第112話 報告2。【未来17歳/沙織29歳】
着物姿のまま、私は未来の家の前に立っていた。
隣には、未来がいる。
私たちは手をつないでいて、そして、緊張していた。
「沙織さん…本当に…いいの?」
「ええ。いつまでも曖昧なままの関係でいるわけにもいかないし」
それに今、私の心は限りなく透明に近いくらい、青く澄んでいた。今朝まであったもやもやしたものが綺麗さっぱり取り払われていて、世界がくっきりと目に入ってくる。
「浩平さんに…私たちの関係を、ちゃんと伝えましょう」
自分で言って、自分の声が耳に入ってきて、思ったより落ち着いている声なのに自分が一番びっくりする。
私より、隣にいる未来の方が動揺しているようにみえる。普段は未来の方が私を前に引っ張っていってくれるのだけど、今日だけは、私が未来の手を取って2人で前に進んでいきたいと思う。
「未来、心配?」
「…うん。怖い」
「私も…怖いわ」
昨日までの関係は、今日、終わる。
事態がいい方に転ぶか、悪い方に転ぶか、それは分からない。一つだけ分かるとすれば、今からこの家に入り、そして出る時の私は、もう昨日までの私では無くなってしまっている、という事だけだった。
たしかに、怖い。
けど。
(未来を失うことの方が…私には何百倍も怖い)
私の手を握ってくれている、少し震えている恋人の手。
この手をこれからも握っていくためならば、私はどんなことだって耐えられる。
「未来、愛してる」
「うん…私も…私も愛してる、沙織さん」
「嬉しい」
本当に、嬉しい。
自分が好きな人が、自分のことを好きでいてくれるなんて、こんな奇跡のような幸せが私に訪れてくれるなんて、今でも信じられない。
でも握った手の暖かさが、柔らかさが、信頼が、これが現実なんだ、本当のことなんだ、って私に教えてくれていた。
「それじゃ…行きましょう」
一呼吸して、胸を落ち着けて。
私は未来に向けて、未来の家の扉を開けた。
■■■■■
「未来、おかえり…あれ、沙織さんも一緒なのかい?」
リビングの奥に、いつも通り新聞を読んでいる未来のお父さん…浩平さんの姿が見えた。相変わらず穏やかな表情をしていているけど、私の姿を見て、少しだけ驚いているような気がした。
無理もない。
着物姿で、しかもその着物は汚れていて、さらに加えて…未来と手を握ったままなのだから。
「お姉ちゃん、おかえりー!」
「…おかえり」
リビングのすみっこで、紬希ちゃんと玲央くんがジェンガをしながら遊んでいた。この2人、相変わらず仲がいいな、と思う。大きな玲央くんは背中を丸めて座っていて、ちゃんと紬希ちゃんの視線に合わせているのがえらいな、と思った。
「あらあら、相変わらず仲がいいわね」
浩平さんの後ろで、キッチンの後片付けをしていた茜さんが、そんな私たちを見てほがらかに笑った。
茜さん。姉さんが死んだ後、浩平さんの再婚相手になった優しい人。
未来の妹の紬希が通っていた保育園の保母さんで、紬希が卒園した後も、ずっとその保育園で頑張って働いている人。
「はい、そうなんです」
仲、いいんです。
私は未来の手を握ったまま、家の中に入る。
この家に来るのは、これで何回目なのだろう。
思えば、一番最初に入ったのは、未来がこっちに引っ越してきた時だったかな。あの時はまだ、姉さんが生きていた。あの時はまだ、私は姉さんのことを愛していた。
(…愛しているのは、今も同じか)
姉さんは私の初恋の人で、その初恋は今も終わってはいない。今でも、ずっと、私は姉さんの事が好きで、愛している。
ただ、それ以上に、未来のことを愛して求めてしまっている私がいるだけだ。
人は、ひとつの愛だけしか持てないのではないのだろう。複数持つことができるのだろう。思い出は変わらないけど、人生は変わっていく。
私だって、姉さんを好きなまま、未来を愛している。
浩平さんだって、姉さんを好きなまま、茜さんを愛しているのだろう。
(そう考えれば、私たち、似た者同士、なのかもしれないな)
かつて私の愛した姉さんを私から奪い取っていった人に対して、ふとそんな感情を抱いてしまった。昔は、憎かった。大好きな姉さんをとった浩平さんが、憎かった。
でも幸せそうな姉さんを見て、私は負けたのだと思い知り、姉さんを幸せにしてくれた浩平さんにある種の羨望というか、複雑な感情を持っていた。
浩平さん。
私の姉さんの元旦那さんで、私の恋人のお父さん。
憎みたかったけど、結局憎みきることができなかった…とても、いい人。
「沙織さん、今日はお見合いだったらしいですね…どうでした?」
何の疑問も抱かず、純粋に好奇心から、質問してくる浩平さん。
テーブルの上には新聞が広げられたままで、リビングのテレビからはバラエティ番組に出ている芸能人の笑い声が聞こえてくる。
普通の日常。
