中段突きで世界を変える男
狭い坑道を抜けた先、視界が急に開けた。
岩肌に囲まれた巨大な空洞。その中心に、あまりに不釣り合いな“存在感”があった。
無数の石の巨躯──数えておよそ百。巨大なゴーレムたちが、まるで冷たい軍神の群れのように並び立っていた。
「やっぱり……っ!」
リゼリアが息を呑み、瞳に怒りを滲ませる。
「虚偽の依頼でしたわね……あの男!!!」
事態の異常性を即座に悟り、リゼリアは踵を返しかけた。
「ゴウシン、一旦引きましょう! 応援を——」
だがその背には、すでに“走り出している者”がいた。
剛心である。
彼は一直線に、眼前のゴーレムの一体へと駆けた。
「重いなぁ……!!」
その声音には、恐れも焦燥もなかった。ただ──喜悦だけがあった。
「ふんっ!!」
両腕を地面すれすれに振り抜く。諸手刈り。重量と構造を無視するような一撃。鈍い音と共に、ひときわ大きなゴーレムが倒れる。その衝撃で坑道が震えた。
だが、彼の動きは止まらなかった。転がる巨体に絡みつくように手足を流し込む。体はまるで水のように滑らかで、意志だけが鋼のごとく確かだった。
「腕ひしぎ十字固め極まったぁ!! このまま、へし折る!!」
豪腕を極めたその瞬間、ゴーレムが咆哮する。
「ボォオオオオ!!」
重量級の体が揺れ、剛心ごと振りかぶられる。そして──
「ぐっ……!」
剛心の体が、空気を裂き、背から岩壁に叩きつけられる。岩肌が凹むほどの衝撃に音が止まった。
「ゴウシン!!」
リゼリアが魔法陣を展開しながら叫ぶが、剛心は──動かない。
だが、それは失神ではなかった。
それは、“歓喜”である。
(……投げられた?)
意識の底で、剛心は確かに笑っていた。
(何年ぶりだ? あの体勢から、力だけで技を押し切られた……。背中が……痛い? まさか、受け身が取れてない!?)
衝撃の余韻。痛みの鈍さ。それらすべてが、彼の精神を昂揚させる。
(……こんなにも、武道が“通じない”とは……!!)
「良いな……」
彼は口の端をゆっくりと持ち上げ、呻くように呟いた。
「良いな!!! お前たち!!!」
眼前の無機の巨躯たちに、まるで語りかけるように叫ぶ。
「使える!!! 武道ではなく、“武術”を!!!!」
「ゴウシン……?」
リゼリアが訝しげに声をかける。魔法を展開しながら、後退のステップを踏む。
だが、剛心はすでに立ち上がっていた。
ゆっくりと──そして静かに。
その目に映るは、ただ“鍛錬の機会”のみ。
ゴーレムの拳が振り上げられる。
剛心はそれを掻い潜り、懐に滑り込む。真正面から、全身を預けるように、彼は崩れる。
「はぁっ!!」
そのまま脚を刈り、重心を落とす。巨体の“浮き”を感じた瞬間──
彼は回転ではなく、“墜落”を選んだ。
背負い投げ。しかし、落とすのは“背”ではない。
剛心の技は、躊躇なくその“頭部”を岩へ叩きつけた。
硬質な砕け音。ゴーレムの首から上が、まるで陶器のように砕け散る。
重々しく崩れ落ちる巨体。
岩塵の向こう、立ち尽くす男の目だけが、冷たく光っていた。
その男こそが、東雲剛心──武を求め、理を探し、ただ鍛錬の機会を愛する異邦の者であった。
別のゴーレムが、両腕で岩塊を掲げた。人間の家屋ほどもある巨石が、天へと持ち上がる。
だがその動作に、剛心は静かに、そして確信に満ちた声で告げた。
「……良いのか? そんなに重心を上げて」
瞬間、風を裂く音が響いた。
剛心の姿が掻き消え、次に現れたときにはすでに巨人の側方──その“死角”にあった。
「はっ!」
両脚が開き、挟み込む。流麗にして無慈悲な動作。彼の脚は、鉄と化した蟹の鋏のようにゴーレムの脚部を挟み、一瞬で崩れさせる。
再び地に倒れる巨体。そして──
「腕ひしぎ十字固め、再び」
剛心の手が、無機の腕を捉える。先ほどとは違う。迷いのない速度。そして──圧倒的な“決断”。
「ふッ!」
極まった瞬間、彼はその全体重を技に乗せる。まるで山をも穿つかのごとき、破壊の意志。
ゴリリィィ……。
咆哮と共に、石の腕が砕けた。
