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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第三章 【未来10歳/沙織22歳】
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第29話 つむぎちゃん【未来10歳/沙織22歳】

 6月の風は優しさを運んでくる。

 さわやかな朝。

 気持ちのいい風。

 目が覚めた私を出迎えた匂いは…


「わー!つむぎちゃん、またうんちしてるーーー!」


 愛する妹の、うんちの匂いだった。


 おむつを替えるのもかなり慣れてきていた。

 私は手早くつむぎちゃんのおむつを替えると、「はい、つむぎちゃん、気持ちいいよねー!」と言って、ぺちんとお尻をたたく。


 あー、あー、とまだ声にならない声を出すつむぎちゃんを見て笑う。

 まだ二か月しか生きていないのに、泣く声だけはいっちょ前になっている。


「はいはい、つむぎちゃん、ミルクだよー」


 哺乳瓶をくわえさせると、そのままちゅっちゅと飲み始める。顔はしわくちゃで、肌はぷるんぷるんで、思わずほっぺを指で撫でてしまう。


「柔らかいなー」


 えい、えいっとほっぺを触る。触られるたびに身体をくねくねするつむぎちゃんのことが、可愛くて仕方ない。


「未来ちゃん、ミルクあげるのうまくなったね」


 台所から、沙織さんの声がした。

 今年の春、夢だった高校教師になった沙織さん。今が一番忙しい時期なのにも関わらず、週に二回は泊まりにきてくれて、一緒につむぎちゃんの面倒をみてくれている。

 申し訳ない気持ちも大きいのだけど、それ以上に、ありがたかった。私とお父さんだけなら、もう何をしていいかも分からなかっただろうと思う。


「今夜は、実家からお母さんも来てくれると思うから」

「おばあちゃんが?」

「ふふ。やっぱり孫が可愛くて仕方ないみたいね」


 沙織さんのお母さん、つまりは、私のおばあちゃんだ。

 いつも来てくれるたびに、飴玉とかもくれるので、私はおばあちゃんも大好きだった。

 沙織さんは実家暮らしなので、おばあちゃんとおじいちゃん、それに沙織さんの3人で生活している。「本当は家を出たいんだけどね…職場の近くに引っ越しもしたいし」と就職直後は言っていたけど、お母さんが亡くなってからはそんなことは一言もいわずに、いつも私の家に来てくれるのが…嬉しい。


「つむぎちゃん、全部のんだー!」

「えらいね」

「うん、さすが私の妹だー!」

「未来ちゃんもえらいよ」


 そう言うと、沙織さんが卵焼きとお味噌汁、それにご飯をお盆において、食卓に持ってきてくれた。

 沙織さんの作ってくれた朝ごはん。いい匂いがして、心がぽかぽかしてくる。


「美味しそう!」

「お口にあえばいいんだけど」

「沙織さんの料理に合わない口なんてこの世にないよ!」


 私は座って、いただきます、と手を合わせる。


「前はいつもパンばかりだったから、朝にご飯を食べるのは新鮮な感じ」

「…そう、だったよね」


 つい私がこぼしてしまった言葉を聞いて、沙織さんが少し顔を曇らせる。

 前。

 以前。

 …お母さんの作ってくれていた、朝ごはん。


(パンとお味噌汁って、変じゃない?)


