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恋してしまった、それだけのこと  作者: 雄樹
第一章 【未来8歳/沙織20歳】
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第10話 雨のあとで【未来8歳/沙織20歳】

 翌日の朝。

 私は、部屋のカーテンをじっと眺めていた。

 差し込んでくる朝の日の光は、昨日よりも暗くよどんでいる。昨日までは透明だった空気が、今日は少しだけ重たくなったような気がした。


「未来、起きる時間だよ…って、今日はもう起きているのか?めずらしい」


 私を起こしに来てくれたお父さんが、もうすでに制服姿でベッドの上に座っている私をみて、意外そうな声をあげた。


「早起きだね」

「…たまには、ね」


 嘘だった。

 私は早起きしたんじゃない。ただ、眠れなかっただけだった。

 でも、お父さんに心配をかけたくなかったから、早起きしたよ、と軽い嘘をつく。


「すぐ行くから、お父さんは戻っていて」


 といって、お父さんを部屋から追い出す。

 私は、制服のボタンに手をかけながら、部屋にかかっている鏡を見つめた。そこには、私を見つめる私が立っている。


「…ひどい顔」


 ぼそりとつぶやく。鏡の中の私も、同じように口を動かす。

 まつげの影が頬に落ちていて、瞳の奥には眠れなかった夜の痕が残っている。

 こんな顔、誰にも見せたくない。

 私はリビングに行く前に洗面所にいって、まずは顔を洗った。

 顔を洗って、鏡をみる。

 鏡の中の私が私を見つめてくる。

 よし…よしっ。

 ぱんっ。

 私は、自分の頬を叩いた。頬が赤くそまる。じんじんする。


「おはようっ!」


 できるだけ大きな声をだして、私は笑いながらお母さんとお父さんの待っているリビングへとむかった。


 食卓に置いてあるのは、目玉焼きとサラダ。

 いつものようにお母さんはコーヒーを飲んでいて、私の席には牛乳が置いてあった。

 新聞を広げていたお父さんが私をみて、口を開いた。


「…未来、顔がむくんでいるぞ…大丈夫か?」

「なんでもないよ…さっき、洗面所でちょっと気合をいれようと思って頬を叩いたから、それで膨れちゃったかもしれない」

「なんでそんなことを?」

「お父さん、女の子にはいろいろあるんだよ」


 できるだけ、ごまかす。

 それ以上、お父さんは詮索してこなかった。新聞を開いたまま、トーストを頬張っている…ときおり、ちらっと私を見ているのがわかる。私が視線を合わせようとすると、慌てて目を逸らす。


(有難う、お父さん)


 と、私は心のなかで思った。

 なにか気づいているだろうに、それでも、気づかないフリをしてくれているのが分かる。それが、この口下手なお父さんの、お父さんなりの優しさなんだと思う。


「未来、泣いた?」


 そんな空気をあえて読まないのがお母さんだった。

 絶対、分かってる。分かっていながら、それでも踏み込んでくる。


「…泣いてないよ」

「ふーん、そうなの」


 お母さんはそう言いながら、手に持っていた包丁をトントンと動かした…包丁?今朝の朝食、目玉焼きとトーストなんだけど…包丁つかうところなんて、ある?


