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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第二章 【未来9歳/沙織21歳】
15/23

第15話 好きなんだ【未来9歳/沙織21歳】

 沙織さんが教育実習生としてきて、数日がたった。

 毎日、沙織さんが教室にいるのが当たり前みたいになっていて、みんなも沙織さんのことを「水瀬先生」と呼ぶのに慣れてきていた。


 でも、私はまだ、その呼び方が喉の奥でひっかかる。

 水瀬先生、と呼ぶたびに、胸の奥が苦しくなる。


「先生」って一言いうたびに、私の前から沙織さんが一歩ずつ遠くにいってしまいそうに感じる。


 窓からは光が差し込んできている。

 梅雨もそろそろあけるのかもしれない。

 雨は降っていないけど、校庭の土はまだ、しっとりと濡れている。


 黒板の前に立っている沙織さんを見つめる。

 …水瀬先生を、見つめる。


 スーツ姿で、丁寧な字で授業を進めてくれている。

 チョークの音が、こつ、こつっと聞こえる。

 その指先にめがいく。

 細くて、白くて、綺麗な指。


 水瀬先生の、指。


「ねぇ、未来」


 隣の席の美月が、教科書を立てて顔を隠しながら、こっそりと囁いてきた。


「やっぱり…水瀬先生…綺麗だよね」

「…うん」

「なんか、大人の女の人って感じがする。声とか、すっごく落ち着いているし」

「…」


 答えようとしても、声が出なかった。

 喉のおくに何かが詰まっているみたいだ。


(美月)

(私が沙織さんのこと好きだって)

(知っているのに)


 沙織さんを褒めてくる。

 水瀬先生を褒めてくる。


(素敵な、大人の人)

(大人)

(私はまだ、子供)


 だからやっぱり…合わないよ、と伝えたいのかもしれない。

 たぶん美月には分からない。

 私がどれほど、沙織さんのことを思い、沙織さんに恋焦がれているのかを。


 みんな、沙織さんのことを「好きだ」「綺麗だ」という。

 みんながそう言うたびに、私の中の「好き」という感情が、どこか遠くに追いやられていく気がする。


(私の好きは、みんなの好きとは違う)


