第27話 春の夜に君と【未来10歳/沙織22歳】
教室の机に座っていても、わくわくが止まらない。
私はずっと足をぶらぶらと動かしながら、そわそわしながら、時計を見ていた。
時計の針は12時を少し過ぎたくらいで、長針と短針がほとんど重なっている。
「つむぎちゃん、早く会いたいなー」
鞄から一冊の本を取り出す。昨年のクリスマスにお母さんからプレゼントしてもらった本。そして筆入れから、一番大事な宝物を出す。こちらも去年のクリスマスにもらったもので、沙織さんからプレゼントしてもらった螺鈿の万年筆。
万年筆をかかげると、春の光に照らされたそれは、キラキラと幻想的に輝いていた。
「つむぎちゃん、つむぎちゃん」
そう言いながら、本に生まれてくる妹の名前を書いていく。漢字は思い出せないので、ひらがなで。
「未来ちゃん、ご機嫌だね」
隣の席の美月が、教科書で顔を隠すようにして私に語り掛けてきた。「えへへー。分かるー?」と私も笑ってかえす。授業中はなかなか時間が経たないけど、今日はいつもより一層、時間が進むのが遅く感じられた。
「今日はサッカーできないな…」
後ろの席で、颯真がペンをくるくる回しながらそう呟いている。ペンを回す癖、ずっと変わっていない。私は先生に見つからないようにそっと後ろを振り向くと、
「ごめんね、颯真」
とあやまった。「別に仕方ないよ…」と颯真は言いながら、それでも口をとがらせていた。
私は笑って、外を見る。
澄み切っていた空の遠く向こうに、黒い影が見えたような気がした。
雨雲だった。
「私の家の方…」
遠くから春雷が聞こえてくる。
ここは晴れているけど、すぐに雨が降ってきそうだ。
「お天気、急に変わるね…」
私はそんなことを思いながら、また本を見て、つむぎちゃんの名前を書いていく。
今日生まれる、私の可愛い妹の名前を。
■■■■■
陣痛の間隔が短くなってきた。
さすがにもう限界…私は息を吐きながら、主人に声をかける。
「病院…行こ…」
「まかせて」
いろんな書類を鞄に詰め込むと、夫が外に飛び出していく。
車を準備してくれている間、私はゆっくり立ち上がる。
頭がくらくらする。
お腹が痛い。
痛い。
「お母さん、頑張るからねー」
そう言いながら、ゆっくりと歩いていく。
外に出る。
空を見る。
さっきまで晴れていた空は、今は一面の曇り空になっていた。
「雨降りそう…」
「陽子、早くのって」
運転席に座っていた主人が私を見つめる。
はいはい、わかりましたよー。
私は助手席に乗り込み、汗をかきながら、隣に座っている主人に声をかけた。
「ありがとうね」
「何をいまさら」
「ふふふ」
私がシートベルトを着けたのを確認して、主人が車を発進させる。急いでいるけど、ゆっくりと。
もともとが穏やかな性格の人で、穏やかな性格の人がハンドルを握ったら性格が豹変するということもなく、やっぱりいつも通りの穏やかな運転だった…けど、その穏やかさの中に、少しだけ焦りを感じることができる。
「あなた」
「なんだい?」
「そんなに急がなくてもいいわよ」
「…」
「もしも事故なんかして、私たちが死んじゃったら、未来が一人残されちゃうじゃない」
「不吉なこというなよ」
「ごめんね」
でも、ふと、なんとなく、思ったのだ。
窓ガラスに降りそそいでくる雨粒を見ていたら、ひとりで泣いている未来の姿が思い浮かんできたのだ。
「二回目の出産って、けっこう早いっていうわよね」
「そうらしいね」
主人はハンドルを握ったまま、私の方をみることもなく言葉を続ける。うん、安全運転しているな、よしよし。
「今夜には、未来に妹を見せてあげれるかな」
「無理はしなくていいからね」
「無理する気はないんだけどね」
お腹をぽんぽんと叩く。
「お姉ちゃんになった未来、早くみてみたいな」
車は進んでいく。
雨の中、病院に向かって。
まっすぐ、はっきりと。
終わりに向かって。
■■■■■
「姉さん…は、もう出ちゃったか」
預かっていた合鍵を使って、私は姉さんの家の玄関の扉をあける。
手にはコンビニで買ってきたパンやお菓子や飲み物が入っている。未来ちゃんが帰ってきたら、とりあえず一緒に食べようかと思う。
私は目を閉じて、病院の風景を想う。
白い廊下、消毒液の匂い、分娩室の明かり。
結婚する気のない私には、一生縁のない場所なのだと思う。
「姉さん…」
姉のことを、愛しい人のことを、大事な人のことを思いながら、部屋の中に入っていく。電気をつけて、リビングを見る。
ついさっきまでいたのか、ソファにはいつも姉さんが使っているタオルケットが置いてあるままだった。
私はソファに近づき、そのタオルケットを手に取ると、そっと匂いをかぐ。
姉さんの匂いがするかと思ったけど、特にそんなことはなく、タオルケットの布の匂いが肺に吸い込まれただけだった。
外を見る。
先ほど降り始めた雨が、勢いよく家の窓にあたっているのがみえる。
(未来のこと、お願いね)
姉さんに言われた言葉を思い出す。
姉さんも旦那さんも、先に病院に行っている。その間、学校から帰ってくる未来ちゃんの面倒を見てほしい、と姉さんに頼まれたのだ。
私はソファに座って、誰もいないリビングの中で、壁にかかっている時計を見つめていた。
時間は、午後二時。
小学校が終わるまで、まだ少し時間がある。
私には何もできないけど、ただ、愛しい人のことだけを思っていた。