 お母さんの軽口を思い出す。

 胸が、しめつけられそうになる。

 もう二度と、あんな日は返ってこないんだ…と、気持ちが落ち込みそうになった時、


「うーーー!ううーーーーー!!うー!!」


 突然、つむぎちゃんが泣き始めた。

 全身で、私、ここにいるよ、お姉ちゃんって、感じで。


「わーーー!ごめん、つむぎちゃん、どうしたのー?」


 落ち込みかけていた気持ちが、一瞬で吹き飛んだ。

 急いでつむぎちゃんを見て、さっきおしめ替えたばかりだし、ミルクものんだばかりだし、なんだろう?と思いながら、あたふたする。

 隣に沙織さんもきてくれて、そして。


 2人であたふたする。


 つむぎちゃんに振り回されて。

 つむぎちゃんに救われて。


 私と沙織さんは、顔を見合わせて、なぜか、笑った。

 心から笑った。


 お母さんのいなくなったこの家で、つむぎちゃんの加わったこの家で。


 私たちは、まるで親子のように、ずっと笑っていた。



■■■■■



「そんなわけで、死ぬほど眠いから、眠らせて…もしくは殺して…」


 小学校の昼休み、屋上に私は横たわり、空を見上げながら一緒にいる颯真と美月に語り掛けた。


「未来ちゃん、大変そう…」

「大変なんてもんじゃないよ…」


 あの暴君。

 暴君つむぎ。

 何考えているかわかんないのに、家の中心にずっといるあの可愛いバケモノ。


「まぁ、なんていうか、ほら、未来」


 颯真は手にしていたアイスを差し出してきた。「これでも食べて落ち着けよ」という事らしい。


「手に持つのもめんどくさいー。颯真、食べさせてー」

「まったく、お前は」

「駄目よ、未来ちゃん」


 美月は颯真の手からさっとアイスを奪い取ると、にっこり笑いながら私の口に差し出した。


「私が食べさせてあげるね」

「…ありがと」


 ちょっと怖い。

 まぁ、それはそれとして、アイスは美味しかった。口の中がひんやりとして、気持ちいい。


「あー…眠れるのって、最高…」

「未来ちゃん、今日の授業中、半分くらい寝ていたよね…」

「残りの半分は目を開けたまま気絶していただけだから…」

「結局、全部寝てるじゃねーか」


 目を閉じていても、空の明るさが瞼を超えて入り込んでくる。暖かくて、気持ちよくて、意識が遠くなりそうだった。


「今は家はどんな感じなの?」

「んー…おばあちゃんが来てくれてる」

「そうなんだ」

「飴ももらったよ」


 もう食べちゃったけど、と、むにゃむにゃしながら言う。


「お父さんも、てれわーく?ってのをして、週の半分くらいは家にいてくれるし、おばあちゃんも来てくれるし、それに」


 にこっと笑う。


「沙織さんもよく泊ってくれるんだ」

「相変わらずだなー、未来は」

「えへへへ」


 颯真の呆れ声を笑って返す。沙織さんは私の癒しなんだから、仕方ないじゃない。


「けどまぁ、なんいうか」

「なーに、颯真」

「未来…最近なんていうか…お姉ちゃんっぽくなったよな」

「えー、なにそれー」

「あ、私もそう思うよ」


 横に座っていた美月も口をはさんでくる。


「未来ちゃん、なんか雰囲気、大人っぽくなった」

「前は子供っぽかったのにな」

「よーし、颯真、頭出して、叩くから」

「なんで叩かれるって分かってて頭差し出さないといけないんだよっ」


 横になりながら目をあけて、あわてる颯真をみつめる。下から見上げているから、颯真の顔は逆光で黒く見えた。太陽がまぶしい。


「そうなのかなー。自分じゃわかんないや」


 ただ単にからかわれているだけかもしれないけど、なんか、胸の奥が少し暖かくなった。

 お母さんがいなくなって。

 私が、お母さんの代わりにならなくっちゃいけないから。


 朝早くおきて、つむぎちゃんのミルクつくって、おしめ替えて、泣いたらあやして…


 早く、大きくならないと。


「ちゃんとお姉ちゃんになれてるかな」


 空にむかってつぶやいてみる。

 お姉ちゃん。か。

 なんだか少し、こそばゆくなる。



■■■■■



「水瀬先生、さようなら」

「はい、さようなら」


 生徒たちの声を聞きながら、眠い目をこする。

 昨夜は未来ちゃんの家に泊まって、そのまま職場に来ていた。

 この高校まで、電車で片道30分。

 本当は、就職を機に実家をでようかな、とも思っていたんだけど、今はそんなことは言っていられない。


 あの日から、もう二か月。


 最近は、週に二回ほど未来ちゃんの家に泊まるようにしている。

 まだまだ新人教師として慌ただしい時期ではあるのだけど、今はなにより、未来ちゃんのことが心配だから。

 つむぎちゃんのミルクを手伝い、未来ちゃんと一緒にご飯を食べて、寝かしつけて。


(未来のこと、お願いね)


 姉さんの言葉がずっとずっと、心の奥に棘をさしたまま突き刺さっている。

 うん。姉さん。私にまかせて。


 姉さんの代わりにはなれないし、私は姉さんにはなれないけど。

 それでも、ちゃんと、未来ちゃんを見ていくから。

 未来ちゃんの…あの歳でお母さんを失くしてしまった未来ちゃんの…


 笑顔。


 私が顔を出すたびに、未来ちゃんは、本当に嬉しそうに笑ってくれる。

 私を、求めてくれている。

 未来ちゃんの為に、と言いながら、その実私は、自分のために、自分の居場所を求めてしまっているのかもしれない。


 姉さんで空いた穴を埋めるように。


「…」

「…」

「…水瀬先生」


 考え事をしていたので、自分が呼び止められているのに気が付かなかった。


「ごめんなさい、結城先生」


 返事を返しながら、隣に追いついて歩いてきている、先輩の結城美麗先生を見つめる。


(…美人)


 何度見ても、本当に、それしか感想が出てこない。

 世の中にはいろんなタイプの美人がいるし、私の中で姉さん以上の美人なんてこの世には…(ちょっと未来ちゃんのことを思い浮かべて、まだ10歳の未来ちゃんは早々にそのランキングの中から外す)いるわけがない。

 けど、この結城先生は、姉さんを殿堂入りとして外して考えるなら、私の人生で出会った女性の中でもトップクラスの美人だった。


「水瀬先生、お疲れのようですから」

「ごめんなさい、ご迷惑おかけしてますよね」

「そんなことありませんよ」


 そういうと結城先生は、にこっと笑った。

 笑顔と共に、その煌めく金髪が舞う。

 ちょっと息がとまるくらいの美しさだった。


「私、ちょっと、水瀬先生に興味があるんです」

「興味?」

「ええ…」


 結城先生は、そっと顔を近づけてきた。

 いい香り。

 なんの香水つかっているんだろう…鼻腔の奥がじんじんと熱くなるような。


「水瀬先生と私、同類なのかな、って」

「同類?」


 何を言っているんだろう?

 私がいぶかしんでいると、結城先生が、そっと私に耳打ちをする。

 甘い声。

 とろけるような声。

 蠱惑的な声。


 そんな声で、私に、そっと囁いてきた。


「女の人、好きでしょう?」


 私もなんですよ。

 好きなんです…女の人が。


 と。

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