 好き。好き。好き。好き。

 好きがあぶれて、絡み合って、見えなくなってしまう。


 チョークを置いた沙織さんが、ゆっくりとこっちを見る。

 一瞬だけ、目が合った。

 沙織さんはすぐに目をそらし、別のクラスメイトに「この意味が分かる?」と質問をする。授業を続ける。


 たったこれだけのやりとり。

 でも、私は、たったこれだけのことで、世界が一瞬止まったかのように感じたのだった。



■■■■■



 昼休み。

 屋上へと続く階段の踊り場。

 いつも人が来ないその場所で、私と颯真と美月の3人は、並んでお弁当を食べていた。


 お尻の下のコンクリートは、梅雨の残滓が残っているのか、少し冷たかった。

 屋上へと続く扉は少し隙間があって、そこから外の風が漏れこんできている。


「なぁ、未来」


 颯真が口をもぐもぐさせながら言った。


「食べたら校庭でサッカーしようぜ」

「んー、どうしよかな」

「最近、あんまり一緒に遊んでいないじゃんか」


 お前、水瀬先生のことばかり見てるから、と、視線を逸らして続けた。

 たしかに、この一週間、私は沙織さんのことばかり考えている。

 …私が沙織さんのことを考えるのはいつものことなんだけど。


「俺と遊ぼうぜ」


 颯真が、そう言う。

 その隣で、美月がうつむいて、お弁当に入った卵焼きを箸でつついていた。

 横顔が、少し寂しそうだった。


 颯真は、私を見て。

 私は、美月を見て。

 美月は、颯真を見て。


 なんか変な三角形が生まれていた。


 その三角形を崩そうと、私が口を開いた瞬間。


「みんな、ここにいたんだ」


 階段の下から、沙織さんの声が聞こえてきた。

 目をやると、手にお弁当箱を持っていて、軽やかな足音をたてながら階段を登ってきていた。

 光の加減で、後ろでまとめられた黒髪の一本一本が煌めいて見えた。


 颯真と美月はお互い見つめあった後、私の方を振り向く。

 私は真っ赤な顔をしたまま、うつむいた。

 うつむいて、手を振る。


「どうしたの、未来ちゃん…なんかあった?」

「…先生、学校では、未来ちゃんじゃないよ」

「あ、ごめんごめん、どうしてもいつもの癖が出ちゃうね」


 そう言うと、沙織さんは私の隣に座る。


「星野さん、隣失礼するね」

「…」

「今日のお弁当、自信作なんだ」


 沙織さんはお弁当を広げる。

 料理が得意な沙織さんのお弁当。小さい箱の中に、宝石のようにいろんな食べ物が詰め込まれている。


「…みんなが」


 私はうつむいたまま、口を開いた。


「みんなが、沙織さ…水瀬先生のこと、好きっていう」


 沙織さんはすこしだけ首をかしげて、優しそうな瞳で私を見つめてくる。


「うん。言ってくれるね。先生、嬉しいな」

「私は嬉しくない」


 ここには沙織さんだけじゃなくって、颯真も、美月もいる。

 みんな、私の気持ちを知っている。

 だから、本当のことを言う。


「みんなが好きっていうたびに、へんな感じがするの」

「へんな感じって、どんな?」

「心の中が、じくじくする」


 重くなる。

 苦しくなる。

 だって。


「私が一番、好きなんだもん」


 そう口にした瞬間、心臓が跳ねる。

 どくん、って音がした気がした。

 耳の奥で血が流れる音が聞こえてくる。


 私は何回、沙織さんに「好き」って伝えたのだろう。

 この「好き」は、届いているのだろうか。


「ありがとう、ね」


 沙織さんは優しくそういうと、私の頭に手をのせてくれる。


 私が「好き」って伝えると、沙織さんはいつも「ありがとう」って返してくれる。ありがとうって言葉は、私も好きだよ、っていう意味じゃない。


「好きって言葉には、いろんな色があるんだ」


 沙織さんはそう言うと、少し遠くを見つめた。


「赤い色の好き、青い色の好き、緑の色の好き、黄色い好き」

「私の中にも、いろんな好きの色があるよ」

「先生の好きの色はね、みんなを大事に思う、青い色の好きかな」


 たんたんと、言葉を続ける。

 声が優しい。先生の声だ。


 颯真が私を見ている。その瞳の中に、色がある。

 美月が颯真を見ている。その瞳の中にも、色がある。


「私は…」


 私の中の、好きの色は。


「沙織さんを見ていると、真っ赤な好きが、溢れ出してくるの」


 先生とは言わない。

 沙織さん、っていう。

 私の中の好きは、私の中の、沙織さんへの好きは、赤だ。

 血液の色だ。

 私の好きは血液となって、身体中をめぐっている。心臓から飛び出した赤色は、私を動かす原動力になっている。

 溢れて、あふれて、止まらない。


「未来ちゃんらしいね」


 沙織さんは、ほんの少しだけ目を伏せてから、笑った。

 星野さん、って呼ぶのを忘れている。

 だからこれは、先生としての沙織さんの言葉ではなく、沙織さんとしての、沙織さんの言葉なのだろう。


 少し寂しそうな顔。


 少し、嬉しそうな顔。


 そして、沙織さんが口を開こうとした時…


「未来、サッカーしようぜ!」


 突然、颯真はそう言うと、私の手を掴んで引っ張り上げた。

 力強い手だった。男の子の手。私の知らない、颯真の手。


「え…でも」

「でもじゃないっ」


 颯真がまっすぐに、私を見つめてくる。

 こんな颯真、見たことがない。


「先生、未来、連れていきます」


 颯真はそれだけ言うと、強引に私を連れて行こうとする。


「ちょ…颯真…痛いよ」

「ごめん」


 口では謝るけど、手を離そうとはしない。


「あ、わ、私も」


 美月は沙織さんにむかって頭をぺこりと下げると、立ち上がって私たちの後ろをついてきた。


 残された沙織さんは、あっけにとられたように私たちの後ろ姿を見たあと、くすっと笑うと、「いってらっしゃい」と言って、手を振ってきた。


「颯真…颯真ったら」

「未来」


 校庭に出た私たちは息も絶え絶えになって、肩で息をして、3人で見つめあっていた。


「いきなり、何?」

「なんか分からないけど、なにか分かった気がして、でもなんていうか、どういえばいいか」


 颯真は頭をくしゃくしゃにしながら、目をつぶって、それから、目を開ける。


「未来は、水瀬先生のこと、好きなんだろう?」

「…えっ…好きだよ」


 反射的に答えながら、心の中に去年のことが思い出されてくる。

 普通じゃないって、言われた時のこと。

 重く、苦しかった、あの時の気持ち。

 今でも時々思い出して、できるだけ考えないようにして、頭の片隅に無理やり押し込もうとしていた、あの気持ち。


「でもね、颯真…」

「俺も好きだ」


 え。

 なに。

 なにいってるの。


「颯真も沙織さんのこと…」

「違うよ」


 颯真は、私の肩を掴む。

 まっすぐに、私の目を見る。


「俺は、お前が、好きなんだ」


 私の後ろで、美月が手にしていたお弁当箱を落とした音が聞こえてきた。


 からん。

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