第105話 変わる世界【未来17歳/沙織29歳】
机の上に開いていた参考書をいったん閉じると、私は大きく背伸びをして壁にかかっている時計を見上げた。
(…もう22時か)
気が付いたらけっこう遅い時間まで勉強していた。キリのいいところまでやりたいから、もう少しだけ続けるとするか。
目と目の間をつまんで、考える。
(大学、か)
小学生の時は、中学生になった自分の姿を想像することができた。中学生の時も、高校生になった自分の姿を想像することができた。でも、大学生になって大学のキャンパスを歩いている自分の姿は、想像することができない。
私が今通っている高校は、いわゆる進学校だった。
けど、私がこの高校を選んだのは、進学校に入って勉強したい、と思ったからではなく…沙織さんが勤めている高校だったからだ。
ものすごく単純で、ものすごく私的な理由。
だから私にとって、沙織さんと会える高校に入れたというだけで、目的はすでに達していたのだった。
大学には沙織さんはいない。
(沙織さん…)
閉じた参考書を見つめる。
大学には沙織さんはいないけど、でも心は繋がっている。未来はどうなるのか分からないけど、選択肢はちゃんとあって、私は自分が幸せになるための道に手を伸ばしていきたい。
(もう少し…頑張るか、な)
一度閉じた参考書をもう一度開くには、少々力ときっかけがいる。
よし、頑張るぞ。さぁ、頑張るぞ、と心の中では何度も思うのだけど、なぜか手が重くなってなかなか上がらない。
駄目だな、私、弱いな、私、と思っていたら。
スマホが光った。
すぐに手にとる。こっちの動きは速かった。見てみると、メッセージが来ていた。沙織さんからだった。
『未来、頑張ってる?』
沙織さんはすごい。まるで今の私を見ていたんじゃないかな、と思ってしまう。沙織さんになら見られていたいな。なんとなく、天井の隠しカメラに向かってピースをしてみる。いや、隠しカメラなんてついていないんだけど。
『頑張ってますけど、ちょうど挫けそうになっていたところでした…だから沙織さんから頑張るためのご褒美が欲しいです』
そう返信する。すぐにまたスマホが光る。
『どんなご褒美が欲しい?』
『私のこと、どれくらい好きかって教えてください』
『世界一』
えへへ。嬉しい。スマホをみながらにやけていたら、またスマホが光った。
『宇宙一』
『未来がいないと、私、死んじゃう』
『大好き』
『愛してるわ、未来』
沙織さんの愛の洪水が重くて、溺れちゃいそう。溺れちゃいそうというか、もう私頭のてっぺんまで水浸しになっていた。息ができなくなるくらい、沙織さんでいっぱいだ。
『…未来は、私の事、好き?』
スマホの向こうがわでおずおずと縮こまっている沙織さんの姿が容易に想像できて、心が躍る。
『結婚したいくらい愛しています』
嘘偽りない本音を送る。
ちょっとだけ時間がたって、返信がくる。
『未来が18歳になるのを…待ってる』
えへへ。えへへへへ。
私はスマホをぎゅっと抱きしめて、まるで沙織さんを抱きしめているような気になって、18歳になった自分を、18歳になって、大学生になって、そして沙織さんと結婚している自分の姿を思い浮かべる。
『沙織さんはすごいです。私の最高の教師です。勉強、むちゃくちゃやる気になりました!』
私は再び参考書を開いて、鉛筆を手に取った。
もう深夜だというのに、世界がキラキラと輝いて見える。
この先に、幸せな未来が待っているんだ。
「よーし、あと少し、頑張るぞ!」
私が進んでいる道は間違ってはいない。
私は、そう確信したのだった。
■■■■■
「眠たそうね、未来」
「あ、凛。おはよう。うん、昨夜けっこう遅くまで勉強していて」
登校中、凛と並んで歩きながら、私は大きなあくびをしていた。
みっともない、とは思ったけど、自然現象なのだから仕方ない。
「凛は進学するつもり?」
「…うん」
おもったことを、そのまま聞いてみる。
昔と比べてショートカットになった凛は、表情が髪に隠れることが少なくなり、横から見ていてその整った白皙の顔が以前よりもはっきり見えるようになった気がする。
「東京の大学に、いくつもり」
東京の大学、かぁ。東京にはいろんな大学があるけれど…凛が行こうとしている大学は、おそらくひとつしかないだろう。
「さすがに、私はそこにはいけないなぁ」
