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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第二章 【未来9歳/沙織21歳】
21/85

第21話 夏、海、サマー③【未来9歳/沙織21歳】

 海からの帰り道。

 夕暮れのオレンジが車の窓を染めていた。

 助手席に座った姉さんが、運転席の旦那さんに笑いかけている。

 安心しきった、柔らかい笑顔。

 私の好きな、その笑顔。


(このたび…未来は、お姉ちゃんになることになりました!)


 姉さんの言葉を思い出す。

 胸の奥が静かに沈んでいく。


 私は未来ちゃんと並んで車の後部座席に座っていた。

 エンジン音が低く、重く響いてくる。

 潮風がまだ肌に残っている気がする。


「お母さん、赤ちゃん、おとこのこが生まれるの?それとも、おんなのこ?」


 未来ちゃんが嬉しそうにたずねている。

 隣から聞こえる声なのに、とても遠くから聞こえてくるような気がしてくる。


「まだわからないけど、未来は弟と妹、どっちが欲しい?」

「えーっとね…妹が欲しい!」

「そうなの?」

「うんっ」


 元気よくそう答えると、未来ちゃんは私に身体を預けてきた。未来ちゃんの体温が伝わってくる。それは…とても暖かかった。


「お母さんと沙織さんみたいになりたいのっ」


 私は、思わず、未来ちゃんを見つめた。

 未来ちゃんは信頼しきった目で私を見つめていた。

 その澄んだ瞳に見入っていると、私が、吸い込まれそうになる。


「妹ができたら、わたし、いっしょにお風呂にはいって、ねんねして、髪あらってあげるの!」

「ふふっ。頼もしいお姉ちゃんだね」

「えへへ」


 姉さんが笑って、旦那さんも目を細めていた。

 車の中の空気がきらめいているように見える。

 幸福そのものが、光の粒になってただよっているようにみえる。


(あぁ…綺麗だな)


 私はずっと、前の席に座っている姉さんの横顔を見つめていた。

 柔らかく揺れる髪。幸せそうな表情。唇。

 窓から差し込んでくる夕陽を受けて、姉さんの頬の輪郭が赤く染まっている。


 私は、姉さんの笑顔が好きだった。

 姉さんが笑っているのを見ると、心が溶けていって、私がどろどろになって、そして、いつも少しの寂しさを感じてしまう。


(私の大好きな姉さん)

(…私の、大好きだった、姉さん)


 私の大好きだった姉さんは、もう人妻で…もうすぐ母親になって…私から、どんどん離れて行ってしまうような気がしてくる。


(私のほうが、先に好きになったのに)


 運転している旦那さんを見て、ぼぅっとそんなことを思う。いつもいつも、ずっと思っていることだ。私の方が、先に姉さんを好きになったのに。姉さんが選んだのは、私じゃなくって、旦那さんだった。


(どうして、私を選んでくれなかったんだろう)

(私が女だから?)

(私が年下だから?)

(私が妹だから?)

(私が…)


 告白、しなかったから。


 選ばれるわけなんてない。

 想いをずっと胸に秘めたまま、伝えることがなければ、伝わるわけがない。察してほしい、なんて思って行動しなくて、時間だけが過ぎ去って。いつの間にか、取り返しがつかなくなって。


「…沙織さん…」


 はしゃぎ疲れたのか、隣に座っていた未来ちゃんが眠たそうに私の肩に頭をもたせかけてきた。

 眠そうな声。

 実際、眠いのだろう。

 寝かせてあげて、と、姉さんが目で訴えてきた。

 うん。まかせて。

 私も、視線で答える。

 そのまま姉さんは前を向き、旦那さんとおしゃべりをはじめ、そして。


「…好き」


 未来ちゃんの声が聞こえた。

 思わず、私は隣で寝ている未来ちゃんを見る。未来ちゃんはもう完全に寝入ってしまっていて、すぅすぅとした寝息だけが聞こえてくるだけだった。


 その体温が暖かい。

 姉さんの娘。大切な姪っ子。


(私を、好きでいてくれる子)


 私と違って、ちゃんと告白してくれる子。


(私は、なにを望んでいたんだろうな)


