第16話 ごめんね。【未来9歳/沙織21歳】
「私のことが…」
「あぁ、好きだ」
颯真はそう言うと、まっすぐに私を見つめてくる。
いつものおどけた颯真はそこにはいなかった。真剣で、まっすぐで、見たことがない颯真がそこにはいた。
突然のことで、私はどう返事をすればいいのかは分からなかった。
颯真が、私のことを好き。
今まで、まったく気が付かなかった…
(ううん)
違う。
うすうす気づいていた。
気づいていたけれど…直視していなかった。気づかないふりをしていた。
私たちの関係が変わるのがいやで、見て見ぬふりをしていた。
自分の心まで、だましていた。
だから、私は、どんな返事をしようかと迷った結果。
「…ありがとう」
とだけ、こたえた。
ありがとう。あいまいな言葉。
イエスでも、ノーでもない。
相手を傷つけないように…自分が傷つかないように、そんな、お互いのことを思った、お互いのことを「思わない」言葉。
(あ)
気づいた。
気づいてしまった。
気づきたくないことに、気づいてしまった。
(沙織さんも)
いつも、私が「好き」って言った時、「ありがとう」って返してくれる。
少し嬉しそうな顔で、少し困ったような顔で。
いろんな表情をするけど、でも、帰ってくる言葉は必ず、
(ありがとう)
だった。
(…いまの、私と同じ)
颯真を見る。
まっすぐ私を見つめてくれている。
肩で息をして、胸に手をやって、苦しそうな顔をしながら、それでも目を逸らさずに私を見つめてくれている。
(颯真は、私だ)
私を見つめる颯真の姿は、沙織さんを見つめる私の姿と同じだった。
まっすぐな、好き。目を逸らさない、好き。自分の気持ちを押し付けるだけの、好き。
私は胸が苦しくなった。息を吸っても、空気が肺まで入っていかないような気がした。放課後の校舎裏。ここにいるは私たち3人だけ。
遠くには帰宅途中の子たちの背中もみえる。
みんな、こんなところで、私たちはこんなことになっているだなんて思ってもいないんだろうな。
時間が止まったような気がする。身体の動きが鈍くなってきたような気がする。このまま黙っていたら、やりすごせないかな。何もなかったみたいに、今までの関係に戻れないかな。
「…未来ちゃん」
声がする。
美月の声。
私の大事な、こっちに来て初めてできた友達で…親友の声。
「颯真に…颯真の言葉に、こたえてあげて」
苦しそうな顔で、絞り出すように、そう伝えてきた。
(こたえてあげる?)
いま、こたえたよ。「ありがとう」って、ちゃんとこたえたよ。
そう思いながら、美月をみつめる。
美月は首をふった。まるで、私の心の中が分かっているかのように、ゆっくりと、首をふった。
「未来ちゃん…私ね、未来ちゃんのことが、好き」
「美月…」
「でもね、この好きって気持ちは、友達としての、好き」
美月は目を閉じて、息を吐き出した。
ゆっくり、ゆっくり、時間をかけて。
そして、目をあけて、少し晴れやかな顔になって、私を見つめてくる。
「未来ちゃん、好きだよ」
「…うん」
私も、美月のことが好き。
友達として、大好き。
かけがえのない、私の親友。
(そうか)
美月の「好き」には、ちゃんと答えられる。
自分の中の気持ちを、ちゃんと伝えられる。
でも、さっきの颯真の「好き」には…
私は、ちゃんと答えてはいない。
はぐらかして、目を逸らして。
颯真の気持ちを、受け取っていない。
もう一度、美月をみる。
美月は、こくんとうなづいた。
「颯真」
私は再び、颯真を見つめる。
今度こそ、ちゃんと見つめる。
颯真も、私を見ている。
目が、瞳が。
夕焼けに照らされている。
「私ね、颯真のこと、友達として、好き」
「…うん」
「颯真は、私の大切な…たいせつな、親友だと思ってる」
「…うん」
「だからね、だからね、颯真」
私の心の中にある、一番大事な、一番真っ赤な「好き」の気持ちは、もうあの人だけで占められているんだ。この好きを分けてあげることなんて、できない。
だから答えは、颯真からの「好き」に対する答えは、最初から決まっていたんだ。あいまいな「ありがとう」なんかじゃない、返すべき答えは…
「ごめんね」
震えずに、言えたかな。
ちゃんと、伝わったかな。
私の頬に、冷たいものが流れた。
私は、泣いていた。
