第13話 春と風邪と看病と。【未来9歳/沙織21歳】
春。
私は、9歳になった。
沙織さんと出会って1年。関係に大きな変化はなく、姪っ子と叔母以上にはまだなれていないけど、それでも、少しずつは前に向かっているのかな、と思いたい。
沙織さんのことを考えているだけで、心が暖かくなる。
沙織さんのことを考えているだけで、胸が痛くなる。
沙織さんのことを…
…
朝から頭の中で同じことを何度も何度も繰り返し考えてしまう。
くらくらする。
ベッドの中で目をあけて、天井をみると、天井がぐにゃりと曲がって落ちてくるような感覚に襲われた。
頭が重い。
喉の奥がヒリヒリする。
息を吸うたびに鼻の奥が痛い。
窓の外では春の小鳥がさえずる声が聞こえてくるというのに、私の身体の中だけはまだ冬が残っているかのようだった。
■■■■■
「やっぱり、少し熱があるわね」
布団の傍でお母さんがしゃがんでいる。
私のおでこに手をあてると、心配そうに見つめてくる。
「…大丈夫だよぉ…」
「大丈夫なわけないでしょ」
お母さんは腰に手をあてて、少し怒ったようにいった。でもすぐに表情を和らげると、部屋を出て、手に冷えピタを持ってかえってきて、私のひたいにのせてくれた。
ひんやりして、気持ちがいい。
「本当はずっと一緒にいてあげたいんだけど」
そう言いながら、少し寂しそうな顔をする。
「お母さん、どうしても今日の仕事が休めないの」
専業主婦だったお母さんは、この春から近くのお店で働き始めていた。「キャリアウーマンよー」と言って笑っていたけど、こんな田舎に似つかわしくない言葉だなぁ、と少し思っていた。
「一人で寝ているから大丈夫だよ…」
「だから、大丈夫じゃないから」
お母さんは髪を結びながら言葉を続けた。
「沙織に言っておいたから」
とくんと、胸が高鳴る。
沙織さん。
私の、好きな人。
「ちょうど今日は大学休みなんだって…というか、大学4回生ってほとんど大学にもいかなくていいらしいわね。羨ましいわー」
そう言いながら、「でも、就職活動が大変みたいだけど」と言いながらケラケラ笑った。
「もうちょっとで沙織が来るから、それまで大人しく寝てなさい」
「…うん」
私は目をつむる。
暗くなった世界はぐるぐると回っているけど、沙織さんに会えるのだと思うと心の中はほわぁっと暖かくなっていた。
会えるは嬉しい。
けど、風邪の看病をしてもらうなんて、なんか恥ずかしい。
出かける前に、お母さんは私のひたいにそっとキスをしてくれた。
「未来、愛してるわ」
うとうとし始めていた私は返事をすることなく、でも少し嬉しくて、布団の中から小さく手をふった。
お母さんが出て行って、少し部屋が静かになる。
窓の外の光がレースのカーテンを透かして、部屋を白く染めている。
息をすると、鼻の奥がつんとする。
(沙織さん…)
大好きな人のことを思いながら、私の意識はだんだんと薄れていった。
■■■■■
玄関を開けると、かすかに薬の匂いがしたような気がした。
もう春だというのに、空気はまだ少し冷たい。
息を吐くと、私は靴を脱いで中に入った。
(沙織、たしか今日休みだったわよね)
姉さんから連絡をもらったのは、今朝早く。
(うん、今ほとんど大学いっていないから)
(そうなの?留年でもした?)
(もぅ…分かってるくせに)
(あはは、就職活動頑張ってね)
(あ、そういえば姉さん、仕事決まったんだってね。おめでとう)
(あんたより先に就職きめてやったぜ)
朝の会話を思い出して、くすっと笑ってしまう。
姉さんの話をしているだけで、私は幸せを感じてしまうのだ。
「未来ちゃん、入るね」
そっと扉をあけると、布団の中から小さな顔がのぞいてきた。顔を真っ赤にした未来ちゃんが私をみて、にこっと笑った。
汗で髪がひたいにはりついている。
手にしていた荷物を床において、私は未来ちゃんに近づいた。
おでこに手をのせる。
暖かい。
「ごめんね、沙織さん」
「気にしないで」
未来ちゃんは潤んだ瞳で私をみあげてくる。
しんどいだろうな。なんとかしてあげたい。
「ちょっと熱あるけど、大丈夫。お昼にはさがると思うよ」
「…うん」
「お腹すいてない?」
「…少しだけ」
「おかゆ、作ろうか」
「…沙織さんが作ってくれるの?」
「もちろん」
未来ちゃんの顔が、ふっと柔らかくなった。
「とってもお腹すいたー」
可愛い。
思わずそう思ってしまった。
熱出て苦しいはずなのに、にこにこ笑顔で私を見てくる。
胸の奥が少し暖かくなって、私は思わず笑ってしまった。
■■■■■
おかゆの匂いが、台所からゆっくりと流れてくる。
お鍋の「ことこと」って音が聞こえてくる。
その音を聞くたびに、胸の奥までぽかぽかしてくるみたいだった。
…ぽかぽかしているのは、私が熱を出しているからかもしれないけど。
(沙織さん)
好きな人のことを思う。
熱でぼぅっとした頭の中でも、沙織さんのことを思うことはやめられない。
