第15話 好きなんだ【未来9歳/沙織21歳】
沙織さんが教育実習生としてきて、数日がたった。
毎日、沙織さんが教室にいるのが当たり前みたいになっていて、みんなも沙織さんのことを「水瀬先生」と呼ぶのに慣れてきていた。
でも、私はまだ、その呼び方が喉の奥でひっかかる。
水瀬先生、と呼ぶたびに、胸の奥が苦しくなる。
「先生」って一言いうたびに、私の前から沙織さんが一歩ずつ遠くにいってしまいそうに感じる。
窓からは光が差し込んできている。
梅雨もそろそろあけるのかもしれない。
雨は降っていないけど、校庭の土はまだ、しっとりと濡れている。
黒板の前に立っている沙織さんを見つめる。
…水瀬先生を、見つめる。
スーツ姿で、丁寧な字で授業を進めてくれている。
チョークの音が、こつ、こつっと聞こえる。
その指先にめがいく。
細くて、白くて、綺麗な指。
水瀬先生の、指。
「ねぇ、未来」
隣の席の美月が、教科書を立てて顔を隠しながら、こっそりと囁いてきた。
「やっぱり…水瀬先生…綺麗だよね」
「…うん」
「なんか、大人の女の人って感じがする。声とか、すっごく落ち着いているし」
「…」
答えようとしても、声が出なかった。
喉のおくに何かが詰まっているみたいだ。
(美月)
(私が沙織さんのこと好きだって)
(知っているのに)
沙織さんを褒めてくる。
水瀬先生を褒めてくる。
(素敵な、大人の人)
(大人)
(私はまだ、子供)
だからやっぱり…合わないよ、と伝えたいのかもしれない。
たぶん美月には分からない。
私がどれほど、沙織さんのことを思い、沙織さんに恋焦がれているのかを。
みんな、沙織さんのことを「好きだ」「綺麗だ」という。
みんながそう言うたびに、私の中の「好き」という感情が、どこか遠くに追いやられていく気がする。
(私の好きは、みんなの好きとは違う)
好き。好き。好き。好き。
好きがあぶれて、絡み合って、見えなくなってしまう。
チョークを置いた沙織さんが、ゆっくりとこっちを見る。
一瞬だけ、目が合った。
沙織さんはすぐに目をそらし、別のクラスメイトに「この意味が分かる?」と質問をする。授業を続ける。
たったこれだけのやりとり。
でも、私は、たったこれだけのことで、世界が一瞬止まったかのように感じたのだった。
■■■■■
昼休み。
屋上へと続く階段の踊り場。
いつも人が来ないその場所で、私と颯真と美月の3人は、並んでお弁当を食べていた。
お尻の下のコンクリートは、梅雨の残滓が残っているのか、少し冷たかった。
屋上へと続く扉は少し隙間があって、そこから外の風が漏れこんできている。
「なぁ、未来」
颯真が口をもぐもぐさせながら言った。
「食べたら校庭でサッカーしようぜ」
「んー、どうしよかな」
「最近、あんまり一緒に遊んでいないじゃんか」
お前、水瀬先生のことばかり見てるから、と、視線を逸らして続けた。
たしかに、この一週間、私は沙織さんのことばかり考えている。
…私が沙織さんのことを考えるのはいつものことなんだけど。
「俺と遊ぼうぜ」
颯真が、そう言う。
その隣で、美月がうつむいて、お弁当に入った卵焼きを箸でつついていた。
横顔が、少し寂しそうだった。
颯真は、私を見て。
私は、美月を見て。
美月は、颯真を見て。
なんか変な三角形が生まれていた。
その三角形を崩そうと、私が口を開いた瞬間。
「みんな、ここにいたんだ」
階段の下から、沙織さんの声が聞こえてきた。
目をやると、手にお弁当箱を持っていて、軽やかな足音をたてながら階段を登ってきていた。
光の加減で、後ろでまとめられた黒髪の一本一本が煌めいて見えた。
颯真と美月はお互い見つめあった後、私の方を振り向く。
私は真っ赤な顔をしたまま、うつむいた。
うつむいて、手を振る。
「どうしたの、未来ちゃん…なんかあった?」
「…先生、学校では、未来ちゃんじゃないよ」
「あ、ごめんごめん、どうしてもいつもの癖が出ちゃうね」
そう言うと、沙織さんは私の隣に座る。
「星野さん、隣失礼するね」
「…」
「今日のお弁当、自信作なんだ」
沙織さんはお弁当を広げる。
料理が得意な沙織さんのお弁当。小さい箱の中に、宝石のようにいろんな食べ物が詰め込まれている。
