第14話 その人は「先生」だった【未来9歳/沙織21歳】
水無月。
青水無月。
松風月。
蝉の羽月。
6月はいろいろな呼び方がある。
私にとっての6月のイメージは、梅雨。
梅雨の朝。
雨が、空と地面の境界を溶かしていた。
家を出て、傘をさす。
お気に入りのピンク色の傘。
傘をたたく雨の音を聞きながら、私は学校へ向かう道を歩いていた。
一歩あるくごとに、足元の水が跳ねていく。私の長靴は、傘と合わせたピンク色で、田舎の舗装されていない道には水たまりも多くて、私はわざわざその水たまりを目指して足を伸ばしていた。
雨は好き。
悪い思い出も、いい思い出もあるから。
まだ9年間しか生きていないのに、もう、こんなにもたくさんの思い出がある。このまま生きていったら、いったいどれほどの沢山の思い出が溜まっていくのだろう。
楽しみなような、不安なような。
私は空を見上げる。
ピンク色の傘の向こうに広がる雨空は、そのずっと向こうの切れ端に光がみえる。
雨の先にある光。
いまの私の心と同じだった。
今日、学校にいけば。
そこには、私を迎える光が待っているはずだったのだ。
■■■■■
教室に入り、颯真と美月に「おはよう」とあいさつをした後、そそくさと自分の席に座る。
わくわくしながら、先生が来るのを待つ。
いつもなら、先生が来るまでみんなとおしゃべりをしているのだけど、今日はそんな気分にはならなかった。
時計を見る。
何度も見る。
なんど見ても、なかなか針がすすまない。
もう、指伸ばして針を動かそうかな、なんて思っていた時。
教室の扉が開いた。
先生が入ってくる。
窓をたたいていた雨音は、いつの間にか消えていた。
教室内の湿った空気が、さわやかに塗り替えられていった気がする。
「今日から、教育実習の先生が来ます」
先生がそういって、扉の方を見る。
そこから…光が差し込んでくる。
本当に光っていたわけではないけど…私の目には、たしかに光が見えたのだ。
「はじめまして。水瀬沙織といいます。一週間という短い時間の間ですが、どうか宜しくお願いいたします」
沙織さん。
スーツ姿で、髪は後ろでまとめている。
少し緊張しているのが分かる。
沙織さんが来るって知っていたのに、心の準備はできていたのに、それでもなお、私は息をするのを忘れた。
沙織さんが立っている。
教室で、学校で。
スーツ姿で、大人の格好で。
いつも知っている沙織さんじゃないみたい。いつもの沙織さんも素敵だけど、今日の沙織さんは…また、別の魅力があった。
嬉しくて、私は手をぶんぶん振りながら沙織さんを見つめた。
沙織さんは私の方を見て、ちょっとだけ頬を緩ませてから、それから視線を私から外した。
そして…沙織さんは、「先生」の顔になった。
真面目で、一生懸命で、真剣な、先生の顔。
私は手を振るのをとめて、ぼぅっと沙織さんを見つめていた。
いつも知っている顔なのに、今日はまるで知らない顔みたいだった。
どちらも素敵なんだけど…でも、なんか、変な感じがした。
教室の男の子たちが、口々に「綺麗な先生だー!」とはしゃいでいるのが聞こえる。みんなが沙織さんを見ている。みんなの瞳が、沙織さんに集中している。
もや…
心がざわつく。
みんなが「可愛い」というたびに、私の心の中がざらりと削れていく。
「ねぇ、未来、あの先生…沙織さんだよね」
隣の席の美月が、小声で語り掛けてきた。
「…うん」
「…やっぱり、綺麗な人だね」
「…」
返事はしなかった。
美月は、私が沙織さんのことを好きだと知っている。知りすぎるくらい、知っている。それで一度友人関係が壊れかけたくらい、知っている。
だから、答えたくなかったというのが理由の一つで。もう一つは、
「美人、だよなぁ…」
後ろの席にいる颯真の声を聞いて、心がざわめく。
熱くなる。
黒くなる。
いや、だ。
みんなに…みんなに沙織さんが見られるのが…いやだ。
もう一つの理由は、この心のざわつきだった。
私の中に、嫌な感情が沸き起こってくる。
どうして、こんなに胸が熱くなるんだろう。
どうしてこんなに、心がもやもやするんだろう。
嫉妬。
その言葉の意味を、小学生の私はまだ、知らなかった。
■■■■■
その日の授業は、あっという間だった。
沙織さんは落ち着いた声で授業をすすめて、黒板に丁寧な文字を書いていた。
教壇の隅には先生が立っていて、そんな沙織さんの授業を見守っている。
沙織さんと学校であえることは、私にとって、とても幸せで…そして、とても心がざわめく時間だった。
チョークの粉が舞うたびに、私の視線は沙織さんの指先にくぎ付けになる。