嬉しいなぁ。
沙織さんが来てくれて嬉しいなぁ。
熱出したら沙織さん来てくれるなら、毎日熱だしてもいいなぁ。
そんなことを思っていると、扉が開いた。
おかゆを手にした沙織さんが入ってきて、私をみる。
「食べられそう?」
「うん」
「よかった。ちょっと冷ますから待っててね」
沙織さんは私のベッドのとなりに座って、おかゆに木のスプーンを入れてすくうと、ふぅーって息をかけてさましてくれた。
その姿がとてもやさしくて。
その姿がとてもきれいで。
沙織さんの長い黒髪が揺れるたびに、私の心が熱以上にあつくなるのが分かった。
「口あけて」
「あーん」
暖かい味。
ほっこりする味。
沙織さんの作ってくれたおかゆは少しだけ塩の味がして、私の心を溶かしてくれた。
「おいしい」
「ふふふ、よかった。火加減がちょうどよかったのかもね」
「ううん。ちがうよ。沙織さんが作ってくれたから美味しいんだよ」
そう言って、沙織さんを見つめる。
沙織さん、綺麗。
沙織さん、好き。
沙織さん、大好き。
「沙織さん…好き」
思わず、心がこぼれてしまった。
言ったあと、なぜか少し恥ずかしくなった。
けど、沙織さんは笑って、
「ありがとう、未来ちゃん」
といって、私の頭を撫でてくれた。
その手がすごく優しくて、暖かくて、気持ちよくて。
気づいたら、私は眠ってしまっていた。
すぅ…
■■■■■
未来ちゃんの寝息が、部屋の静けさの中に溶けていく。
その小さな手が布団の外に出ていたから、そっと包み込んでみた。
あたたかい。
生きて、息づいている。
私の大好きな姉さんが産んだ、命。
私の大切な姪っ子。
「幸せそうな顔しちゃって」
そう言いながら、未来ちゃんのほっぺたをつつく。
そのほっぺたは柔らかく、私の指につつかれながら、未来ちゃんは「うーん…」と寝言を漏らしながら顔を横にむけた。
可愛いなぁ。
そんな未来ちゃんを見ていると、私の心も温かくなる。
私にも、こんな時があったんだなぁ。
9歳のころの私もいたんだよなぁ。
(そういえば、私も熱だして、姉さんに看病してもらったことがあったような気がする)
たぶん、じゃなくって、絶対だろう。
熱にうなされながら、大好きな姉に看病してもらうのは、苦しかったけど、嬉しかった。
(姉さん…好き)
って、幼心にいっていた気がする。
(沙織さん…好き)
さっきの未来ちゃんの言葉を思い返す。
熱の中、発した言葉。
あの時の私と同じ言葉。
嘘偽りない、心かの、本心。
(まいったなぁ)
未来ちゃんの手を握りしめながら、私は天井をみあげた。
白い天井。
陽の光は部屋にさしこみ、部屋全体を柔らかく照らしてくれている。
春。
もう、春なんだ。
やわらかな、春。
今年は、何かが変わる気がする。
■■■■■
目を覚ました時は、もう夕方だった。
カーテン越しに入ってくる光が部屋の中を金色に染めている。
ぼんやりとした頭の中で、ベッドの隣で座って私を見つめてくれる人影に声をかけた。
「沙織さん」
「はずれー」
帰ってきた言葉は、思っていた言葉とは違っていた。
「…お母さん」
「あたりー」
にやっと笑ったお母さんは私のひたいに手をあてて、安心したような声でいった。
「もう熱はさがったみたいね」
「…沙織さんは?」
「もう帰ったよ」
お母さんじゃ不満かー、ぐりぐりー。
そんなことを言いながら、病気の娘の頭を遠慮なくもてあそんでくる。
「やめて、やめてよー」
「やーめないぞー」
2人ではしゃぐ。
笑い声が部屋の中に満ちる。
ひとしきり笑い終わった後、お母さんはベッドの隣にこしかけて、優しく、本当に優しい瞳で私をみつめてきた。
「ねぇ、未来」
「なに、お母さん」
「未来は…」
沙織のこと、好き?
と聞いてきた。
いつものひょうひょうとした感じとは違う、真剣な表情。
真面目な顔。
私は少し黙ったあと、笑って、いった。
「うん、大好き」
「お母さんよりも?」
「お母さんとは違うよ」
お母さんは、お母さんで。
沙織さんは…お母さんじゃない。
「けっこんしたいくらい、好き」
「そっかー」
お母さんは頭のうしろに手を組んで、ゆっくりとのけぞった。
「お母さんとは結婚してくれないのかー」
「お母さんにはお父さんがいるでしょ?」
「まぁな。お母さん、未来と結婚したら、重婚になっちゃうか」
なら仕方ない。
未来は沙織にゆずるか。
と、お母さんはいたずらっぽい声でいった。
「それにしても」
お母さんは立ち上がると、大きく背伸びして、ふと、言葉をもらした。
「血、なのかな」
「なにが?」
「ううん、なんでもない」
そういいながら、お母さんは、ぽそりとつぶやいた。
私に聞こえないような声だったけど…でも、聞こえてしまった。
お母さんの、声。
「あの子も小さいころ、私に、結婚を迫ってきたなぁ」
あの子って、誰だろう。
なんてことを思いながら、私は。
ふたたび、寝入ったのだった。