「まぁ、あんたがそう言うなら…そうなんでしょ」


 そう言って、向こうをむいて、包丁を戻した。

 やっぱり、包丁使わないじゃん…何してるの、この人…


「行ってきます!」


 私はいつものように赤いランドセルを背負うと、できるだけ大きな声であいさつをした。まるで、自分に言い聞かせるように。


「未来、待ちなさい」


 玄関で靴を履いてとんとんとしていた時、後ろからお母さんの声が聞こえた。

 私は、ゆっくりとふりむく。」

 お母さんは、手に傘を持っていた。


「天気予報で、今日は雨が降るかもしれないっていっていたから、一応、傘を持っていきなさいね」

「うん、ありがとう」


 私は手を伸ばして傘を取ろうとした。と、その時。

 手首を、お母さんにつかまれる。


「いい未来?あんたはまだ8歳。私はあんたの3倍は生きているんだからね」


 真剣な顔。

 まっすぐ私を見つめる瞳。


「だから、私は、あんたの3倍は失敗しているんだよ。そんな、失敗の先輩から、失敗の後輩にいいアドバイスをしてあげる」


 頭をぐりぐりっとされる。

 わしゃわしゃってされる。

 思わず顔を見上げたら、そこには満面の笑みのお母さんがいた。


「なにがあっても、お母さんとお父さんは未来の味方だから、だから、安心していってらっしゃい!」


 そういって、お母さんは私の腰をばんって叩いた。

 いつの間にか、手に傘を渡されている。


「ありがとう、お母さん」


 さっきのありがとうと、言葉は同じだけど、中身がまるで違う有難うの言葉をいって、私は大股で家を出たのだった。



 ■■■■■


 昨日とだいたい同じ時間。

 昨日とだいたい同じ場所。


 そこで、私は前方に見慣れた人影を見つけた。


 腰まで伸びる黒髪を一つに束ねて、リュックを背負っている沙織さん。

 資料がたくさん入っているのか、そのリュックは遠目からもとても重そうに見える。


 焦らなくてもいい。

 走らなくてもいい。

 私は、ただ、まっすぐ前を向いて、沙織さんだけを見て、ゆっくりと歩いていく。


「おはよう、沙織さん」

「おはよう、未来」


 私の姿を見て、沙織さんが笑ってくれた。

 それだけで、なんか、もう溶けそうになる。


 冷たい風が頬を撫でて、雲の隙間から薄い光が漏れ出していた。

 光が、沙織さんを照らしている。

 ああ、なんか、もう、これだけで。

 私は、幸せなんだ。


「未来…大丈夫?風邪でもひいたの?」

「ううん、なんでもないよ…ちょっと、昨夜眠れなかっただけだから」

「なんでもなくはないよ」


 沙織さんは足をとめ、私の肩にそっと手を置いてくれた。

 その手の温度が、朝の冷気で縮こまった私の身体をほぐしていく。溶かしていく。


「未来ちゃん、身体は、大切にしてね」


 優しい言葉。

 暖かい言葉。

 私を、大切に思ってくれているのが分かる言葉。


 …大切な子供にかけるようなその言葉は、親愛ではあっても、恋心は含まれてはいなかった。


 とても暖かくて、とても気持ちいいけど、けっしてそれ以上ではない言葉。


 沙織さんは綺麗で。

 沙織さんは美人で。

 沙織さんは優しくて。


 優しくて…優しくて、そして、優しいだけだ。

 私の事を、大切な、大切な姪っ子だと。

 お母さんの、娘だと、思っている人だ。


「ありがとう、沙織さん…沙織さんも、身体は大切にしてね」

「あはは。未来ちゃんに心配されちゃった」

「だって、昨日から沙織さん、すっごく忙しそうなんだもん」

「ゼミがね…いろいろと…いろいろと大変なんだ…」


 そう言いながら、沙織さんは遠い目をした。

 疲れている目。

 はは、っと笑っているけど、口ほどは目が笑っていないのが分かる。


「私も、昨夜、寝れなくてね…」

「じゃぁ、私と同じだー」

「そうだね。私たち、似た者同士だね」


 沙織さん。

 本当は似た者同士じゃないんだよ。


 私は、沙織さんが好き。

 沙織さんも私の事を好きでいてくれるけど…


 けど、その「好き」は、違う「好き」なんだ。


 それでも、諦められないんだ。

 私の中の「好き」は…とめられないんだ。


「未来ちゃん、急がないと遅刻するんじゃない?」

「あ、本当だ。ごめんね、沙織さん。先に行くね」

「うん、気を付けて」

「沙織さんも!」


 そういって、私は走り出した。

 止めない。

 足は、止めない。

 とめてなんか、やるものか。


 雲の向こうから、かすかな陽の光が零れていた。



■■■■■



 教室の空気は、いつもより静かだった。」

 静かというか…暗かった。


 私が教室についた頃には、窓の外の雲が増えてきていて、朝なのにもう夜が先に来てしまっていたみたいだった。


 颯真は席に座ったまま、相変わらず鉛筆をくるくると回している。

 美月はノートを開いて、視線を落としたままページの端をいじっている。


 ふぅ。はぁ。

 私は、息をのんだ。

 そして。


「おはよう!」


 と、2人に声をかけた。


 颯真は一瞬、驚いたように顔をあげたあと、私をみて、それからいつもの笑顔を作った。美月はノートから目をあげて、一回目を閉じて、それから目を開いた。

 

