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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第三章 【未来10歳/沙織22歳】
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第26話 出産予定日の朝【未来10歳/沙織22歳】

 出産予定日の朝。

 カーテン超しに入ってくる春の陽射しは暖かくて、家中を柔らかく包み込んでくれているようだった。


「今日、つむぎちゃんに会えるの?」

「その予定なんだけどねー。この子、まだ寝ていたいって思ってるかも」


 そう言いながら、お母さんは大きくなったお腹をぽんぽんと叩いた。

 テーブルには焼きたてのパンがおいてあって、美味しそうな匂いが部屋中に充満している。

 お母さんはソファに腰掛けたままゆっくりしていて、お父さんがコーヒーを淹れていた。

 私はその隣でお皿を並べながら、お母さんのお腹に向かって話しかける。


「つむぎちゃん、早く出ておいでー。お姉ちゃんが待ってるよー」

「あ、いま、動いたかも?」

「本当?」


 お母さんは笑って、まるいお腹を撫でている。


「未来、そろそろ学校に行く時間じゃないのかい?」

「あと少しー」


 お父さんの言葉に適当な返事をすると、私はお母さんの傍にいく。

 手をのばして、お母さんのお腹を触った。


「つむぎちゃん、もう起きてもいいよー。早くお姉ちゃんに会いたいでしょー?」

「ワタシ、オネエチャンニ、アイタイヨー」


 お母さんが変な声でからかってくる。「もうっ」っとお母さんの方を見上げると、お母さんはけらけら笑って私の頭を撫でてきた。


「小学校、楽しんできなさいね。あんたが楽しんでくれるのが、お母さん、一番嬉しいんだから」

「うんっ」


 撫でてくれる手が暖かい。私は少し嬉しくなって、その手を握り締めた。


「お母さんとお父さん、今日は病院に泊まることになると思うけど、その代わりに沙織にお願いしてるからね」

「沙織さん?来てくれるの?」

「ちゃんという事聞きながら待っているのよ?」

「うんっ。久々に沙織さんに会えるの、嬉しいなー」


 沙織さん、最近は先生のお仕事が大変みたいで、なかなかうちに寄ってくれなくて寂しかったので、これはとてもいいニュースだった。


「じゃぁ、行ってくるね!」


 私はテーブルの上のトーストを一気に頬張りながら、牛乳で流し込んだ。

 そのままランドセルを背負って家を出ようとした時、


「未来」


 お母さんに呼び止められた。


「なぁに?」

「あのね…」


 お母さんが、真剣なまなざしで私を見つめてきた。いつもはふざけていることが多いのに、今は違った。

 私はなんか変な違和感を感じて、思わず息を飲んでしまった。そんな私を見て、お母さんはいけないと思ったのか、表情を崩した。

 柔らかい笑顔。

 優しい口調で、私に語り掛けてくる。


「未来、愛してるわ」

「いきなりどうしたの、お母さん?」

「なんでかな…なんとなく、言いたくなったの」

「もう、変なお母さんっ」


 そう言いながら、私は玄関からお母さんの元に引き返すと、


「またあとでね!ちゅっ」


 お母さんの頬っぺたに軽くキスをした。


「あらまぁ」

「いってきまーす!」


 少し恥ずかしくなって、私は急いで玄関に向かってはしっていって、そのまま振り返りもせずに家を出ていった。


「車には気を付けるのよー」

「はーい!」


 春の朝の光の中、私は勢いよく飛び出していく。

 それはとても幸せな時間だった。

 まるで世界がこのまま止まってしまえばいいのに、と思うくらい、幸せな時間だった。


 こんな他愛もない会話が。

 ありふれた、なんでもない会話が。


 お母さんと話す、最後の会話になるだなんて。


 この時の私は、知りもしなかった。



■■■■■



 未来が出ていったあと、しばらくその後ろ姿を眺めていた。

 小さくなる背中。

 私の愛する、大事な宝物。


「まったく、元気なのはいいけど、ちゃんと扉は締めておいてもらわないと」


 主人がそう言いながら、未来が開けっ放しにしていった扉を締めに行ってくれる。


「妊婦の身体を冷やしちゃいけないだろうに」

「まぁまぁ、今日は日差しも温かいし、大丈夫よ」


 その気遣いに感謝しつつ、声をかける。


「あなた、コーヒー冷めちゃうわよ。早く飲まないと」

「そうするよ」