入学してから3年の今になるまで一度も学年トップの座から離れたことがない親友が誇らしい。凛は少しだけ、寂しそうな表情を浮かべた。
「…来年になったら、私たち、別々になるんだね」
「まだ1年あるからっ」
ぼそりとつぶやいた私の言葉に対して、凛は勢いよくこたえてきた。私を見つめて、黒い瞳が少し潤んでいるのが見えて、私の視線に気づいた凛は目を逸らした。
「だから…もう少しだけ」
隣を歩いていたい、と凛がつぶやいた。私は、「…うん」とだけつぶやいて、それから黙ったまま、隣を歩いていく。
なんとなく変な空気が流れてしまう。
この空気を打ち破ってくれたのは、私たちの可愛い後輩の元気な挨拶だった。
「会長!星野先輩!おはよーございます!」
ギャルがいた。
というか、朝比奈さんだった。
私たちを同じ制服を着ているはずなのに派手な感じにみえるのは、単純に朝比奈さんが背が高いからだけでなく、やはり着こなしとかいろいろな小物がそうさせているのかもしれなかった。
「おはようございます」
元気な朝比奈さんの声に隠れるように、穏やかな声で挨拶をしてくれたのは雪原くんだった。
朝比奈さんは右手を大きくふりながら私たちを見ていて、その左手は雪原くんの右手をしっかりと握りしめていた。
「おはよう、朝比奈さん、雪原くん」
凛が挨拶を返すと、朝比奈さんは嬉しそうに笑った。
「また放課後、生徒会室で!それでは、お先に失礼しまーす!」
雪原君の手を握ったまま、広い歩幅で私たちを追い抜いていく。雪原くんは引っ張られるように一緒に私たちを追い抜いていくと、少し照れくさそうにぺこりと頭をさげてそのまま引きずられていった。
(…まるで大型犬の散歩しているみたい)
そう思ってしまう。
犬耳をつけた朝比奈さん、似合いそうだ。
「…あの2人、仲、いいね」
小さくなっていく2人の背中を見つめながら、私はぽつりとつぶやいた。
「恋人同士、だからね」
凛もこたえる。
そうなのだ。
朝比奈さんと雪原くん、いつの間にか付き合っていた…別に不思議でも何でもないのだけど。
(どっちから先に告白したのかな?)
たぶん、朝比奈さんの方だろうな、と思うけど、もしかしたら以外に雪原くんの方からだったかもしれない。まったく、可愛い後輩たちに対してこんな事想うなんて、私もずいぶん世話焼きおばちゃんになったものだな、と感慨深くなってしまう。
「幸せそうだね」
「…いいことよ」
さ、行きましょう、と、凛は言った。
凛は鞄を両手で持っていたから、朝比奈さんと雪原くんと同じように、私はその手を握ることはできないのだった。
■■■■■
放課後。
生徒会室。
中にいるのは…
生徒会長の、凛。
副会長の、葵。
書記の私。
会計の雪原くん。
庶務の朝比奈さん。
それに顧問の結城先生と、沙織さん。
全員で7名だった。
(…去年までは、ここに神美羅先輩と楼蘭先輩がおられたのに)
と、少し寂しくなる。
当たり前にあったものが、欠けている。寂しいけど、変化していくことを避けることは出来ないし、これからも変わっていくのだろう。
みんなで黙々と作業をしていた。私語を話すものは一人もいない。なんだかんだいって、この生徒会が発足してもう1年になる。みんな、自分の仕事というものをちゃんと把握していた。
(沙織さん)
昨夜遅くまで勉強をした後、声が聞きたくなって、夜遅いと分かっていたのについつい電話をしてしまったのを思い出す。
沙織さんの声を聞いて、「…沙織さんの声聞きながら寝たいです…」と我儘いって、そのままスマホの通話をつけっぱなしにしてベッドに潜り込んでしまっていた。
スマホから流れてくる沙織さんの寝息を聞きながら目を閉じていたら、まるで沙織さんと一緒のベッドで一緒に寝ているような錯覚に陥ってしまって、ドキドキして結局なかなか寝付くことができなかった。
(朝、凛には遅くまで勉強していたから眠かったと伝えたけど)
(本当は、沙織さんの事意識しすぎていて眠れなかったなんて)
(恥ずかしくて言えなかったんだよね…)
そう思って、頭をかく。
生徒会室は静かで…
この沈黙を破ったのは、やはりというかなんというか、朝比奈さんだった。
「報告がありますっ!」
突然、そういうと椅子をがたんと音をさせて後ろにひいて、朝比奈さんが立ち上がったのだった。
いったい何?