血を分けた姉のことを。
私にとって、世界でただ一人、愛しい人の存在を。
(好きな人…とられちゃったけどね…)
そう思うと、胸が痛くなる。
ちくり、ちくりと、いつまでたっても痛みが消えない。
一番の痛みは、姉が幸せそうなことで、幸せそうな姉を見ていると、嬉しさの反面、どうしても寂しさが湧いてきてしまうのだった。
私の好きな人が好きな人は、私じゃなかった。
世界は残酷だ。
そう思いながら、目を閉じる。
瞼の裏に浮かんできたのは、なぜか、未来ちゃんの笑顔だった。
私のことをまっすぐに見つめてくる、その笑顔。
(…ごめんね)
どうしても、思ってしまう。
先ほどまで、あれほど、自分の好きな人が好きな人が自分じゃないことを苦しく思っていたのに。
未来ちゃんが、私のことを本気で好きになってくれていると、分かっているくせに。
(私、同じことしている)
目を開ける。
暗くなった部屋の中で、時計の音だけが響いている。
世界は残酷だ。
残酷にしているのは、私たちの心のせいなのかもしれない。
(未来のこと、お願いね)
電話口で聞いた、姉さんの言葉を反芻する。
(うん、私にまかせて)
私は、そう返事をした。
(未来のこと、お願いね)
(うん、私にまかせて)
(お願いね)
(まかせて)
(未来のこと)
(私に)
それが、姉さんから頼まれた、最後のお願いになるなんて、この時の私は知らなかったし。
…その言葉が、呪いの言葉になるだなんてことも、私は知らなかった。
■■■■■
痛い。
痛い。
痛い痛い痛い痛い。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い。
痛みのせいで意識が遠くなりそうなのに、その痛みのおかげで意識がなくなることはなかった。
私は叫び、笑い、泣いていて。
息を吐くたびに、息を吸うたびに、あぁ、私はまだ生きているんだと実感する。
夫の声が遠くに聞こえる。
あぁ、そうか。
今回、立ち合い出産することにしたんだった。
(私ばっかりつらいのはひどいよー)
といって、血が苦手な主人を説得したものだった。
「…こ…うこ…陽子っ」
手に、感触がある。
暖かい。
誰の手だろう?と考えて、まぁ、この状況なら、主人の手だよね、と思った。先生に手を握られても困るし。おほほ。
「がんばれ…がんばれ…」
言われなくても頑張ってるよぉ。
いたいたいたいいいいいいたい。
うん。私だけ痛いのは不公平だな。
「あなた…」
「なんだい、陽子」
「スイカがないならタケノコでいいよ」
「何を言っているんだい?」
「夫婦なんだから、痛みを分け合いましょ?」
朝の会話を思い出す。
春だから冷蔵庫にスイカは入っていなかったけど、タケノコならあったかもしれない。
やめるときも、くるしいときも、すこやかなるときも、
あぁ、痛くて頭が回らない。
痛い痛い痛い。
「紬希に、会うんだろう?」
主人の声がした。
「未来を、お姉ちゃんにするんだろう?」
主人が握る手の力が、強くなった。
「だから…がんばれ」
あーあ。
好きなこと言っちゃって。
そんなこと言われたら。
もう、頑張るしかないじゃない。
痛いけど。
死ぬほど痛いけど。
痛くて死ぬわけじゃないから、ちょっと、がんばるかな。
…と思いながら数時間。
言葉では「がんばる」なんて簡単にいえるけど、現実はもう、そんなに綺麗なものではなくって。なんかい、「もう殺してー!」と叫んだか分からない。
こんなに痛いなら、もう二度と赤ちゃんなんていらない。
…あぁ、そういえば。
未来が生まれた時も、同じこと思ったなぁ。
こんなに痛いなら、もう二度と、赤ちゃんなんていらないって。
ごめんね。
嘘だよ。
生まれたあなたの顔を見ていたら、幸せで幸せで、痛みなんか全部ふっとんじゃって、幸せだけに包まれて。
また、赤ちゃん、欲しいって思っちゃったの。
まさかあれから10年かかるなんて思わなかったけどね。
10歳になった未来が、妹を抱きかかえている姿…見たいなぁ。
声が遠くなり。
機械音が遠くなり。
光が遠くなり。
主人の声が遠くなり。
静寂が。
「…ぎゃぁ…」
「おぎゃぁ…おぎゃぁ……おぎゃぁっ」
産声に、かき消された。
「…おめでとうございます、元気な…女の子ですよ」
私は、自分の腕の中に抱かされた、小さな「なにか」を見つめた。
くしゃくしゃした変な顔で、指だって豆みたいに小さくて、鳴き声もなんかしゃがれた猫みたいにへんな、それ。
それは、少し動いて、私の指をぎゅっと握ってきた。
すごく弱い力なのに…そこに命を感じる。
柔らかくて、暖かくて。
ぎゅって私の指を握ったまま、離そうとはしなかった。
「こんにちは…紬希…」
私は、身体が溶けるような脱力感につつまれながら、言葉を続けた。
「…あぁ、未来に、似てるね…」
■■■■■
私が家に帰ると、沙織さんが寝ていた。
ソファの上で眠っている沙織さんを見て、私は胸がいっぱいになって、ひたいに、キスしてもらった日のことを思い出して。
沙織さんが起きないのをよーく確認して。
「…ちゅ」
そっと、頬にキスをした。
「…ん」
沙織さんがごろんと横になる。そしてうっすらと目を開けると、私を見つめてきた。
「ごめんね、寝てたみたい」
「ううん。疲れているのに、ありがとう沙織さん」
私があたふたしていたのを気づかれたかな?
