第12話 白い手、あたたかい手【未来8歳/沙織20歳】
窓の外は白銀の世界になっていた。
昨夜から降りそそいでいた雪が、世界を一変させていた。
街も、屋根も、いつもの通学路も、ぜんぶぜんぶ、ふんわりとした雪の衣をまとっている。
白くなっていないのは、波打つ海だけくらいだった。
「わぁ!お母さん!お母さん!外!雪だよ!まっしろ!」
私は寝間着姿のまま階段を駆け下りて、興奮しながらお母さんに報告する。
「お母さん、私、外に遊びにでてもいい?」
「いいけど…未来、ちゃんと手袋していくのよ」
「うんっ!」
やれやれ、といった感じで腰に手をあてるお母さんをみて、私は満面の笑みで尋ねる。
「お母さんも一緒に遊ぼ?」
「お母さんは忙しいの」
そう言うと、お母さんはこたつに戻ってミカンの皮をむき始める。
「…忙しいの?」
「はー、忙しい忙しい」
ミカンを頬張ってリモコンに手を伸ばし、こたつに肩までもぐりこんでテレビを見ているお母さんの姿からは、忙しさのかけらも感じ取ることはできなかった。
「雪だるまつくってくるね!」
手袋とマフラーをもって、私はこたつむりと化したお母さんに一声かけると、急いで飛び出していく。
「いってきまーす!」
「風邪ひく前にかえるのよー」
お母さんはこたつの中から手だけだして返事をしてくる。
こたつむりというより、もうただのこたつ妖怪だった。
■■■■■
大学へ向かう途中のいつもの道で、私は足を止めて前を見た。
白い息を吐きながらまっすぐこちらに向かってくる女の子をみつけたからだ。
「おはよう!沙織さん!」
「おはよう、未来ちゃん」
白いマフラーを首にかけて走ってくる姪っ子の未来ちゃんは、まるで白い妖精のようだった。
「沙織さん、見てみて、雪!」
地面につもった雪をすくうと、嬉しそうに私に見せてくる。
その小さな手は赤くなっていて、見ているだけで寒そうだった。
「もう、未来ちゃん、そんな素手で雪触って…冷たいでしょう?」
「冷たいけど、気持ちいいよっ」
にっこり笑う。
その屈託のない笑顔を見ていると、こちらの心の中まで暖かくなってくる。
「白くてふわふわで…なんか、お母さんが干してくれた洗濯物みたいに気持ちいい匂いがするの」
お母さん。
姉さん。
思い出の扉が、少し開く。
あれは何年前のことだろう。
私が今の未来ちゃんと同じ8歳の時だから…もう12年も前の話になるのか。
干支が一周回っちゃったな、と思うと、時間の速さに愕然としてしまう。
あの年も、雪がよくふった年だった。
小学校からの帰り道、雪で滑って転んでしまった私を見て、姉さんが笑いながら手を差し伸べてくれた。
「もう、沙織ったらお転婆なんだから…冷たいでしょう?ほら、手を出して」
姉さんの手。
あたたかくて、白くて、ふわふわで。
雪の冷たさと姉さんの暖かさが混ざり合って、なぜか、私は泣きそうになったことを覚えている。
「沙織、なんで泣いているの!?痛かった?どこか打ったの!?」
と慌てる姉さんを見て、違う、そうじゃない、痛くなんてないの、と言いながら、姉さんの手をぎゅっと握りしめていた。
(あの時の、私)
この手をはなしたくないって、思ったんだ。
姉さんの暖かさを、ずっと感じていたかったんだ。
いま思えば、あれが私の恋の始まりだったのかもしれない。
あの時の私は8歳の小学生で。
姉さんは16歳の高校生だった。
あれから12年。
私は20歳の大学生になり。
姉さんは28歳の…人妻になっていた。
はなしたくない、と思った手は、いつの間にか離れてしまっていた。
私は自分の手のひらをみて、そこにかすかに残る思い出の姉さんのあたたかさを感じていた。
■■■■■
「…沙織さん?」
心配そうに私に語り掛けてくる未来ちゃんの声をきいて、私ははっとして我に戻った。
「あ…ごめんね、ちょっと昔を思い出しちゃって」
「むかし?」
「うん。私がまだ、未来ちゃんと同じくらいの年齢だったころの思い出」
遠くを見つめる。
白い雪が太陽の光を反射して、キラキラとまたたいている。
「沙織さんにも8歳の頃ってあったの?」
「あたりまえだよー」
「その頃の沙織さんも、すっごく可愛かったんだろうね」
「有難うね、未来ちゃん」
そう言いながら、今の未来ちゃんの方が可愛いよ、と言葉を付け足すことも忘れなかった。
「未来ちゃんの手、すごく冷たくなっているよ」
「ずーっと雪、触っていたもんっ」
嬉しそうに笑う未来ちゃん。
そう言いながら、未来ちゃんはくしゅんと一回、くしゃみをした。
「ほら、やっぱり無理していたんでしょう」
私は迷わず、未来ちゃんの小さな手を自分の両手で包み込んだ。
ぱぁっと、未来ちゃんの表情が溶けていった。白い雪の中で、未来ちゃんの頬がしゅっと朱色に染まるのが分かる。
「どう?これなら少しは暖かくなれたかな?」
「…うん…沙織さんの手…すごく…あたたかい…」
暖かくて、白くて、ふわふわで。
離したくないな、と、未来ちゃんがぽろっとつぶやいた。
その言葉に、私は少しだけ、息をのむ。
(思い出の中の私と、同じだ)
あの時の私も、姉さんの手を握って。
姉さんの体温を感じて。
姉さんの手を離したくなくって。
姉さんを、好きになった。
(今でも変わらない、この気持ち)
未来ちゃんはどうなんだろう。
私のことを好きっていってくれる未来ちゃん。
大事な大事な姪っ子の未来ちゃん。
(でも、私が今でも、ずっと、ずっと、姉さんを好きなように)
もしかしたら、この先もずっと、未来ちゃんも、私と同じように…私を好きでいてくれるのかもしれない。
(あの時手を離したのは、姉さんからだったかな…それとも、私からだったかな…)
そんなことを思いながら、未来ちゃんを見て、今日は私から…手を離す。
名残惜しそうに離された手を見つめている未来ちゃんを見て、にっこりと笑う。
「風邪ひかないように気を付けてね…未来ちゃんが風邪ひいちゃったら、姉さんも心配するから」
冷たい雪が、不思議と暖かい。
あの時、姉さんの手を離したくなかった私の心は…いまでもたしかに、ここにある。
想いは消えずに、残雪のようにのこっている。
きっと未来ちゃんも、同じようになるのかもしれない。
雪のように、静かで、冷たくて。
それでもなお残る…心に残った、好き、っていう気持ち。
(未来ちゃん、私のこと…)
(本当に)
(好き、なんだな)
8歳だったころの私が、私にむかって語り掛けてきたような気がする。
(好きな気持ちは消えないよ)
そうだよね、と思って、私はもう一度、未来ちゃんに手を伸ばした。
右手で未来ちゃんの手をとって、一緒に、歩き始める。
白い雪の中で、私たち二人の足跡がゆっくり並んでいく。
並んだ足跡が、いつか、交わる日が来るのだろうか。
いつしか雪がまた降り始め、私たちの足跡を白く、白く、覆い隠していった。