第28話 春を、置いていく【未来10歳/沙織22歳】
白い部屋。
白いシーツ。
白い光。
全てが、白で埋め尽くされている。
お母さんは眠っているようで。
その顔は穏やかで。
声をかけると、起きてきそうだった。
冷たい。
触ると、冷たい。
生きていない。
信じられない。
泣いても、泣いても、泣いても。
お母さんは起きてこない。
お父さんが私の肩に手をやって、その手は少し震えていて。
お母さんの指を。
触って。
お母さんの指は。
固くて。
あぁ、もう。
この手で抱いてもらうことはできないんだな、と。
思った。
■■■■■
私は何をしているんだろう。
姉さんがもういないのに、私はどうして、息をしているんだろう。
姉さんの家に荷物を取りにいかないといけないということで、私が一人で、姉さんの家にはいった。
暗い家。
夜。
玄関を開けると、花の匂いがした。
玄関に置いてある花瓶には、姉さんの好きだった花がいけてあった。
中に入る。
電気をつける。
白い光。
姉さんの家は、どこをみても、姉さんの気配で満ちていた。
選択籠をみる。
昨日のパジャマが入っている。
冷蔵庫を見る。
作りかけのポテトサラダが入っている。
私はリビングの椅子に座って、天井を見た。
何かしゃべろうとしても、言葉は空気にとけていって、消えていく。
ふと、目を部屋の片隅に向ける。
姉さんの服が置いてある。
私はふらっと立ち上がり、部屋の片隅に座りこみ、姉さんの服を一枚ずつたたんでいった。
柔らかい、春色のワンピース。
袖口のちいさなほつれ。
(…あれ)
涙が、頬をつたって落ちた。
あれだけ泣いたのに、まだ、私の身体の中に水分が残っていたのか。
(未来のこと、お願いね)
姉さんにお願いされた、最後の言葉を思い出す。
言葉はいばらの蔦となり、棘が私の身体に食い込んでいき、私を縛って離さない。
うん。
姉さん。
私に、まかせて。
誰もいない部屋の中で、私は何もない壁を見つめながら。
姉さんの願いを、ずっとずっと、反芻していた。
■■■■■
あわただしく人が動いている。
知った顔も、知らない顔も、いろんな人の顔があった。
みんな黒い服を着ていて、みんな心配そうな顔で私に話しかけてくる。
言葉は耳を通らなくて、素通りしていくのがわかった。
葬儀の日。
私は、静かに座っていた。
まわりの大人たちはみんな泣いている。
でも、私は、泣くこともできずに。
夢の中にいるみたいだった。
歩いて、棺に近づく。
その中で、お母さんが眠っていた。
眠っているみたいにみえた。
私はそっと、手を伸ばす。
お母さんに触れる。
冷たくて、硬い。
「お母さん」
返事はない。
「お母さん」
返事はない。
「お母さん」
返事はない。
不思議。
眠っているお母さん、起きてこない。
私は自分の席に戻って、座って、ぼぅっと外を眺めた。
雨。
外は雨が降っている。
雨が屋根を打つ音が聞こえてくる。
アスファルトが濡れて黒くなっている。
お父さんは忙しそうで。
いろんな人に、話しかけられて、話しかけていて。
妹は。
つむぎちゃんは。
まだ病院の中で。
まだあんまり話を出来ていない。
私、お姉ちゃんなのに。
つむぎちゃんのお姉ちゃんらしいこと、まだ何も出来ていない。
こんなにたくさん人がいるのに。
私はひとりぼっちで。
私は。
私、は。
「未来ちゃん」
暖かい光。
心がとろけそうな声。
じんわりと、身体の奥から、いろんな感情が湧き上がってくる。
その感情には色があって。
赤や、青や、黒や、黄色や、いろいろ。
たくさんの感情の色が混ざって広がって拡散して。
私の中で爆発しそうになった時。
「大丈夫だから」
そっと、沙織さんが、私を抱きしめてくれた。
暖かくて。
柔らかくて。
やっと、私は。
「お母さんね」
「つむぎちゃん産んで」
「つむちぎゃんを私に残してくれて」
「それで」
涙が。
おちて。
「死んじゃったの」
泣くことができた。
現実が、私を包み込んでいった。
音が聞こえてくる。
みんなの音。
みんなの声。
ざわざわ。ざわざわ。
さっきまで遠い遠い音だと思っていたのに、今は耳の奥まで入り込んでくる雑音で。
私はつぶされそうになって。
「大丈夫、大丈夫だよ、未来ちゃん」
