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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第二章 【未来9歳/沙織21歳】
22/85

第22話 【閑話休題④】恋が始まった日

 13年前の秋。

 ひゅうひゅうとなる風の音が、庭の柿の木を揺らしていた。

 風が少し肌寒い。

 私は厚着のままで、縁側に座っている姉さんの傍に近づいていった。学校から帰ったばかりのお姉ちゃんは制服も着替えずに座っていて、足をふらふらさせながら庭をじっと眺めている。


「お姉ちゃん、なにしてるの?」

「んー。柿の木見てるよ」

「おもしろい?」

「あんまり」


 面白くないのに、どうして寒いところにいるんだろう?私はそんなことを思いながら、お姉ちゃんの隣にちょこんと座る。


「お姉ちゃん、遊ぼうよ」

「何して遊びたい?」

「お姉ちゃんと遊びたい!」


 んー、それは質問の答えになっていないかなぁ…と笑いながら、お姉ちゃんは鞄をごそごそすると、中から鉛筆を2本取り出してきた。


「沙織、じゃぁ、お姉ちゃんとお絵描きしようか」

「うん!する!」


 私は立ち上がって、いったん家の中に入る。何かかくもの、かくもの…と探していたら、お父さんが使っているスケッチブックを見つけたので、それを手に取って縁側のお姉ちゃんのところに戻る。


