第18話 ちゅっ【未来9歳/沙織21歳】
沙織さんの教育実習の最終日が来た。
朝から、なんか胸の奥がざわざわしている。
この二週間、学校にいけば沙織さんに会うことができていた。それはすごく幸せなことで…そして、少し寂しいことでもあった。
(私は小学生で)
(沙織さんは大人)
私と沙織さんとの差を、はっきりと感じさせられた二週間でもあったからだ。
スーツ姿の沙織さんは素敵で。
授業をしている沙織さんも素敵で。
今までより、もっともっと、好きになっていた。
私が沙織さんを好きになったきっかけは、一目惚れだった。
沙織さんの顔が好きだった。
優しい瞳、漆黒の髪、すらりと通った鼻筋。蠱惑的な唇。
立ち振る舞いも好き。
沙織さんの歩いている姿は、離れていても分かる。一言で言い表せない気品が満ち溢れている。
性格も好き。
落ち着いていて、穏やかで。
私を見る時は優しくて、声も透き通っていて。
もう、好きじゃないところがないくらい、好き。
見た目から好きになって、今は全部が好きになっていた。
けっこんしたいくらい、好き。
教育実習最終日の今日。
教壇にたって最後の授業をしている沙織さんの後姿をながめながら、私はぼんやりとそんなことを考えていた。
「…未来」
うしろから、つつかれる。
颯真だった。
「何ぼんやりしているんだよ」
小声で言われる。
私がぼーっと沙織さんを見ているのがお気に召さなかったらしい。
「べつに」
「ばーか」
小声でやりとりする。
そんな私たち2人をみて、隣の席の美月がくすりと笑う。
「2人とも」
相変わらずなんだから、と、美月がこぼす。
相変わらず…いつもどおり、今までどおり。
本当は、二週間前とは違っている。
私は颯真の気持ちを知っていて、颯真も私の気持ちを知っている。
そして美月はこんな私たちを包み込んでくれている。
変わったのに、変わっていない。
私たちは、少しだけ、成長できたのかもしれない。
「こら、そこ、しゃべらないの」
沙織さんが、私たちを指さして注意してくる。
きりっとした瞳が綺麗で、注意されたのに私は思わずにやけてしまった。沙織さんが、私を見てくれている…注意されて喜ぶなんて、私は悪い子だ。
もう梅雨は終わり。
外は晴れ渡っている。
光は柔らかで白く、教室内に舞っている埃すらキラキラ輝いていた。
その中心にスーツ姿の沙織さんがいて。
私は心の中のシャッターを押して、この光景を永遠に心の中に閉じ込めた。
■■■■■
放課後、の前の、終わりの会。
沙織さんは教室の前に立って、背筋を伸ばして、私たちに向かって最後の挨拶をした。
黒板の前に立つその姿を、私は瞬きをするのも惜しいくらいに、じっと見つめていた。心の刻み込んでいた。
「みんな、本当にありがとう。二週間という短い間でしたが、私はこの二週間を絶対に忘れることはありません」
そう言って、一礼をする。
上品な一礼だった。
教室のあちこちから、「先生、ありがとうー!また来てねー!」との声が飛んでいた。
沙織さんは笑って、少し涙をこらえるように目を細めていた。
その横顔が、どうしようもなく綺麗だった。
(でも)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
(また来てね、なんて言葉、嘘だ)
来年、再来年、その次。
私たちはクラスも変わっていくし、沙織さんは先に大人になっていく。
同じ日なんて、二度と来ない。
また来た先に、私たちはいない。
私は、颯真と美月のことを考えた。
関係が…変わってしまった、2人の親友のことを考えた。
少しだけ先にすすんだ、私たち3人のことを考えた。
私たちは成長していく。
私は成長していく。
沙織さんも成長していく。
私が一歩前に歩いた時、同じように、沙織さんも一歩、前に歩いている。
私が二歩歩いたら、沙織さんも二歩。
三歩なら、三歩。
私と沙織さんは、生まれた時から12年の隔たりがあって。
一生懸命走っても、その差が縮まることはない。
「先生、ありがとうございました!」
クラスの委員長はそう言って、花束を沙織さんに渡していた。
たくさんの花。綺麗な花。
花束を持った沙織さんは、その中で一番素敵な花だった。
寄せ書きも渡される。
クラスメイトの全員が沙織さんに対して、一言づつ感謝の気持ちを書いた色紙。
沙織さんはその色紙を見て、幸せそうに微笑んでいた。
その寄せ書きの中には、私が書いた一文もある。
何を書こうか、何を書くべきか、と悩んだ結果、
「先生の背中が遠いほど、どうしようもなく好きになります」
と書いた。
(先生)
(先に生まれる、と書いて、先生)
(沙織さんは私より12年も先に生まれていて…9歳の私が生きた全部の時間よりも、さらに長い時間を先に過ごしていて…)
(私がどんなに頑張っても、その差を埋めることができないのが…)
(悔しい)
沙織さんは、先生になろうとしている。
沙織さんは、まっすぐに頑張っている。
その姿が好き。
その後ろ姿が、好き。
(なら私は)
何になろうとしているんだろう。
沙織さんが好き。
大好き。
この気持ちはずっと変わらないけど。
好き、なだけじゃ、いけない気がしてきた。
私は何に、なればいいのだろう?