そんな私を、沙織さんは包み込んでくれて。
沙織さんも黒い服を着ていて。
烏の濡れた羽みたいに、深い黒い色で。
汚しちゃいけない、と思って顔を離そうとしたのに。
「未来ちゃん」
沙織さんは、ぎゅっと抱きしめてくれて、沙織さんの胸に私を押し当ててくれて。
柔らかくて。
暖かくて。
「沙織さん…」
私はずっと、ずっと、ずっと。
泣いて、泣いて、泣いて。
ずっと、ずっと、抱きしめられて。
お母さんの葬儀の日の思い出は。
この時のことしか思い出せない。
あの日から何年たっても。
沙織さんに抱きしめてもらってことしか思い出せない。
冷たい日の中の、唯一の、あたたかさしか。
■■■■■
葬儀が忙しいのは、たぶん、忙しさで寂しさを覆い隠すためなんだと思う。
頭が回らない時、直接関係のない他人が冷たく事務的に接してくれるのは、逆にその方がありがたいことなんだろう。
いろいろあって。
いろんな手続きをして。
助けて、助けられて。
私は、未来ちゃんや旦那さんと一緒に、姉さんの家に帰っていた。
しばらく、ここに一緒に住むことにした。
落ち着くまで、それまで。
人を落ち着かせることで、自分も落ち着くことができるのかもしれない。
旦那さんは…立派だった、と、思う。
葬儀の手配をして、葬儀の喪主をして、病院にも連絡して、紬希ちゃんはまだ退院できないので、病院で診てもらっていて。
未来ちゃんのことを気遣っているのが分かって、運転して、帰ってきて。
そして、今。
「…有難うございます。少しだけ、眠らせてください」
そう言って、寝室で横になっている。
今、私の横には未来ちゃんが座っていて、ずっと私に抱き着いてきてくれている。
私は、私たちは、ソファに座っていた。
かけ布団には、まだ姉さんのぬくもりが残っているような気がする。
タオルケットを抱きしめると、柔軟剤と、姉さんの匂いがしてくるような気がしてくる。
胸の奥が、きゅっと締め付けられる。
「…姉さん」
隣の未来ちゃんに気づかれないような小さな声で、ぽつりと呼んでみる。
当然、返事は無かった。
分かっているのに、それでも、呼ばずにはいられなかった。
(未来のこと、お願いね)
姉さんの最後の言葉が、ずっと、ずっと、心に残っている。
大好きな人が、大好きだった人が、最後に私に残してくれた言葉。
(うん)
(わたし)
(姉さんのかわりに)
未来ちゃんを、ぎゅっと、抱きしめる。
(この子の、お母さん代わりになるわ)
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夢の中で、お母さんが笑っていた。
綺麗なお母さん。
大好きなお母さん。
「お母さん!」
これは夢なんだと分かっていても、そう叫ぶのをとめることができなかった。
手を伸ばして、掴もうとして。
目の前にあるのに、目の前にいるのに。
けっしてその手は、届かなかった。
「未来、愛してるよ」
お母さんはそう言って。
にっこり笑って。
花の向こう側に消えていった。
目が覚める。
家の中だった。
暗い。
電気はついていない。
横で、寝息がした。
沙織さんが、私を抱きしめるようにして、そのまま眠っていた。
すぅ…すぅ…
定期的なその寝息が、定期的な心臓の音が、沙織さんがそこにいて、ちゃんと生きているんだということを伝えてきてくれた。
私を守ってくれている。
私のことを、大事に思ってくれている。
手を伸ばして、沙織さんの黒髪に触れる。
綺麗な黒髪。
おもえば、初めて沙織さんに会った時、この綺麗な髪が真っ先に目に入ったんだった。
私はあの時から、ずっと、沙織さんに夢中なんだ。
こんな時なのに。
お母さんのお葬式のあった夜なのに。
なのに。
「…沙織さん、好き」
私は、沙織さんの黒髪にキスをした。
好き。好き。
好き。
大好き。
恋人に、なりたい。
沙織さんが身体を動かし、眠ったまま、そっと、寝言をもらした。
「…未来ちゃん…私が…」
「あなたの…」
恋人に?
「お母さんに…なるから…ね」
夜。
お母さんのお葬式の日の、夜。
私の想いと。
沙織さんの思いは。
お互いのことをおもいながら。
誰よりも、誰よりも。
ずっとずっと、大事におもいながら。
決定的に。
すれ違っていた。