沙織さんが頬に手を当てているのを見ながら、私は話題をそらすように、時計を見つめる。
「もう夕方だよ」
「こんな時間…」
沙織さんはゆっくりと立ち上がる。
外は雨。
真っ黒。
雨の音が激しすぎて、家の中が逆に静かに感じてしまう。
「つむぎちゃん、もう生まれてきてくれているかな」
「…どうかな」
沙織さんはスマホを見た。スマホの画面はちかちかと光っていた。その光で、暗い部屋の中が少し明るくなる。
「ちょっとだけご飯食べて、一緒に病院に行こうか」
「うんっ」
私は大きな返事をする。
ご飯を食べて、病院に行って、つむぎちゃんに会おう。
そして、「がんばったねー、えらいえらい」って。
お母さんの頭を撫でて褒めてあげるんだ。
■■■■■
血。
血の海。
流れ出る血が止まらない。
医師が駆けつけて、モニターを見る。
一瞬で血圧が上がり、呼吸が困難になる。
スタッフがあわただしく動き回り、病室内が戦場と化す。
「先生!星野さんの意識がありません!」
「呼吸してない!」
「血圧64/30 心拍数140です!」
声が。
響き渡る。
「コードブルー、産科分娩室でコードブルー」
「コードブルー、産科分娩室でコードブルー」
血。
血。
血。
「出血2500超えています!」
「止血のため子宮圧迫します!」
「輸血持ってきて!」
「ドクター集めて!」
声。
血。
声。
血。
「アドレナリン投与!」
「輸血もっと!」
流れ出る赤。
命。
溶けて落ちていく。
「全身麻酔に切り替えます!」
「挿管準備!」
押す。
押す。
縫合しても縫合しても出血は止まらない。
羊水塞栓症。
羊水が母体血中へ流入することによって引き起こされる「肺毛細管の閉塞を原因とする肺高血圧症と、それによる呼吸循環障害」を病態とする疾患。
母体死亡率…60~80%
(寒い)
思う。
(私…まだ…)
思う。
(死にたくないの)
血。
血。
(まだ、この子の成長を見ていたいの)
生まれた赤ちゃん。
紬希。
(未来のランドセル姿、もっと見ていたいの)
赤。
ランドセルの色。
血の色。
(あなた)
(未来)
(紬希)
ごめんね。
愛してる。
愛してる。
愛してる。
(あなた、大丈夫かな。いつも寝坊して起きてきて、私のご飯食べてくれて、笑ってくれて)
(紬希、あなたのこと、もっと見たかった。まだ手を握っただけなのに、抱けなくて寂しい)
(未来…)
私の、はじめての子供。
あなたとの、はじめての子供。
私の、私たちの、大切な、何より大切な、宝物。
(未来のこと、お願いね)
最後に沙織に伝えた言葉を思い出す。
未来が、好きなのは、沙織。
お母さんはちゃーんと、分かっているんですからね。
だから。
沙織。
あの子のことを…
白い。
何もかも白い。
もう。
痛くない。
■■■■■
雨あがりの夜の病院に、私は沙織さんに連れられてきていた。
病室をみあげる。
「ねぇ、沙織さん、お母さんの病室、どこかな?」
「うーん、どこだろうね」
2人で夜の病院を見上げた。
夜桜が舞い、空気は綺麗で。
心も澄み切っていて。
「早く、つむぎちゃんとお母さんに会いたいな」
私はそう言って、沙織さんの手をひっぱって、走っていった。