■■■■■
チャイムが鳴って、学校が終わって。
みんな足早に下校していく。
私は、颯真と美月に「ごめんね、今日はちょっと…用事があるんだ」とだけ言って、先に帰ってくれるようにお願いした。
ちょっとだけ嘘をついた。
用事は…あるようで、ない。
私が用事を作っているだけだった…自分のために。
「…うん、分かった」
「未来ちゃん、また明日ね」
2人はなんとなくそれを察してくれたみたいで、私を深く追求することなく、手を振って先に教室を出ていった。
颯真は少し寂しそうで。
美月はそんな颯真をみて、手を握ると「ほら、颯真、早く行こうよ」と言って颯真を引っ張っていった。
(ありがとう)
と私は思い、ゆっくりと学校を出て、ランドセルを背負ったまま、校門の傍にたっていた。
空が青い。
飛べないのが不思議なくらい、澄んだ空。
遠くに二羽の鳥が飛んでいるのが見える。
夏が、近いな、と思った。
どれだけの時間がたっただろう。
すごく長く待ったような気がするし…そんなに待っていなかったような気もする。
でも、肌が少しちりちりしてたから、やっぱりけっこう長い時間、外に立っていたんだろうな。
「未来ちゃん、まだ帰っていなかったの?」
私が待っていた人が、額に流れる汗をぬぐいながら学校から出てきた。
スーツ姿の沙織さん。
校内では後ろで結んでいた髪の毛をほどいていて、綺麗な黒髪は腰の近くまでたなびいていた。
「…うん、一番最初に会いたかったの」
「…最初?」
「うん、最初!」
怪訝そうな顔をする沙織さんを見て、私は笑った。
「先生が…先生から、沙織さんに戻って、一番最初に会う人になりたかったの!」
沙織さんは、校門から一歩外に出ていた。
ここで、先生は終わり。
ここからは、先生から沙織さんに戻る。
「えへへー」
私は笑って、沙織さんの手に抱き着いた。
「おかえり、沙織さんっ」
「…ただいま、未来ちゃん」
まだ、家まではけっこうあるけどね…と沙織さんはつぶやきながら、それでもにこっと笑って私を見つめてくれた。
手には花束をかかえたままだ。
肩に鞄をかけている。
寄せ書きの色紙は、この鞄の中に入っているのかな。
「じゃぁ、未来ちゃんの家まで歩こうか」
「うん!」
花束を抱えてない方の手にしがみついたまま、私は沙織さんと一緒に歩き始めた。
沙織さんの方が背が高くて足も長いので、沙織さんが一歩すすむたびに、私は二歩進まなければいけなかった。
ぱたぱた歩きながら、陽の光に照らされて少しにじむ沙織さんの汗の匂いをかいでいた。
「沙織さんは、いつから先生になるの?」
「大学卒業して…来年からかな」
そう言いながら、沙織さんは前を見つめる。
下から見上げる沙織さんのその顔は、いつもより更に綺麗に見えた。
「来年から、水瀬先生になるんだね」
「まだ実感わかないなぁ」
なってないんだから当たり前か、はは、と沙織さんは笑った。
「来年は未来ちゃんももう、小学5年生だね」
(もう、じゃない)
(まだ、だよ)
と、私は思った。
まだ、小学5年生。
沙織さんは水瀬先生になって働くのに、わたしはまだ、ランドセルを背負って小学校に通っていなければいけない。
「早く大人になりたいな」
「私は子供に戻りたいけどね」
沙織さんは笑った。
「未来ちゃんが6歳としをとって、私が6歳若返ったら、同じ15歳の女子中学生になれるね」
一緒に高校受験しなくちゃ、といたずらっぽく言いながら、「でも、もう一回受験するのは勘弁かなぁ…」とも続ける。
仮定の話だから、絶対にない現実だから、だから笑ってそんなことがいえる。
「沙織さんは…」
いつから、学校の先生になりたいって思ったの?
