だった。私と同じ苗字だった。
それを、あの男が。
さえないあの男が、私の姉さんの苗字を奪っていったんだ。
8歳年上の姉さん。
今の私は、20歳。女子大生。
姉さんは、28歳で、主婦。
あぁ。
やっぱり、いつ見ても、綺麗だなぁ、姉さん。
触れたい。
触りたい。
でも、そんなことしてはいけないって、分かってる。
頭の中では分かってる。
「…好き…」
伝えられなかった想いを、誰にも聞こえないように、誰にも気づかれないように、少しだけ、ほんの少しだけ、呟いてみる。
「とりあえず、こんなところで休憩しましょうか」
額に流れる汗をぬぐいながら、姉さんはそう言った。
引っ越し作業は順調にすすんで、こまごました荷物はまだ散らかっているけど、それでもそれなりに人が住める感じにはなったと思う。
姉さんの新しい家は、古い一軒家で。
私と姉さんの実家から歩いて15分くらいの近さだった。
(これだけ近いなら、これから何度でも姉さんに会いにこれる)
そう思うと、嬉しくなる。
今までなかなか会えなかったぶん、これからはその空白をできるだけ埋めていきたい。
(…埋めて、どうなるわけでもないかもしれないけど)
それでも、好きな人に会えると思うだけで、心がじんと暖かくなってくる。
「沙織さん♪」
物思いにふけっていた私に、可愛い声で語り掛けてくる子がいた。
未来ちゃん。
姉さんの、子供。
「お母さん、今からごはん作ってくれるから、一緒に食べようね」
「ええ。久しぶりの姉さんの料理、楽しみ」
「お母さんの料理、美味しいんだよ」
「…知ってるよ」
世界で一番、知ってるよ。
私がずっと、ずっと、食べてきて、そして食べたかった料理だもの。
「沙織さん、あっちにいこっ」
未来ちゃんが私の手をとってくる。
小さな手。
暖かい手。
「うん」
その手をしっかり握りしめて、私は未来ちゃんと一緒に歩いて、さっき備え付けたばかりのリビングにある大きなソファへと向かった。
姉さんは鼻歌をうたいながら、キッチンで野菜を炒めている。
その後ろ姿をみているだけで、心が暖かくなる。
…視界の端に、男の姿が見えた。
私から姉さんを奪っていった、いやな男。
表面上はにこやかに接しよう…とは思っているのだけど、どうしても、どうやっても、私の心の中にあるもやもやが漏れ出してきてしまう。
そんな私の視線に気づいたのか、ばつがわるそうに男は目をきょろきょろさせた後、隣の部屋へとそそくさと消えていった。
(このままいなくなればいいのに)
どうしても、そう思ってしまう。
悪いとは分かっているけど、でも、どうしようもない。
「沙織さん?」
「あ、ごめんね、未来ちゃん」
ぎゅっと握りしめた手から暖かい鼓動を感じて、少し不安そうな目で見上げてくる未来ちゃんに微笑んだ後、ソファに腰かける。
「私も!」
未来ちゃんがちょこんと私の隣に座ってくる。
柔らかくて大きなソファが少したゆんで、私と未来ちゃんはくっついて座った。
「えへへー」
ぴとっと、未来ちゃんが私に寄りかかってくる。
嬉しそうなそんな姿を見て、ふと、昔の自分を思い出してしまう。
(私もよく、姉さんにくっついていたな)
血のつながりが、そうさせるのかもしれない。
そう思いながら、未来ちゃんの瞳を見つめる。
信頼しきって、まっすぐに、見つめてくるその瞳。
瞳の色が姉さんに似ている。
私にも似ている。
私と、姉さんと、未来ちゃん。
見た目は違っても、流れるものは同じなのだろう。
(違うのは、あの男だけ)
あの男だけが、異物なんだ。
そう思い、そんな思いが顔つきに出てしまったのか。
「沙織さん?」
未来ちゃんがまた不安そうに私を見つめてくる。
「ううん。ごめんね。料理しているお母さん、一緒にみていこっか」
「うんっ」
身体を預けてくる未来ちゃん。
身体の中の鼓動まで、とくんとくんと私に伝わってくる。
「もうちょっとお腹をすかせて待っててねー」
こっちを振り向くこともなく、料理をしながら姉さんがそう言った。
「うん。待ってる」
私はそう答えた。
待ってる。
うん。待ってる。
ずっとずっと、私は、待っていた。
姉さんの髪は、明るい茶色のセミロング。
私の髪は、まっすぐ伸ばした黒髪。
昔は姉さんも私と同じ黒髪だったのに、今は染めているんだな…黒髪だったころの姉さんも素敵だったけど、今の茶髪の姉さんも素敵だな、と思った。
「沙織さん、お母さんのこと、好きなの?」
ふいにそんなことを聞かれて、心臓が止まるかと思った。
隣で未来ちゃんがにっこり笑った。
「私も、お母さん大好き!」
…沙織さんの次に、と、言葉を付けくわえること忘れない。
「…うん、好きだよ」
これくらいなら、聞かれもいいよね。
好き。
家族としての好きも、ちゃんとある。
姉さんは、私が生まれた時からずっと、私の姉さんだったから。
「未来ちゃん、素敵なお母さんでよかったね」
「うんっ」
屈託なく笑う未来ちゃん。
どこまでもまっすぐで。
どこまでも純粋で。
私とは、違うなぁ。
どうしても、そう思ってしまう。
私はどこからひねくれてしまったのだろう。
私は想いを告げることができなかったのに、想いを告げなかったのは私なのに、それなのに、想いだけはずっとくすぶったまま残っている。
姉さん、好き。
大好き。
やっぱり、ずっと、好き。
家族としての好きじゃなくって。
恋人にした方の、好き。
「沙織さん」
姉さんのつくっている美味しそうな料理の匂いに包まれながらぼんやりとそう思っている私に向かって、顔をまっかに紅潮させながら、未来ちゃんが想いを全身で伝えてきた。
「大好きっ」
…ありがとう、ね。
うん。有難う。
伝えてくれて。
私、水瀬沙織、20歳。
姉さん、星野陽子、28歳。
未来ちゃん、星野未来ちゃん、8歳。
8歳差と、12歳さと。
姉と、叔母と、姪っ子。
私にはできなかったことを、この子は簡単に飛び越えてくる。
少しだけ羨ましくて、少しだけ、ちょっとだけ。
私も、伝えていたら、少しは、少しだけは、変わっていたのかな。
と、寂しくなった。