この世界の馬車は光速で走っている
翌朝、陽光はまだ岩の稜線の向こうに在り、空気には夜の冷気が残っていた。
リゼリアが、しっかりとした足取りで歩みを止め、振り返る。
「ここが……ゴーレムの出る、鉱山ですわ」
その声に、剛心は顔を上げた。
岩肌が露出し、乾いた風が衣の隙間を通り抜けていく。いつの間にか山裾に立っていた。後ろを振り返っても、もう街の気配はなかった。
剛心は、一瞬だけ目を細めた。
「……あっ、あぁ……ここが例の鉱山か……」
その表情には、わずかながら戸惑いが混ざっていた。指先を拳へと収め、肩を揺らし、背を鳴らす。その仕草に、違和があった。
「……どうしたんですの?」とリゼリアが不審げに問う。
「いや……早くないか?」
「は?」
「いや、たしかに……買い物をした。宿で休息もとった。そして馬車には乗った記憶もある。座席は硬く、揺れは荒く、腰も宙を舞った。だが──」
剛心は静かに、だが確信を持って語りはじめた。
「……身体に、“移動した痕跡”が残っていない」
その言葉に、リゼリアは一拍置いてから、ふふ、と笑い首を振る。
「楽しい時間って、すぐ過ぎるものですわ」
だが剛心の表情は変わらない。いや、むしろ真剣さを深めていた。
「違う。そんな曖昧な心理現象ではない。これは──物理法則の破綻だ」
彼はすっとしゃがみ込むと、地面に人差し指で数式を書き始めた。
「時間の遅れ Δt′ = Δt × √(1 − v²/c²) ……ここで c は光速、v は馬車の速度と仮定する。仮にΔt=五時間、体感が一分だったとすれば……」
ざり、と土を払って目を細める。
「……やはりそうだ。v ≈ 0.999994c……」
リゼリアは、笑顔を固めたまま訊いた。
「えっ、な、何がですの……?」
剛心は力強く立ち上がり、遥かなる虚空を指差す。
「つまり! この世界の馬車は──光速の99.9994%で走っていることになる!」
「な、なんですって!? それって……馬……じゃ──」
「違う。これはもう馬ではない。馬型の素粒子加速器だ!」
あまりに真剣な剛心の目に、リゼリアは言葉を失う。
だが彼は止まらない。むしろ拳を握りしめ、次なる仮説を提示した。
「……まだ断定は早い。馬車の内部に“重力レンズ”が存在した場合、空間そのものが歪められていた可能性がある」
「じ、重力……?」
「時計が進まなかったのは、俺の知覚の誤差ではなく、時空の“縫い直し”が起きたと考えるべきだ。つまりこの世界では、馬車が……時空の裁縫師と化している……!」
風が、遠くの岩壁に鳴る。剛心はじっと、空を見上げた。
「この世界の文明、あなどれん……!」
彼の拳が、わずかに震えていた。感動でも、恐れでもない。純粋な興奮。
対するリゼリアは、数秒間の沈黙の後、棒読みのような口調でつぶやいた。
「……さ、行きますわよ……」
剛心はその背中を見送りながら、小さく、けれど確かな声で告げた。
「この世界、鍛錬の余地がありすぎる……」
──吹きすさぶ風の中、鍛錬の旅は静かに始まりを告げていた。
坑道の入り口に辿り着くと、そこにはひときわ小柄な男が立っていた。黒く長い髪は、まるで磨き抜かれた絹糸のごとく艶やかであったが──その輝きとは裏腹に、肌は荒れ、歯はところどころ欠け、目元には笑みが宿っていなかった。
「使徒様! そしてリゼリア様!! こ、これはこれはッ!! お待ちしておりましたぁぁぁ!!」
男は大仰に腰を折り、芝居がかった声で出迎えた。だがその“笑顔”は、あまりに不自然であった。口角は上がっていても、瞳には冷めきった水面のような無表情が宿っていた。
リゼリアは眉ひとつ動かさず、依頼書を差し出す。
「こちらが依頼書ですわ」
「たしかに……!」
男がそれを受け取ると、自らの髪を手に絡ませるように掲げた。するとその毛先が光を帯び、依頼書の表面に妖しげな刻印が浮かび上がる。
「では! 残りの刻印は依頼完了後でよろしいでございますか!?」
「もちろんですわ。それで、中の状況は?」
リゼリアの問いに、男はすかさず深いため息を漏らし、今度は哀れみを乞う者のような声音に切り替えた。
「酷いものでございます……ゴーレムどもが三十体ばかり鉱脈を占拠し、我ら採掘民の生業も危うく……怪我人まで……! このままでは国王様への貢献もままならぬのですッ!!」
最後の一言だけ、やけに元気よく叫んだ。
剛心がリゼリアに小声で問いかける。
「リゼリア、少しいいか?」
「えぇ?」
「そのゴーレムとやらは、そんなに急に増殖するものなのか?」
リゼリアは眉をひそめ、肩をすくめた。
「いえ、それはありえませんわ」
男が露骨に目を泳がせる。
「おおかた、依頼料を惜しんで採掘者に対処させたものの、手に負えなくなってようやく依頼を出した……と、そういうことでしょう?」
リゼリアの言葉に、男は一歩引き、額に脂汗を浮かべる。
「そっそれは、わざわざギルドの皆様にお手数を……」
「さっき怪我人が出たと言ったな? お前は随分元気そうだが?」
剛心の問いに、男は一瞬固まった。
リゼリアはまたしても大きく息を吐いた。
「ゴウシン、まともに取り合うだけ無駄ですわ。それより、一刻も早く対処しましょう」
剛心はしばし沈黙したのち、うなずく。
「……そうだな」
そして二人は、岩肌の闇へと歩を進める。
「いいですか、ゴウシン。ゴーレムに物理打撃は効きませんわよ?」
「そうなのか!?」
剛心の表情が輝いた。なぜか嬉しそうである。
「えっ……えぇ。だからゴウシンは前衛を、私は後衛から魔法で蹴散らします」
「俺が前だな! 承知した!!」
「だから物理打撃は絶対に“効きません”からね」
「ああ、もちろんだ!!」
剛心は頷きながら拳を握りしめ、昂揚した面持ちで前進していく。まるで試合直前の武道家のように。
リゼリアはもう一度深く息を吸い、額に手をやった。
やがて坑道の奥へと進み出した二人。リゼリアがぴたりと足を止める。
「ゴウシン、少し止まってください」
「どうした?」
その言葉と共に、リゼリアの金髪がかすかに輝き始める。次の瞬間──
「風の矛よ、顕現せよ……ウィンドランス」
光の槍が空気を裂き、壁の陰に潜んでいた魔法陣を一閃で破壊した。
剛心はその光景を、静かに見つめていた。
「何をしたんだ?」
「ええ、大丈夫ですわ。ただ、念のため、足元にはご注意くださいませ」
「……なるほど。少し注意して進もう」
「その通りですわ」
ふたりの足音が、静かに石壁に反響していった。だがその背後には、剛心の拳の内に宿った微かな闘志が、確かに燻っていた。
次なる“物理の通じない存在”に、挑むために──