「…みんなが」
私はうつむいたまま、口を開いた。
「みんなが、沙織さ…水瀬先生のこと、好きっていう」
沙織さんはすこしだけ首をかしげて、優しそうな瞳で私を見つめてくる。
「うん。言ってくれるね。先生、嬉しいな」
「私は嬉しくない」
ここには沙織さんだけじゃなくって、颯真も、美月もいる。
みんな、私の気持ちを知っている。
だから、本当のことを言う。
「みんなが好きっていうたびに、へんな感じがするの」
「へんな感じって、どんな?」
「心の中が、じくじくする」
重くなる。
苦しくなる。
だって。
「私が一番、好きなんだもん」
そう口にした瞬間、心臓が跳ねる。
どくん、って音がした気がした。
耳の奥で血が流れる音が聞こえてくる。
私は何回、沙織さんに「好き」って伝えたのだろう。
この「好き」は、届いているのだろうか。
「ありがとう、ね」
沙織さんは優しくそういうと、私の頭に手をのせてくれる。
私が「好き」って伝えると、沙織さんはいつも「ありがとう」って返してくれる。ありがとうって言葉は、私も好きだよ、っていう意味じゃない。
「好きって言葉には、いろんな色があるんだ」
沙織さんはそう言うと、少し遠くを見つめた。
「赤い色の好き、青い色の好き、緑の色の好き、黄色い好き」
「私の中にも、いろんな好きの色があるよ」
「先生の好きの色はね、みんなを大事に思う、青い色の好きかな」
たんたんと、言葉を続ける。
声が優しい。先生の声だ。
颯真が私を見ている。その瞳の中に、色がある。
美月が颯真を見ている。その瞳の中にも、色がある。
「私は…」
私の中の、好きの色は。
「沙織さんを見ていると、真っ赤な好きが、溢れ出してくるの」
先生とは言わない。
沙織さん、っていう。
私の中の好きは、私の中の、沙織さんへの好きは、赤だ。
血液の色だ。
私の好きは血液となって、身体中をめぐっている。心臓から飛び出した赤色は、私を動かす原動力になっている。
溢れて、あふれて、止まらない。
「未来ちゃんらしいね」
沙織さんは、ほんの少しだけ目を伏せてから、笑った。
星野さん、って呼ぶのを忘れている。
だからこれは、先生としての沙織さんの言葉ではなく、沙織さんとしての、沙織さんの言葉なのだろう。
少し寂しそうな顔。
少し、嬉しそうな顔。
そして、沙織さんが口を開こうとした時…
「未来、サッカーしようぜ!」
突然、颯真はそう言うと、私の手を掴んで引っ張り上げた。
力強い手だった。男の子の手。私の知らない、颯真の手。
「え…でも」
「でもじゃないっ」
颯真がまっすぐに、私を見つめてくる。
こんな颯真、見たことがない。
「先生、未来、連れていきます」
颯真はそれだけ言うと、強引に私を連れて行こうとする。
「ちょ…颯真…痛いよ」
「ごめん」
口では謝るけど、手を離そうとはしない。
「あ、わ、私も」
美月は沙織さんにむかって頭をぺこりと下げると、立ち上がって私たちの後ろをついてきた。
残された沙織さんは、あっけにとられたように私たちの後ろ姿を見たあと、くすっと笑うと、「いってらっしゃい」と言って、手を振ってきた。
「颯真…颯真ったら」
「未来」
校庭に出た私たちは息も絶え絶えになって、肩で息をして、3人で見つめあっていた。
「いきなり、何?」
「なんか分からないけど、なにか分かった気がして、でもなんていうか、どういえばいいか」
颯真は頭をくしゃくしゃにしながら、目をつぶって、それから、目を開ける。
「未来は、水瀬先生のこと、好きなんだろう?」
「…えっ…好きだよ」
反射的に答えながら、心の中に去年のことが思い出されてくる。
普通じゃないって、言われた時のこと。
重く、苦しかった、あの時の気持ち。
今でも時々思い出して、できるだけ考えないようにして、頭の片隅に無理やり押し込もうとしていた、あの気持ち。
「でもね、颯真…」
「俺も好きだ」
え。
なに。
なにいってるの。
「颯真も沙織さんのこと…」
「違うよ」
颯真は、私の肩を掴む。
まっすぐに、私の目を見る。
「俺は、お前が、好きなんだ」
私の後ろで、美月が手にしていたお弁当箱を落とした音が聞こえてきた。
からん。