泣くなんて卑怯だと思うけど、流れてくる涙を止めるすべなんて、私は知らなかった。
「ごめん。ごめんね、颯真。ほんとに、ごめんね」
「…泣くなよ」
「泣いてない」
「泣いてるよ、ばーっか」
颯真は真っ赤な顔をして私に近づいてきて、私の頭をぐしゃぐしゃする。
「そんなの、知ってたよ、ばーか」
「ばかじゃない」
「ばかだよ」
「ばか」
「ばーか」
私と颯真は泣きじゃくりながら、震えながら、空を見ていた。
夕暮れの空は真っ赤で、雨雲なんて一つもない。
だから、私の颯真の顔がびしょぬれなのは、雨のせいじゃなかった。
「…私も…」
泣きながら、美月が近づいてきた。
なんなら、私たちよりもたくさん泣いていた。
私たち3人は、ずっとずっと、泣いていて。
泣きながら、お互いの手を握っていた。
■■■■■
未来ちゃんたち3人が泣きながら手をつないで帰っていくのを、私はずっと見つめていた。
夕日が3人を照らして、影が長く伸びていた。
3人はゆっくり歩いていて、ときおり肩と肩がふれあって、それでも気にすることなく、一緒にかえっていく。
私には何もできなかった。
どうすればいいかなんて、大学では教えてくれなかった。
分からないから、だから私は、ずっと見ていただけだ。
こんなことで、私はちゃんとした先生になれるのだろうか。
(なれるのだろうか、じゃないよね)
ならなきゃいけないんだ。
私の夢。小さいころからずっと憧れていた、先生になるって夢。
あの3人から、そのための大事な「何か」を教えてもらったような気がする。
私に足りていないものを、少し埋めてもらったような気がする。
(好き)
という言葉。
私も何回も口にして、何回も耳にした言葉。
子供の頃の好きなんて、そのうちの99%が大人になったら消えているものだろう。今日のこの痛みも、いつか思い出の中に消えてしまい、セピア色に加工されて心の中にその残滓を残すだけになるのだろう。
(99%は消える)
(…でも)
残りの1%は。
私は、胸に手をあてる。
その1%が、たしかにここにあった。
(未来ちゃん)
思う。
未来ちゃんの好きは…たぶん、私と同じだ。
ずっと残る、1%の方の、好き、だ。
未来ちゃんに好きと言われるのは…心地よい。
純粋でまっすぐな気持ちが伝わるから、私の心の中の氷河を、少しだけ溶かしてくれるから。
(卑怯だな、私は)
未来ちゃんに何も返せないことを知っていながら、未来ちゃんから放たれる甘美な思いだけは一方的に甘受している。
甘いあまい、とろけるような気持ち。
あいまいにして、悦びだけを享受して。
そして、気持ちだけは受け入れない。
小さいころからずっと胸の中にしまっている姉さんへの想いだけで、私の心は一杯なんだ。もう、何も入る隙間なんてないんだ。
そう思う。
そう、思おうとする。
私の中は、姉さんでいっぱい。
いっぱいの、はず。
姉さんが結婚した時、私のものにならないと永遠に私のものにならないとはっきり分かったあの日から、私の心は封印されたままなんだ。
(でないと)
あまりにも…みじめすぎるから。
小さいころから大事にしていた想いが無駄になるのが嫌だから。
私の中の姉さんへの想いは特別なんだ。
決して色あせない、永遠の1%なんだ。
指の間から。
胸にあてた指の間から。
少しずつ、溶けているものがあるのを、私はみないようにする。
目を逸らす。
(あの子たちは純粋で)
(私は純粋なんかじゃない)
もう見えなくなったあの3人の後姿を思い浮かべる。
泣きながら帰っていた3人。
泣けずに立ち尽くしている、大人の私。
ふと、未来ちゃんの笑顔が思い出された。
姉さんの子供…姉さんの血を引いた、姉さんの半分が伝わった、可愛い子。
12歳も年下の、私の姪っ子。
とくん。
胸が、動いた気がする。
指の間から流れ落ちるものが、溶けた氷河の純水が。
指と指の隙間から…零れて…胸に隙間ができて…
(ううん)
勘違い。
私は、間違ってなんかいない。
私は…これから先も…ずっと…
(姉さんのことだけが、好きなんだから)
教育実習も半分が終わって。
もう少ししたら、この学校を離れて、大学へ戻る。
(沙織さん)
未来ちゃんの笑顔が、胸に残っている。
今は少しだけ、その笑顔から離れていたいな、と思った。