当たり前の日々。
私はそこに、一石を投じることになる。
「お見合いは…破談になりました」
「それは…」
どう答えればいいのか、と、浩平さんは困ったような表情を浮かべた。何の気なしに口にした言葉が、相手を傷つけてしまったのではないかと思っているのだろう。いい人だな、と思う。
「でも、沙織さんなら、すぐに素敵な人が見つかりますよ」
笑顔でそう言ってくれた。私を傷つけないように、言葉を選んでくれているのだろう。本当に、いい人だ。今なら、姉さんがこの人を選んだ理由もわかる気がする。
私は未来の手を握ったまま、浩平さんが座っているテーブルの向こう側に立ち、そして、座った。
椅子の感触を感じながら、私は浩平さんの目を見て、言う。
「はい…素敵な人、見つかりました」
「え?」
「見つかったというか…ずっと、傍にいてくれたという事に気づいたというか…」
言葉を選ぶ。いろいろ考える。
考えながら、握ったままの未来の手の暖かさを感じて、未来の方を見て、緊張している未来の顔を見て愛おしいな、と思って、そして浩平さんの方に向き直り、事実を、ありのままに伝えることにした。
「浩平さん」
「は、はい」
「私…あなたの娘さんと…」
一回だけ、唾を飲み込む。
一呼吸して、そして、決意を固めて、言う。
「未来と、お付き合いさせてもらっています」
■■■■■
テレビの音が聞こえる。
芸能人のくだらない馬鹿話と、スタジオの笑い声が遠くに聞こえる。
時計の音もする。
いろんな音がするけど、それでも、家の中はある種の沈黙に包まれていた。
「え、えーっと…」
沈黙を破ったのは浩平さんで、頬をかきながら、事態をよく呑み込めていないような表情をしている。
「それは、あの、どういう意味で…?」
「私と未来が、付き合っているということを、ちゃんとお伝えしなければいけない、と思いまして、今日はやってきました」
「お付き合いって…その…いわゆる男女のお付き合い、ということですか?」
「私と未来は女同士ですけど…でも、そんな感じと思ってもらって結構です」
「私の娘と?」
「はい、浩平さんのお嬢さんと、です」
「あー」
そうですか、と、いまいち現実と受け入れていないような感じで、浩平さんは答えた。無理もない。当たり前の反応だ、と思う。
「沙織さんと未来は…叔母と姪の関係ですよね」
「そうですね…間違いないです」
「歳の差は…けっこうありますよね」
「12歳離れています」
「未来は今、高校生で…」
「私は、担任です」
「…」
「…」
浩平さんは、普通じゃないですよね、とは言わなかった。口には出さなかった。でも、そう思っていることは伝わってきたし、そう思われても仕方ないとも思った。
「この場合、私はどんな反応をすればいいのかな、茜さん」
「そうですね、よくあるのは、腕を組みながら、わしの娘はお前にやらん!と言うとかじゃないかしら?」
浩平さんは後ろにいる妻である茜さんに尋ねていた。茜さんは、なんとなく楽しそうだった。
「そうかな…そうかも?でもそういうの、私のキャラクターじゃないような気がするんだよね」
「そうですね、浩平さんらしくないかもしれませんね」
茜さんはそういうと、明るく笑った。屈託のない笑顔で、それはかつての姉さんの笑い方とは違っていて、姉さんとはまた違った魅力を持つこの人を、浩平さんは好きになったのかな、と思った。
やっと落ち着いたのか、浩平さんはこほんとひとつ咳払いをした後、もう一度私を見た。
「つまり…今日は、私の娘…未来との付き合いを認めてほしい、という用件で来られた、ということで間違いないですか?」
「申し訳ありません…少しだけ、違います」
私は、頭をあげてあやまる。私は無礼で傲慢な事をしようとしているのは分かっているし、申し訳ない事をしているとも分かっているのだけど、それでもとどまるつもりは毛頭なかった。
「未来との付き合いの許可をもらいにきたのではなく…未来と付き合っているという、報告をさせてもらいに来ました」
なんてひどい女なのだろう、私は。
ありとあらゆる不道徳を背負い込んで、よく教師なんて顔をしていられるな、と思う。でも、仕方ない。私はもう…こんな人間になってしまったのだから。
「お父さん、私ね、沙織さんのことが…大好きなの!」
「それは…知っているよ」
浩平さんは未来の方を見て、優しく笑った。それはまさに、愛娘を見つめる父親の顔だった。
「未来は昔から…それはもう、初めて会った時から、沙織さんのことが大好きだったもんね」
浩平さんはそう言いながら、少し遠くを見つめていた。その目に映っているのは、遠い過去の光景なのだろう。
「未来が沙織さんのことを好きなのは知っていたけど…沙織さんが未来のことを好きだとは気づかなかったな…」