制服を腰のあたりで巻いていた朝比奈さんは、にこりと笑うと、隣の席に座っている雪原くんを見た。
雪原くんも立ち上がりそうになり…それを朝比奈さんが手で止める。
「何を報告するの?」
ゆっくりと、凛が尋ねる。
その口調は落ち着いていて、この1年間で凛が生徒会長としてしっかり成長してきたんだな、というのが伝わってくる。
「実は私…」
朝比奈さんは胸に手を当てると、すぅっと息を吸い込んで、大きな声で宣言をした。
「遼くんと、付き合っているんです!」
遼…雪原遼。
雪原くんの名前。
そのままドヤ顔をしている朝比奈さん。さも、「みなさん、驚かれたでしょう?」と言いたそうな表情だった。
(え~)
何とも言えない空気感が生徒会室に満ち溢れる。
朝比奈さん、誰にも気づかれていないと思っていたの?本気で?
私たちはもう、とっくに2人はカップルなのだという認識でいたのだけど…
見てみると、雪原くんは恥ずかしそうにうつむいている。
(あれは、朝比奈さんと付き合っているというのがバレたから恥ずかしがっているか)
(それとも、あまりにもバレバレだったのに、それに気づかずドヤ顔で宣言している恋人が恥ずかしくてうつむいているのか)
たぶん、後者だろうな、と思った。
朝比奈さんは嘘をつくのも物事を隠すのも苦手な子で、そこが可愛い後輩だった。
「…そ、そうなんだ…気づかなかったわー」
笑いをこらえつつ結城先生が声をあげてくれた。
正直、どう反応すればいいのか分からなかったから、とても助かった。
「そうなんですよー!今まで黙っていてごめんなさいっ」
朝比奈さんはそう言うと、大きく頭を下げた。素直ないい子なんだ、本当に。
「別に生徒会は恋愛禁止とかのルールはないから、生徒会業務に差支えがなければ特に問題はないわよ」
結城先生はそう言うと、ちらっと私の方を見つめた。
その目は…いろいろ分かっている目で、私は脂汗を流しながら、こくんとうなづいた。
恋愛禁止のルールはない。だから、私と沙織さんが隠れて付き合っていても問題はない…まぁ、生徒会としてはそうかもしれないけど、世間一般的には教師と生徒が付き合うのはルール違反なのだろうけど。
「…とはいえ、この生徒会も来月には解散するんだけどね」
結城先生は言葉を続けた。
今は5月。来月になると、生徒会長選挙が始まって、その結果、新しい生徒会が発足する。
想えば去年の生徒会長選挙は大変だったな…
葵と凛が立候補して、いろいろあって、神美羅先輩が最後にまとめてくれて…
1年前のことなのに、もうずいぶん昔のことのように感じる。
(そういえば)
生徒会が解散したら、私たちはどうなるのだろう?
そうか、その為に、文芸部の部室を昔のままに残していたのだった。この1年間で生徒会室にもいろいろな思い出や荷物が溜まってしまったから、いろいろ引っ越ししないといけないな…
去年は文芸部から生徒会に。
今年は生徒会から文芸部に。
ベクトルの方向は変わっても、やることは同じようなことか、と思う。
「そこなんですよ」
何がそこなんだろう?
恋人交際宣言をした朝比奈さんは、席に座るでもなくまだ立っていたままだった。
「この一年間、あたし、すっごく楽しかったんです」
朝比奈さんはそう言うと、私たちみんなを見つめた。
「最初は、生徒会なんてちゃんとできるのかな、って思ったんですけど、たしかに大変なこともたくさんあったんですけど、それ以上に、楽しいことが多かったんです」
思い出を語る。私たちは耳をすませて聞く。
「あたし、馬鹿だけど、でも、頑張ったら学校のみんなの役に立ててるって気がしてきて、馬鹿でも大丈夫なのかな、って思ってきて」
そして、凛の方を向いた。
「会長、かっこいいです。憧れです。だからあたし、会長みたいになりたいな、って思ったんです」
生徒会は終わるけど、生徒会を終わらせたくない。
会長が引退されるなら…誰かが新しい会長になるのなら。
それは。
「あたしが、引き継ぎたい」
さっき、私は、朝比奈さんは隠し事が下手だし、考えていることが分かりやすいと思っていたけど…それを訂正しなくちゃいけない。
私は、表面だけしか見ていなかった。
その底に流れる想いを…見抜いてなんかいなかったのだ。
朝比奈さんは大きな声で、はっきりと、私たちに向かって、宣言したのだった。
「あたし、生徒会長選挙に、立候補しますっ!」
と。




