第20話 夏、海、サマー②【未来9歳/沙織21歳】
輝く夏の太陽の光が、私と姉さんに照り付けてきていた。
眼前に広がる海が光を受けて白くまたたいている。
私は目を細めて、遠くを見ながら、先ほど姉さんが言った言葉を思い出していた。
「未来のこと、どう思っている?」
思うも何も…
未来ちゃんは姉さんの娘で、私の可愛い姪っ子。
それ以上でも、それ以下でもない。
そんな、当たり前のことを…姉さんが、聞いてくるわけがない。
もう一度、姉さんが口を開いた。
「…ねぇ、沙織。私の娘…未来のこと、あなたはどう思っている?」
姉さんの声は優しくて、柔らかくて、だけどどこか何かを確かめるようで。
私の胸の奥に、静かな波紋が広がっていった。
「…どう思っているって言われても…」
私は少し考えるふりをして、ほほ笑んだ。
「未来ちゃんは…姉さんの娘で…そして、私の可愛い姪っ子よ」
腕を組む。胸のうちを悟られないように。
「たしかに、あの子は私のことを好きでいてくれるから…嬉しいし、撫でてあげたいな、とは思うけど、けど、可愛い姪っ子としかみれないわ…未来ちゃんには悪いけど、それ以上でも、それ以下でもないの」
遠くで、未来ちゃんが私たちの方を見て手を振っているのがみえる。海の中、浮き袋を持って嬉しそうに笑っている。その無邪気な姿に、そっと手を振ってこたえる。
(聞かれなくてよかった)
ふと、そう思ってしまう。
あの子のことを、姪っ子以上にも以下にも見れないって私が言ったことを…あの子に聞かれなくてよかった。
未来ちゃんの笑顔を壊したくない。
未来ちゃんを…悲しませたくない。
「ふーん…そっか…うん。そうだよね」
横で姉さんがまるで自分に言い聞かせるかのように声を漏らす。
端正な横顔。長いまつげ。
私の胸が高鳴るのが分かる。
(心臓の音、聞こえないで)
姉さんが好き。姉さんが大好き。
でも、この気持ちは、伝えてはいけない。
(…昔は、無邪気に伝えていたな)
海で楽しそうに遊んでいる未来ちゃんをみながら、そう思う。私も、未来ちゃんくらいの年の頃、ただ単純に、自分の心に素直になって、姉さんに対していつもいつも「好き」って伝えていたものだった。
「ごめんね、変なこと聞いて」
「ううん。気にしないで」
姉さんは大きく背伸びをして、空を見上げた。
「あんまりあの子が、あなたのことを好き好きっていうから…ちょっと確かめてみたくなったの」
「そうなの?」
「そうよ」
姉さんは手をおろし、私の方を見つめて、そして少し、意地悪そうに笑った。
「まるで昔の沙織みたいにね」
「ね、姉さんっ」
「あはは」
姉さんは砂浜を歩き始めた。背中だけが見える。花柄のビキニの裏側は紐だけしかなくて、姉さんの身体を覆い隠すにはどうしても布地が足りなかった。
「まぁ、家族だもんね…好きにもなるか」
姉さんの顔は見えないから、その声の裏側にどんな感情が隠れているのかは、私には分からなかった。
「最近、沙織がお姉ちゃん好きって言ってくれないから、お姉ちゃん寂しいな」
「はいはい、好きですよー」
「もっと言ってくれていいのよ?」
「お姉ちゃん、大好き」
「妹よ、私も好きだよー」
「家族として?」
「もちろん、家族として♪」
…私は違うよ。
お姉ちゃんのことを好きなのは、家族としてじゃないよ。
女として、お姉ちゃんが、好きだよ。
喉まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで、私は、姉の背中に向かって語りかけた。
「私も、家族として、お姉ちゃんのこと、大好きだよ」
だからどうか、気づかないで。
私の、気持ちを。
■■■■■
旦那さんは車を遠くの駐車場にとめて、手に大きなパラソルを持ってかえってきた。
そのパラソルで砂浜に私たちだけの秘密基地を作る。
…いや、作ったのは休憩所で、秘密基地といったのは姉さんだけだったけど。
そんな姉さんを手伝っていた旦那さんは、さすがに疲れたのか秘密基地…休憩所に座ると、
「僕はここに座って荷物番をしておくから、君たちは海であそんできてごらんよ」
そういって手を振ってきた。
「このー。めんどくさがりやめ。そんなことだから、そのお腹に肉がついてくるんだぞ」
姉さんはそう言って、自分のお腹に手をやっていたずらっぽく笑った。旦那さんはにこりと笑って。
「僕ももう30手前だからね。こうなるのも仕方ないよ」
「こらこら、私だって同い年だぞ」
「そうだね、でも」
旦那さんは、姉さんを見つめて、言う。
「それでも君は、今が一番綺麗だよ」
「…」
真っ赤な顔。
姉さんの、真っ赤な顔。