ふと、心に思い浮かんだ疑問を、思わず声に出してしまっていた。別に沙織さんに本気で聞こうと思ったわけではなかった。ただ単に、口が滑っただけだ。けれど沙織さんは少し考えこんだあと、私のその疑問に答えてくれた。
「中学生の頃に、ぼんやりと」
高校生になって、本気で。
「私と姉さん、8歳としが離れているから、小さいころ、いつも姉さんが私に勉強を教えてくれていたんだ」
沙織さんが遠くを見つめている。
見つめた視線の先には海が見える…けれど、沙織さんが見ているのは、海じゃない。
沙織さんが見つめているのは、遠い過去だ。
「そんな姉さんに憧れて…」
私は、先生になろうって思ったんだよ。
私の前に沙織さんがいて。
沙織さんの前に…お母さんがいた。
沙織さんの表情は柔らかくて…優しくて…少し、頬が紅潮していて。
見ていて、心がちくちくしてくる。
(遠いなぁ)
私は、思った。
(遠くて、遠くて)
寄せ書きに書いた、自分の言葉を思い出す。
【先生の背中が遠いほど、どうしようもなく好きになります】
(どうしようもなく)
(好き)
「沙織さん」
私は立ち止まって、沙織さんを見上げた。
遠くを見ていた沙織さんを引き戻す。
遠くを見ないで。
こっちを見て。
私を、見て。
「私ね、まだ沙織さんみたいに、なりたいものはないけど」
「けど、ぜったいに」
「なにかになるから」
「だから」
息をのむ。
じっと見つめる。
「好き」
何度目かも分からない、何度目だったかも覚えていない、私の告白。
沙織さんが、好き。
どうしようもないくらい、好き。
「…ありがとう、ね」
沙織さんはそう言うと、しゃがみ込んだ。
沙織さんは、私を否定しない。
沙織さんは、私を拒絶しない。
そして、沙織さんは…
私を…私の告白を…受け入れることはない。
優しくいなして、柔らかにつつみこんで、私を傷つけないように、私が悲しまないように、まるで、かつて自分がそうだったかのように、好き、という言葉を大事に飾ってくれる。
いつもそうだった。
いつもはそうだった。
でも、今日は。
なぜか、今日は。
「未来ちゃん」
そういうと、私の髪をかきあげて。
額に。
そっと。
唇を。
こころが…どうにかなりそうだった。
全身の血液が顔にあつまったような気がした。
柔らかい。
沙織さんの、唇。
唇が、私の。
ひたいに。
たしかに、当たっていて。
永遠のような一瞬の後。
沙織さんは唇を離して、私から目をそらして、少し照れたように、言った。
「昔、姉さんも、私によくしてくれたの」
遠い遠い記憶が、めぐる記憶が。
はるかな背中が。
私は自分のひたいに手を添える。
ここに。
沙織さんが。
私のために。
え。
嘘。
だめ。
むり。
とけそう。
沙織さんにとっては、ただの気の迷い、きまぐれだったとしても。
私にとっては、今まで生きてきた中で一番の衝撃で。
幸せで。
あたたかくて。
ぽっかぽかで。
一生、忘れない。