浩平さんはそう言いながら、また頬をかく。汗をかいているのが分かる。どんなことを考えているのだろう。いろんなことを考えているのだろうな。
「えーっと、その、2人は付き合っているということだけど…それは、いつから?」
「3年前の、夏祭りの日からです」
「え、そうなのかい!?」
浩平さんは本当にびっくりした顔をして、後ろの茜さんに振り向いた。茜さんはにっこりと笑って、
「あら?浩平さん、気づいていませんでしたの?」
と答えている。
さすが、女の勘というか、なんというか、にこにこしていながら、それでも芯の強さを感じてしまう。
(この人にはバレていた…のか)
分かっていながら、それでも何事もなかったかのように今まで接してくれていたのか…女って怖いな、と、同じ女であるはずの私がそう思ってしまった。
「れ、玲央はどうなんだい?」
「俺は…俺は…知ってた」
ちょっとバツが悪そうに、玲央くんが言う。金髪で耳に三連ピアスをつけている大きな玲央くんが、少し小さい小動物のように感じられる。
「つむぎもー!」
紬希ちゃんもそう答えるけど、この子の場合は本当に分かってるのか少し怪しい…たんに玲央くんの真似をしているだけという事もありえる…というか、たぶんそうだろう。
「はぁ…じゃぁ、知らなかったのは私だけ、ってことか…」
浩平さんはそう言うと、天井を仰ぎつつ椅子の背もたれにのしかかった。
「そんな浩平さんが好きですよ」
「ありがとう、茜さん」
「お父さん、好きー」
「ありがとね、紬希」
はぁ…とため息をつき、浩平さんは身体を起こした。
そして私をまっすぐに見つめ…真剣な表情になる。
「沙織さん」
「はい」
「あなたは未来を…私の娘を…ちゃんと、愛していますか?」
「愛しています。まぎれもなく」
迷うことなく、答える。
それは嘘偽りのない、私の真実だった。
「そうですか…未来」
「はい」
「お前は…ああ、お前の場合は、聞くまでもないか」
「うん。私、昔からずっと、沙織さんの事が好き。初恋だよ」
はっきりとそう答える未来を見て、こんな状況ではあるのだけど…抱きしめたくなる。愛おしくてたまらない。
「沙織さん…未来は私の娘で、宝物だ。私は親として、娘に幸せになってもらいたいと思っている。それは分かってもらえますか?」
「はい…私には子供がいませんので、本当のところまでは分からないかもしれませんが…それでも、私の両親を見ていても、親が子供に向ける気持ちの強さとありがたさは分かっているつもりです」
「それなら…あなたと未来が付き合うということが、どれだけ大変な事かも…ちゃんと理解していますか?」
「…はい」
私と未来は、普通の関係ではない。
女と女で。
叔母と姪で。
12歳も年が離れていて。
そして、教師と生徒だ。
普通の恋人同士だとしてもいろいろな障害が間にはさまることだとは思うけど、私と未来の場合はそれ以上にもっと深刻な状況だ。
「それを理解した上で、それでも、あなたは私の娘を…そんな茨の道に突き落とすつもりなのですか?」
浩平さんの瞳は、一切笑っていない。
普段の優しい雰囲気はどこに消え去ったのだろう…この人の中に、こんなに強くて怖い部分があるだなんて、私は今の今まで知らなかった。
怖い。
一番、怖い。
でも、それでも。
私はもう…覚悟をしていた。
もう二度と、未来の手を離すつもりなんて無かった。
私は幸せになりたい。
私の幸せは、未来が幸せになることで。
その為なら、私が不幸になったってかまわない。
そして、未来の幸せは…今の私なら、はっきりとわかる。
未来の幸せは…
「はい。そのつもりです。すべて分かった上で…私は未来と…生きていきます」
私と、一緒にいることだ。
私は、はっきりとそう答える。
迷いなんて一切なかった。
私は、何があっても、絶対に…未来を幸せに、する。
それが私の幸せでもあるのだから。
「…分かりました」
浩平さんは、そう言うと、穏やかな表情になる。
いつもの、優しい、私のよく知っている浩平さんの顔だ。
「ふつつかな娘ですが、大事に育てた娘です。どうかこの子を…幸せにしてあげてください」
「お父さん、有難う!」
深々と頭をさげてくれる浩平さんに向かって、思わず未来が抱き着いていた。
愛娘に頬をあてられながら、浩平さんはなんとなく寂しそうな顔をしていた。
私も感謝して、頭をさげる。
浩平さん…ありがとうございます。
本当に…本当に。
「お姉ちゃん、けっこんするのー?」
よく分からない顔で事態を見つめていた紬希ちゃんが、玲央くんによりかかりながら座ったままで、そう尋ねてきた。
未来は浩平さんに抱き着いたまま、嬉しそうに…本当に嬉しそうに、答える。
「うんっ!18歳になったらねっ」
その姿はとても嬉しそうで。
とても幸せそうで。
暖かくて、柔らかくて。
私の胸に、大輪の花を咲かせたのだった。