 戻ってきた主人はコーヒーを手に取って口に運ぶ。「あちち」っと舌を出す。猫舌なのに一気に飲むから…と、少しおかしくなる。


「君の体調はどうだい?」

「悪くはないわよ」


 私はお腹に手をあてたままそう答える。

 本当は昨夜から少しだけ気分が悪かったのだけど、わざわざ主人に伝えて心配させるほどでもないか、と思って黙っていた。

 出産前あるあるの症状だろう。10年前、未来を生んだ時も同じような感じだったと思い出す。


「10年、か」

「なにがだい?」

「いや、私が前に出産したのが、もう10年も前だったな、って」

「あの時はおろおろしてたね」

「あなたがね」


 そう言って笑う。

 10年前か…10年前といえば、私、何歳だ?今が30歳ちょうどだから…おぉ、20歳か。若いなぁ。


「あなたも私も学生だったし、大変だったわよね」

「君から赤ちゃんできたって聞いた時はびっくりしたよ」

「…心当たりはあったでしょ?」

「心当たりは…あったなぁ」


 言いながら、主人は頭をぽりぽりとかく。

 昔から、都合が悪いときにごまかすその仕草は変わっていない。


「女子大生だった私を手籠めにしたのは、どこのどなたさんでしたかな?」

「手籠めって…」


 言葉が悪いなぁ、と主人は冷や汗をながしている。私は楽しくなって、よし、もっといじめてやろうと思った。


「いたいけだった女子大生の私は、悪い王子様に捕まってしまったのだわ」

「勘弁してくれよ」

「勘弁してあげない♪」


 にこっと笑う。

 ちょいちょいっと手招きをする。主人は少し笑いながら近づいてくる。

 近づいてきた主人を、がばっと抱きしめる。


「捕まえたー」

「こらこら」

「10年たって、あの頃の純粋な私は、悪いお姫様になってしまったのでした」

「まったく、君は」


 変わらないな、といいかけて、主人は首をふった。いいや、違うな…と小さくつぶやいた後、私をじっと見つめる。


「昔より、もっと素敵になった」

「それ、本気で言ってる?」

「本気も本気だよ」


 私の手の中の主人は、手の中にいるままで、私を見上げてきた。


「愛してるよ」

「あー、そのー」


 照れる。

 直視できない。

 普段は少し頼りないのに、時々、まっすぐになるから、この人はずるい。

 そんなとこがずるいんだよな、と思った。

 先に好きになったのはどっちだったかな?

 告白してきたのは、たしか主人だったような気がする…いや、私だったかな?

 どっちでもいいか。

 どっちにしても、答えは決まっていたんだから。


「私も」


 10年前と同じ答えを、10年たった今も繰り返す。


「愛してるわ」

「嬉しいよ」


 そして、主人が唇を近づけてきて…


「痛たたたたたっ」


 突然襲い掛かってきた痛みに、私は思わずテーブルの端を掴んでしまった。

 テーブルの上の花瓶が倒れて、水が零れる。流れていくその光景は、まるで羊水が零れ落ちていっているかのようだった。


「陽子!?」

「きちゃったかも」


 私はお腹を押さえたまま、脂汗を流す。


「もう病院に行こう」


 主人の声は少し震えていた。

 私は主人の手を握る。手のひらが汗ばんで、少し冷たかった。


「大丈夫かい?」

「…たぶん」


 10年前、未来を出産した時…こんなに痛かったかな?

 あれから10年もたっているし、私の記憶が薄れていただけかな?痛い思い出よりも、未来が生まれてくれた喜びの方が何百倍も大きかったから、痛みの記憶がかき消されていただけかもしれない。


「救急車呼ぼうか?」

「…それほどじゃ…ないと…思う…」


 まだ陣痛が始まったばかりだから、間隔が短くなるまでは様子をみないと…と頭の中で思う。とりあえず病院に連絡はしてもらって、間隔が10分くらいになったら行こう…

 いたい。

 頭がくらくらする。

 前もこんなだったかな…少し記憶が混濁しているような気もする。


「痛いかい?我慢できるかい?」

「あなた…」


 私は、ゆっくりと手を伸ばした。


「出産って、鼻からスイカいれるくらい痛いらしいよ…」

「こんな時に何を言っているんだ、君は?」

「まだ夏じゃないから、冷蔵庫にスイカないね…残念…」

「本当に、君は何を言っているんだ?そして俺に何をさせようとしているんだ?」


 主人が慌てているのをみて、私は笑った。

 あぁ、安心するなぁ。

 ほっとするなぁ。


 この人と一緒で、よかったなぁ。


 私はお腹に手をあてて。


 そんなことを、思っていた。



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