「お姉ちゃん、あったよー」

「おお、これはお宝を発見したねぇ」


 そういってお姉ちゃんは笑った。

 秋の陽の光がお姉ちゃんを淡く照らしていて、髪の毛が金色に見えた。どうしてだろう?なぜか、胸のあたりがくすぐったくなる。


 お姉ちゃんはスケッチブックを開くと、膝の上において庭の柿の木の絵を描きはじめた。私はそれを見ているだけでも楽しかったのだけど、


「ほら、沙織も」


 そう言って鉛筆を渡される。

 お姉ちゃんはにっこりと笑って「2人で描いた方が楽しいよ」と言ってくれた。

 お姉ちゃんが柿の木を描いて、私はその傍に、手をつないで笑っている私とお姉ちゃんの絵を描く。


「沙織、上手じゃん」


 お姉ちゃんが覗き込んできて、私の頭をそっと撫でてくれた。

 ふわりと、指が髪に触れる。

 その一瞬で、心臓が跳ねた。


「もー、邪魔しないでー」

「ごめんごめん」


 そう言いながらも、お姉ちゃんは手を止めなかった。ぐしゃぐしゃっと私の頭を撫でてくる。いた気持ちいい。


「もー」

「あはははは」


 お姉ちゃんが笑うたびに、縁側に吊るしてあった風鈴が鳴った。澄んだ音。その小さな音色が、私の胸の奥にすっとしみ込んでくる。


「絵を描いたらなにするの?」

「そうだね、柿食べようか」

「美味しいの?」

「この柿、今年初めて実がなったから、どうかな…」


 お姉ちゃんはスケッチブックに真っ赤に熟れた柿をかきながら、なぜか、嬉しそうな眼をした。


「沙織、柿の木って、種を植えてから実がなるまで、何年かかるか知ってる?」

「知らない」

「桃栗3年、柿8年っていって、だいたい8年かかるんだよ」

「8年?」

「そう、8年」


 そう言うと、お姉ちゃんはいきなり縁側から庭へと降り立った。靴も履かず、そのまま、柿の木へと歩いていく。

 私はその背中を見ていた。

 お姉ちゃんはゆっくりと柿の木に近づくと、手を伸ばし、実を手に取る。


「この柿の木ね」


 よく熟れた柿の実を手にして、お姉ちゃんは私に振り返った。お姉ちゃんは、すごく、すごく優しそうな顔をしていた。


「沙織が生まれた年に、お父さんとお母さんと、そして私とで植えた柿の木なんだよ」

「私が…生まれた時…?」

「そう、沙織が生まれた時」


 私は今年、8歳になった。

 ということは、この柿の木は、私と同じ8歳なんだ。


「去年までは実がつかなかったのに、今年はちゃんと実がなったね…8年、経ったんだなぁ」


 お姉ちゃんは少し遠くを見るかのように、目を細めていた。お姉ちゃんが見ていたのは、遠くではなく、8年前だったのかもしれない。


「沙織、大きくなってくれて、有難うね」


 制服姿のお姉ちゃん。

 16歳の、高校生のお姉ちゃん。

 そのお姉ちゃんが、私を見て、笑ってくれている。


 私は、なぜか嬉しくなって。

 どうしようもなく、嬉しくなって。


 縁側から飛び降りて、お姉ちゃんに向かって走っていった。

 そのまま抱き着いて、お姉ちゃんの匂いを感じて、お姉ちゃんを見上げる。


「ねぇ、お姉ちゃん」

「なに、沙織」

「お姉ちゃんは…大きくなったら…だれとけっこんするの?」


 抱きつきながら、聞いてみる。

 お姉ちゃんは少しびっくりしたように目を大きく開いたけど、すぐに、照れたように笑った。


「うーん、考えたこともなかったなー」

「えー、なんでー?」

「だって、私、いま、好きな人いないもん」


 お姉ちゃんは笑った。


「結婚はね、好きな人とするんだ。お父さんとお母さんみたいにね。だから、まだ好きな人がいない私は、結婚なんて考えたこともないんだよ」

「じゃぁ、わたしがなる!」


 私は大きな声で宣言した。


「わたしが、お姉ちゃんの、およめさんになるっ!」


 お姉ちゃんは、目をぱちくりさせている。

 私をじっと見つめている。

 一瞬の静寂の後、その静寂をやぶったのは、お姉ちゃんの笑い声だった。


「あはははははっ。沙織が、私のお嫁さんになってくれるの?」

「うんっ」

「嬉しいけど…でも、だめかなー」

「なんでー?どうしてー?」


 私はお姉ちゃんに抱き着いたまま、不満の声を口にする。


「けっこんって、好きな人とするんだよね。わたし、お姉ちゃん大好きだもん。だからけっこんしよっ」


 自分で言った後、顔が熱くなるのが分かった。

 たぶん、顔も真っ赤になっている。さっきとった柿なんかより、よっぽど赤くなっている。


「お姉ちゃんはわたしのこと、好きじゃないの?」

「…好きだよ」


 頬を指でぽりぽりとかきながら、照れたように、お姉ちゃんはいった。


「沙織のことは好きだけど、でも、お姉ちゃんと沙織とじゃ結婚できないんだよ」

「どうしてー?」

「沙織、いま、何歳?」

「8歳」

「その年じゃ結婚できないの」

「どうして?」

「日本の法律でそう決まってるの」


 個人じゃ法律には勝てないからなー。と、お姉ちゃんは私の頭をなでながらいってくれた。でも、私はあきらめずに食い下がる。


「なら、何歳なら結婚できるの?」

「そりゃ…18歳になったら…」

「じゃぁ、お姉ちゃん、私が18歳になったらけっこんしてっ!」


 真剣な目で、私はお姉ちゃんを見つめる。

 お姉ちゃんはしばらく黙っていたけど、やがて、優しく私を抱きしめてくれた。


「10年たって、沙織が18歳になって、その時わたしが独身のままだったら、結婚しようか」

「ほんとに?」

「本当に」

「やくそくだよ?」

「約束する」


 ゆーびきーりげーんまん。

 うーそついたら、はーりせんぼん、のーます。


 お姉ちゃんは笑って、私の頭をもう一度撫でてくれて。

 その手のぬくもりが、秋の陽射しよりも、よっぽど優しくて。

 私は目を閉じて、そっとその手に頬をよせた。


 風が吹いて、柿の葉が1枚、ひらりと舞って、開かれたままのスケッチブックの上に落ちた。

 柿の木と、私と、お姉ちゃんが描かれた絵の上に落ちたその葉は、まるで私の胸の中にともった柔らかな赤い灯りのようだった。


 思えば、あの日。

 私は、はじめての恋をした。



■■■■■



 現在。

 私は一人、実家の縁側に座っていた。


 目を閉じて、昔のことを思い出していた。


 秋になっていた。

 柿の木は、13年前のあの日と同じように、赤く実っている。


 変わったのは、私は8歳の子供ではなく、21歳の大人になったということで。

 あの時、私の隣に姉さんがいたけど、今は私一人だけだということで。


 私は、13年前のあの日と同じように、靴も履かずに庭におりた。

 一歩一歩、歩いて柿の木へと向かう。


(10年たって、沙織が18歳になって、その時わたしが独身のままだったら、結婚しようか)


 姉さんは、嘘をつかなかった。

 私が18歳になった時、姉さんは26歳になっていて。

 結婚して、未来ちゃんもできていた。


 私は姉さんと結婚することはなく、そして来年、姉さんはまた、子供を産む。

 姉さんはどんどん変わっていくのに、私だけが変わらず取り残されていく。


 柿の木の前に立つ。


 8歳だった時は、本当に大きな柿の木にみえたけど、21歳になった私は背も伸びて、昔ほど大きくは感じなかった。


 柿の実を手に取り、口にする。


(…甘くて、柔らかい…)


 懐かしい味。

 あの日、姉さんと食べた柿の味。


 姉さんの妊娠の告白を受けたのは夏だった。

 いまは季節もすぎて9月になり、姉さんのつわりの症状も重くなってきていた。

 ご飯もあまり喉を通らないらしい。


(この柿なら)


 食べやすいかな。

 どうかな。


 (姉さん)


 私は変われなかったけど、今でも姉さんのことが大好きだから、無事に赤ちゃんを産んでほしい。


 寂しいけど。

 つらいけど。

 けど、前に向かって、歩きださないと。


 もう一度、柿をかじる。

 柔らかくて、美味しい。


 うん。

 この柿を、持っていこう。


 一緒に柿を食べながら、姉さんと思い出話をしよう。


 私の恋が、始まった秋のことを。

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