姉さんは黙って旦那さんをぽかぽかと叩くと、「未来、いくよっ」と言って、未来ちゃんの手を引いて海へ向かって歩いていった。
耳まで真っ赤にしたままで。
見たくない。見たくない。見たくない。
姉さんのそんな姿、見たくない。
私の前で、見せないで。
そんな幸せそうな顔…しないでよ。
私と旦那さんだけが取り残された。
空気が重い。
重くしているのは私だ。
口を開くことなく、ただ、黙ったまま立ち尽くしている。
「あの…」
「私も、泳いできます」
気を使って語り掛けようとしてくれた旦那さんの言葉をさえぎるようにして、私はそう言うと、姉さんを追いかけた。
追いかける私の姿を振り返ってみると、未来ちゃんが嬉しそうに笑って手を振ってくる。
「待って」
そう言って、私は追いかける。
走る。
砂浜の上を、走る。
待って。
待って。
待って、姉さん。
私を…
おいていかないで。
夏の日差しで温められた砂浜は、素足で走るには少し熱すぎて、私を痛めつけてきた。
■■■■■
海をとことん楽しみつくした私たちが車に戻ってきたときは、さすがに疲れ切っていて、肩で息をしていた。
…正確には、一人だけ元気な子がいた。
「楽しかったね、沙織さんっ」
もちろん、それは未来ちゃんだった。
「若いわね…」
私より12歳も年下の可愛い姪っ子ちゃんは、疲れ切った私の隣に座って嬉しそうに水筒から麦茶を飲んでいた。
ごくごくっという音がして、未来ちゃんの喉が動いている。
(若いなぁ)
と、もう一度思う。
私が未来ちゃんの年の頃を思い出したら、こんなに元気だっただろうか?と。
砂で汚れたパラソルをきれいに畳んで車のトランクに入れる。
着替えのつまったバッグも同じように押し込んで、ようやく一息がつけた。
「そろそろ帰ろうか」
旦那さんがそういって運転席に座そうとする。
車の扉に手をかけた時。
「ちょっと待って」
と、声がした。
姉さんだった。
風が吹いてきた。
姉さんの髪がふわりと揺れて、夕暮れでだいだい色になった夕陽を背にして、指先をそっとお腹に触れた。
「さっきの続きかい?」
旦那さんも笑って、自分のお腹に手をやった。
白いTシャツは広がっていて、お腹が少し出ているのが分かる。
「あのね…」
と姉さんは言うと、すたすたと歩いて、未来ちゃんの隣にたった。
私も、旦那さんも、車の前でその光景をみる。
なんだろう?
楽しかった1日の最後の締めの言葉でもいうつもりなのかな。飲み会の締めみたいに。一本締めとか。
「じつは、みんなにお知らせがあります」
その声の中に、少しの緊張が含まれているのが分かった。
姉さんは左手をお腹にそえたまま、右手で未来ちゃんの頭を撫でた。
なぁに?と言いたそうに、未来ちゃんが顔をあげる。
そんな未来ちゃんを優しく見つめて、姉さんがいった。
「このたび…未来は、お姉ちゃんになることになりました!」
…え。
その瞬間、音がやんだ。
旦那さんは目を丸くして姉さんを見つめ、未来ちゃんは意味が分かっていないらしく、首をかしげながらお母さんを見つめている。
私だけが、世界が止まっていた。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、姉さんは照れくさそうに笑いながら未来ちゃんの頭から手を離し…両手をお腹の前にかさねた。
「昨日病院でね…妊娠2か月目だって」
嬉しそうに笑う姉さん。
立ち上がり、姉さんを抱きしめる旦那さん。
きょろきょろする未来ちゃんに向かって、
「来年の4月ごろにね、未来の妹か弟が生まれるのよ」
そういって笑う姉さん。
やったぁ、と喜ぶ未来ちゃん。
私お姉ちゃんになるんだと喜ぶ未来ちゃん。
みんな笑っている。
みんな幸せそうに笑っている。
(姉さんが)
笑え。
笑わないと、私。
姉さんのお腹を見る。
旦那さんの顔をみる。
姉さんが、妊娠。
この男が、姉さんを。
私の姉さんを。
夫婦だから当たり前だ。
当たり前のことを当たり前のようにして、当たり前の結果が出ただけだ。
未来ちゃんを見る。
幸せそうな未来ちゃん。
可愛い未来ちゃん。
未来ちゃんがいるんだから、姉さんは未来ちゃんを生んだことがあるんだから、だから、旦那さんと、そんなことを、あんなことをするのは、当たり前のことで。
だめだ。
いやだ。
かんがえたくない。
笑わなきゃ。
笑って、祝福しなきゃ。
笑え。
笑え、私。
「…おめでとう…ねえさん」
わたしは、そういって、笑った。
「ありがとう、沙織」
ねえさんも、そういって、笑って答えてくれた。
わたし、うまく、笑えたかな。
何も考えたくない。