沙織さんが授業の内容を口にするたびに、私の耳は幸せになる。
スーツ姿の沙織さんは新鮮で、いつまでもずーっと見ていられる。
そのことはすごく幸せなのに。
「やっぱり大学生って大人だなー」
「わかるわかる、落ち着いているよね」
「水瀬先生、恋人いるのかな」
「いるに決まってるよ、あんなに綺麗なんだもの」
教室で、クラスメイトがひそひそ話をしているのが耳に入るたびに、私の心の中に嫌なもやが広がっていくのがわかった。
胸がチクチクする。
胸がじくじくする。
嫌だ。
なんか、すごく、嫌だ。
(私の沙織さんだもん)
なんて思ってしまう。
私だけの、大切な、一番大切な人なのに。
みんななんて、今日、初めて沙織さんを見ただけなのに。
沙織さんの何がわかるっていうの。
みんなは笑っているのに、私は笑えない。
沙織さんが、ほかの子の質問に優しく答えているのが聞こえる。
大好きな沙織さんの声が、大好きな沙織さんの声なのに、その声を聞くだけで、胸の奥がしめつけられる。
同じ沙織さんなのに、まるで別の世界の人みたいにみえる。
沙織さんは、先生だった。
立派に、先生になろうとしていた。
沙織さんは、頑張っていた。
すごくすごく、頑張っていた。
沙織さんは、誰のものでもなく。
私のものでもなく。
ただ、「先生」だった。
■■■■■
放課後。
颯真の誘いも、美月の誘いも、全部断って、私は一人で学校を出た。
道に水たまりはまだ残っていたけど、私はその水たまりを避けて歩く。
空は晴れていて。
雨も降っていなくて。
なのに、私の心には雨が降っていて。
まっすぐ家には帰らずに、道の途中で道を外れて、海岸へ向かう。
海を見る。
雨が降った後の空は、ちりも全部流れ落ちていて、いつもより遠くまで見えるような気がした。
私は海岸を歩いて、おちている木の枝を拾う。
海から流れてきたのか、その枝はボロボロになっていた。
私は枝を海になげて、ぼちゃんと海に落ちた枝は…そのまま浮かんで、結局、波と一緒に私の足元に戻ってきた。
海と砂浜との境界線に私は立っていて。
なにをするでもなく、ぼうっと立ち尽くしていた。
「未来ちゃん」
声がした。
先生の声…じゃない。
沙織さんの、声。
「こんなところで何してるの?」
そう言いながら、沙織さんは砂浜に降りてきた。
沙織さんのはいているヒールが砂に埋まる。
私みたいに長靴を履いていない。砂浜を歩くような靴じゃない。
それなのに、気にすることなく、沙織さんは私の方へ歩いてきてくれた。
私は沙織さんを見つめる。
背中には海がある。
波の音が、後ろから聞こえてくる。
「…沙織さんを、待っていたの」
「こんなところで?」
「うん」
「もしも私が気づかずにまっすぐ帰っちゃっていたら、どうするつもりだったの?」
「でも、沙織さんは」
一歩。一歩。沙織さんへと近づく。
「私を見つけてくれたもん」
走る。
飛びつく。
沙織さんに抱き着く。
「沙織さん…好き」
「…有難う、ね」
沙織さんは、優しく私を抱きしめてくれた。
頭をそっと撫でてくれる。
海の潮の匂いに、沙織さんの匂いが混じって私の中に入ってくる。
「未来ちゃん、今日の私の授業、すごくよく聞いてくれてたね」
「…」
「未来ちゃん、学校ではあんな感じなんだね。なんか、新鮮だったな」
「…沙織さん」
「なぁに?」
「学校では、未来ちゃんっていうみたいに、【ちゃん】つけて呼んじゃ駄目だよ」
「あ、そうだね」
沙織さんは、笑った。
「先生、ちょっと間違えちゃった」
先生。
先生。
…先生。
その言葉が、何度もなんども、私の心の中で響いていく。
波の音が遠のいていく気がした。
くっついている沙織さんの心臓の音だけが伝わってきた。
涙が出そうになる。
どうして。
見られたくない。
知られたくない。
だから私は、顔を沙織さんの胸にこすりつけて。
涙を拭いて。
顔をあげて、
「しっかりしてよ、先生!」
と、頑張って笑顔をつくった。
■■■■■
夜。
部屋のベッドに横たわって。
私は枕を抱きしめて、赤ちゃんみたいに丸まって。
沙織さんの匂いを思い出しながら。
沙織さんの鼓動を思い出しながら。
(先生)
沙織さんは、先生になりたいんだ。
沙織さんの夢は、先生になることなんだ。
沙織さんはすっごく頑張ってて。
がんばる沙織さんは素敵で。
いつもよりキラキラしていて。
いつもより輝いてて。
夢にまっすぐ進んでいて。
それなのに、どうして、こんなに、私は嬉しくて、私は幸せで、私は苦しいんだろう。
「…先生、じゃなくて、沙織さんがいい…」
枕を抱きしめて、私はそっとつぶやいた。
もう、波の音は、聞こえない。