 ただ、傍にいたかっただけだった。

 姉さんの隣に座っていたかっただけだった。

 なのに、いつの間にか、姉さんは私の届かない場所に立っていて、その隣には私じゃない人が寄り添っている。


「ねぇ、沙織」


 ふいに、姉さんがバックミラー超しに私を見てきた。

 視線がぶつかり、私は一瞬、息を止める。


「ありがとうね、今日、来てくれて」

「…え?」

「沙織にも一緒に聞いてほしかったの」


 姉さんは目を閉じた。


「私の大事な…家族だから」


 そういって、優しく笑う。

 その笑顔はあまりにも優しくて、あまりにも遠かった。


「…うん」


 いろいろ伝えてようとして、何も言葉が出てこなかった。

 心の中に、どうしても痛みが残っている。きっと、一生、抜けることのない痛み。私が一生、抱えて居なければいけない痛み。

 まるで舌の上で溶ける海水みたいに、塩辛くて、でもその中に少しだけ甘さが残るような、痛み。


「…あのね、私ね」


 何を伝えようとしているのだろう。私は、何を言おうとしているのだろう。私は私で、自分のことが分からなくなる。私は、私は。

 未来ちゃんが、私の腕をぎゅっと抱きしめてきた。

 寝たままで、意識もなく、ただ純粋に、私を求めてくれている。

 その暖かさが、私の中に残る離れがたい痛みを包み込んでくれて。


 わたしはやっと、その言葉を口に出すことができた。


「姉さんのこと、大好きだよ」

「…うん、知ってる」


 姉さんは笑って、私も笑って。

 穏やかな時間だけが、残った。



■■■■■



 車がゆっくりとサービスエリアにはいる。

 姉さんは「ちょっとトイレに行ってくるね」といって降りていった。

 旦那さんも少し買い出しにいってくるといって一緒に降りて行ったので、車内には私と未来ちゃんだけが残されていた。


 未来ちゃんは私の膝に頭をのせたまま、気持ちよさそうに眠っている。


 私は黙って、その小さな髪をなでていた。

 子供の寝息。

 静かなエンジン音。

 2人だけしかいない時間。

 車の外からは、蝉の声がかすかに響いてくる。


(もう夏が終わるのかな)


 そう思い、寂しくなる。

 このまま時間が止まってくれればいいのに。

 この夏が、ずっと終わらなければいいのに。


 そう物思いにふけっていたとき、車のドアが開いて、姉さんが戻ってきた。自販機で買ってきたのか、手にはミネラルウォーターを2本持っていた。


「はい、沙織」

「ありがとう、姉さん」


 一本受け取ると、プルタブを開けて、冷たい水を飲んだ。

 姉さんは私の隣で眠っている未来ちゃんを見つめている。その表情はやさしくて、穏やかで、母親の顔だった。


「安心しきって寝てる」

「疲れたんでしょう」

「沙織、まるでお母さんみたいだよ」

「私、結婚してないよ」


 …それに、これから先も、するつもりはないよ、と思う。

 好きな人とするのが結婚なら、私の結婚相手は一人だけで、そしてその相手はもうすでに結婚しているのだから。


「来年の春は忙しくなるわね」

「そうかな?」

「そうでしょう?」


 姉さんは少しだけ笑って、まだ大きくなっていないお腹をさする。


「来年の春には、赤ちゃんも生まれるし」

「…」

「あなただって、就職して、教師になるんでしょう?」


 そうだった。

 来年には私は大学を卒業して…教師になる。

 時間は止まることなく、前へ、前へと進んでいく。


「未来、あなたも来年はお姉ちゃんになるね」


 そう言いながら、未来ちゃんの頬を指でなぞる。

 その手が、光を受けて柔らかく透けて見えた。


 私は、その光景を目に焼き付けるように見つめた。

 姉さんと未来。

 母と娘。

 私が好きだった人と、私を好きでいてくれる子。


(ああ)


 分かってしまう。

 私はもう、昔にはかえれないんだ。

 姉さんの後ろを走っていたあの幸せな日々はもう来ないけど。

 悲しいけど。

 でも、どこか、安心するような気持ちもわいてくる。


「姉さん」


 私は言う。


「幸せ?」

「もちろん!」


 迷うことなく姉さんはこたえ、私の迷いも消えていく。


 私はもう一度、水を口に含んだ。

 冷たさが、涙の代わりに喉を冷やしてくれた。


 旦那さんが手にミネラルウォーターのペットボトルを抱えてかえってきて、「あれれ?君とかぶっちゃったな」と笑いながら運転席に座った。


 私から姉さんをとった男。

 私より姉さんを幸せにしてる男。


「…沙織さん………」


 未来ちゃんが私の名前を呼んで、ぎゅっと抱き着いてくる。

 起きたのかな?と思ったら、まだ眠っていた。

 夢の中にいるみたいだ。

 夢の中でも、私を追いかけてきてくれているのかな。


 あたたかいな。


 夕日が落ちていく。

 夏は少しずつ遠ざかっていく。

 車の影が伸びていく。


 夏が終わる。


 あの夏の帰り道の景色を、私は今でも、ずっと覚えている。





 私の恋が、終わった夏のことを。



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