だが、剛心の闘志はその一点で止まらない。砕けた“その腕”を、彼は手に取り、構え直す。
「二節棍術は知っているか?」
誰に語るでもなく、彼はその石の腕を、まるでヌンチャクのごとく振り回し始めた。
巨大なゴーレムの四肢を振るいながら、彼の動きはもはや舞いだった。破壊の舞踏。社交場のような優雅さと、戦場の狂気が同居する。
一撃、また一撃。
石の棍が風を裂き、打撃の嵐となって敵をなぎ払う。次々に崩れ落ちる石の兵士たち。
その破片が、飛礫の如くあらゆる方向に弾け飛ぶ。
「なっ……なんですの、あれは……!!」
戦闘を一時中断したリゼリアは、剛心の側から距離を取り、高所の岩場に跳躍する。唇を震わせ、ごくりと唾を飲み込んだ。
「無茶苦茶ですわ……」
剛心は、砕けてボロボロになったゴーレムの腕を軽く放り投げた。
「さて──打撃は効かない、という話だったが」
構えは最小。動きは直線。
空間を貫く拳。軌道は一条の光のように鋭く、無駄をそぎ落とした一撃。
「鎧通し」
その一言と共に、拳が突き刺さる。
石の巨体、その“芯”からヒビが走った。
ゴォ……ォ……ン……。
破裂のような音。崩れ落ちる躯体。剛心は一歩も動かず、その崩壊を見届けた。
「効くじゃないか」
呟くその声は静かだが、熱を帯びていた。
その後も炸裂する──貫手、踵落とし、鉄槌打ち、平拳。
あらゆる技が、次々に、止めどなく繰り出された。どれもが、武道では禁忌とされた殺人技。人体には絶対に用いてはならぬ、暗き技術。
だが今、剛心はそれらを使っている。迷いなく。誇らしげに。心からの歓喜と共に。
かつて、幾度となく笑われた。真面目すぎると、時代遅れだと。誰にも相手にされなかった。
それでも、何年も、何十年も、剛心は“これ”のために拳を握り続けたのだ。
──この世界の石の巨人たちは、その“証明”のための存在だった。
まさに、悲願の一時。
「詠唱も……キュ力の流動も……何もない……なのに」
岩場の上から、その光景を見つめるリゼリアが、呆然と呟いた。
彼女の目に映るのは、ただ拳のみで世界の理を塗り替える男──剛心であった。
残るは、ただ一体。
剛心は拳を握った。
「やっぱり……最後はこれだな」
その構えに、特別なものはなかった。
背筋はまっすぐ、拳は腰に、重心は低く。
あまりにも、ありふれた──まるで教本の一頁のような構えだった。
「……これだけを、ずっと信じてきた」
それは呟きとも、祈りともつかぬほどに静かだった。
この技を知らぬ者はいない。
誰もが習い、そして皆、ある時こう結論づける──「もう習得した」と。
だが剛心は、その錯覚を拒み続けた。終わりなき反復の中で、“奥”を掘り続けた。
何十万回、いや──何百万回。
ただひたすらに、同じ“突き”を繰り返してきた。
ゴーレムの巨体が一歩、剛心に迫る。
彼の身体が、風と共に一閃。
矢のように、無駄のない軌道でその懐に飛び込んだ。
その瞬間、放たれた中段正拳突き。
あまりにも、あまりにも平凡なその一撃が──
ゴーレムの中心を貫いた。
「──押忍!!」
拳を納め、一礼。
静けさの中で、巨人の肉体がゆっくりと、崩れ落ちた。
衝撃も、爆発もなかった。
ただ静かに、粉雪のように、瓦礫となって散っていく。
剛心はその山を前に、ゆっくりと拳をほどいた。
静かな目。深く、長い息。
誰にも認められなかった。
狂人と呼ばれ、無意味と罵られ、何度も心が折れそうになった。
それでも、それでもやめなかった。
苦痛、嘲笑、孤独。
執念の果ての狂気。
だが今、すべてが──
「……ようやく、全部が繋がった」
そう呟く剛心の表情には、悲壮ではなく、安堵が浮かんでいた。
技術ではない。
力でもない。
これは、人生だった。
そして彼は、振り返ることなく、坑道をあとにした。
「終わりましたわね……」
坑道の出口、岩肌から漏れる淡い光に照らされて、リゼリアがそっと呟いた。
彼女の隣を、何も言わずに歩く剛心。
だがその背中には、かすかに満ち足りた気配があった。
光の中を歩いていく彼の影は──どこまでも、まっすぐだった。