「…お、おはよう」

「おはよう、未来ちゃん」


 2人の声はぎこちなく、それが私の胸の奥をぎゅっと縮ませる。

 どこか遠くから、雷の鳴る音が小さく聞こえてきた気がした。

 私はもう、それ以上なにもいう事ができなくて。


「あ、もうすぐ、授業はじまるね…私、準備しなくっちゃ」


 そそくさと自分の席について、ランドセルからノートを取り出した。

 窓の外の雲がゆっくりと流れていく。

 黒い雲が渦巻いている。

 時間だけが、静かに過ぎていった。



■■■■■



 気が付いたら、放課後になっていた。

 気が付いたら、2人と話をせずに時間が過ぎていた。

 最初のボタンのずれが、そのまま最後までずれていき、気が付いたら、いれるべき穴を失っていた。


 外では、雨が降り出していた。

 最初はぽつりぽつりとした小さな雨だったのに、今ではけっこうな土砂降りになっている。


 傘を忘れた子たちの中で、何人かは濡れるのもかまわずに走って下校していた。

 …颯真も、その一人だった。


(…結局、朝の挨拶から何もしゃべれなかったな…)


 と、思う。

 私から話しかけた方がよかったかな。

 でも、無理して話しかけても、微妙な空気になるかな。

 …もうすでに、今の雰囲気が最悪なのかもしれないけど…


 何かを言われたわけではなく。

 何かを言ったわけでもなく。

 ただ、たんに、普通に。

 目と目を合わせなかっただけだ。


 雨の音。

 あまりにも雨の音が大きくて、雨音に包まれて、静かだった。


(こんなことで、終わっちゃうのかな)


 ちくん。

 胸が痛んだ。

 終わる時って、劇的に終わるわけじゃなく、感動的に終わるわけじゃなく、ただ、静かに、沼に落ちるように、気が付いたら、いつの間にか終わってしまうものなのかもしれない。


 ボタンの入らなかった穴が広がって、包み込んでしまうのかもしれない。


(私は)

(私は)


 だって、私が、選んじゃったんだから。

 私が選んだんだから、私は、この道を歩いていくしかないんだ。

 道が…交差しなかっただけ、なんだ。


 泣くな。

 泣いたら、自分が選んだことが間違いだったことになるじゃないか。

 雨音。

 雨のしぶき。

 泣いているんじゃなくって、これは、雨だから。

 だから。


 と。

 その時。


「未来ちゃん」


 後ろから、声がした。

 振り返ると、そこには、美月が立っていた。


「私、傘、忘れちゃった」


 そう言って、私が手にしていた、朝、お母さんから手渡されたピンクの傘を見つめてきた。


「濡れて帰ったらお母さんに怒られるから、だから」


 傘に、いれて。


 と、美月が口にした。


 雨音。

 外から雨音が聞こえてくる。

 空は雨雲でおおわれて、まるで夜のように暗い。


 そんな中。

 私を見つめてくれる美月の顔が、少し輝いて見えたのは、目の錯覚だったのかもしれない。


 美月が近づいてくる。

 手を伸ばしてくる。


 私は一瞬ためらったあと、手にしていた傘を見つめた。傘は震えていた。震えていたのは、私が震えていたからだった。震えていたのは、雨で寒いからじゃなかった。


「いいの?」

「なんで?」


 わたしの問いに、美月が問いでかえしてくる。


「お願いしているのは私だよ…私がお願いしてるんだよ…未来の傘に、入れてって」


 そう言いながら、傘を握る私の手を、握ってくる。


「ごめんね、私が入ったら、濡れちゃうかもしれないけど」


 傘を開く。

 ピンクの傘が開く。

 2人で傘を手に持って、外に出る。

 雨が降ってくる。

 傘にあたる雨の音が私たちふたりを包み込む。


 大きな傘じゃないから。

 私も、美月も。

 傘からはみ出た肩が雨に濡れていく。


「未来…私ね、やっぱり、普通じゃない道なんて分からない」


 美月の手が私に触れて、暖かくて。


「分からないけど…でも」


 雨音。

 雨の音。

 傘にあたる雨の音。


 2人の身体が、半分だけ濡れて。


「一緒に濡れることは出来るよ」


 冷たい雨が…暖かかった。


 言葉は雨音に解けて、流れて地面に落ちていく。

 曇った空は曇ったままで、依然雨は降ったままだった。


 けれど。


 土砂降りの雨はやまないけど、私の心の中の雨には光が差し込んできて。


 私は、親友と共に、雨の中を半分ずつ濡れながら、暖かい気持ちと一緒に歩いていった。

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