カポエイラとは音楽と戦闘の融合だ
市街地の中心、市場は活気に満ちていた。色とりどりの果物に歓声を上げる子どもたち、木箱を担ぐ逞しい男たち、そして明らかに動きづらそうな鎧に身を包んだ剣士や、ローブのすそを踏みかける老人の姿まで、異世界の日常がそこにあった。
その光景に、剛心は感嘆の声を漏らした。
「……ほう、この世界にも“コスプレ”という文化があるのか」
リゼリアが、足を止めた。
「コスプレ? ……違いますわ。あれは獣人の方ですわよ?」
「獣人? 強いのか?」
「えぇ。身体能力は人間の比ではありませんわ。まあ、私のキュ力の前では——」
だが、剛心はすでに別の方向に意識を向けていた。
「そちらの女性」
「にょ?」
「美しい……」
「にゃにゃ!?」
「かなりバネのある引き締まったヒラメ筋と大腿四頭筋、それを支える中殿筋、腸腰筋のバランス……。失礼ですが、どちらのメーカーのプロテインを?」
「ぷ、ぷろ……ていん?」
リゼリアは剛心の腕を引っ張った。
「行きますわよ!!」
「ちょっ……せめてファイトスタイルだけでも!やはりムエタイですか!?それとも——」
そのまま剛心は引きずられ、冒険者ギルドの建物へと吸い込まれていった。
⸻
冒険者ギルド。壁に貼られた無数の討伐依頼書、木製のカウンター、酒を片手に笑い声を上げる者たち。場内はまさに喧騒と熱気に満ちていた。
しかし、剛心とリゼリアが入った瞬間、その空気がピタリと止まる。
「ねぇ、なにあの髪……あの女の奴隷?」
「はっ、場違いだろ。キュ力もない奴が……」
「ガタイは良いが、すぐに死ぬぜ」
リゼリアは無言でカウンターへ向かい、声を張った。
「依頼を受けますわ。例の、ゴーレムの大量発生」
受付嬢が慌てて立ち上がった。
「しょ、承知しました……では、ギルド証を……」
「ギルド証はありませんわ。私はリゼリア・フォン・グリューエン。これで十分でしょう?」
そう言って首飾りの紋章を見せる。
「しっ、失礼しました!そ、そちらの……奴隷の方は?」
「あなた、無礼ですわ! ゴウシンは使徒様ですのよ!」
「しっ、使徒様……? ですが、ギルドにはそのような連絡は……」
「よいから早くしなさい!」
ざわつく場内。
「リゼリアって、あの宮廷直属の……?」
「あぁ、暴風のリゼリアだ」
受付嬢の顔が引きつる。
「えっと……規則なので……その、正規の手続きで……た、たぶん一ヶ月ほどでギルド証を、はっ、発行いたします……っ!」
受付嬢の声は尻上がりにかすれ、最後には半ば悲鳴のように震えた。
リゼリアは、その言葉に絶句した。
「なっ……!?」
気品を重んじる貴族の娘が、この場で思わず声を荒らげたのは、それが人生初かもしれない。
「どういうことですの!? 一ヶ月!? その間にゴーレムに街が襲われたらどうするおつもりで!?」
受付嬢は慌てて頭を下げ、指先で帳簿の端を握りしめた。
「もっ、申し訳ございません……! も、もしくは、なにか“強さの証明”をしていただければ……その、例外措置として……」
「……証明は、しましたわ」
「具体的には……?」
リゼリアの唇がわずかに震えた。赤く塗られた爪が、無意識に手袋越しの掌を掴む。
誰よりも高いキュ力を誇り、誰よりも多くの賞賛と羨望を浴びてきた。だが今、その事実を語れば——自らの“敗北”を告げねばならない。
「そ……それは……」
彼女の声は掠れ、言葉の先が霞んだ。
——キュ力のない、あの男に。
リゼリアの脳裏に、石畳に叩きつけられた瞬間がよみがえる。三角絞め。泡。落ちる意識。それでも尚、抗い続けた己。そして敗北。
「私は……ゴウシンに……けっ、決闘で……」
その名を口にするとき、唇を噛む音が微かに聞こえた。肩が震え、誇りが軋んだ。
「決闘……?」
受付嬢が首をかしげたその瞬間——
「大丈夫だ、俺に任せろ」
低く、確信に満ちた声がギルド内に響く。
剛心が前へと一歩踏み出していた。
その足取りは、まるで何かを背負うように重く。だがその背には、一切の迷いがなかった。
リゼリアが小さく、名を呼ぶ。
「ゴウシン……」
「強さを示せばいいんだな?」
「はっ、はいっ!」
静寂がギルドを満たしていた。
ざわめきは消え、椅子の軋む音ひとつない。
全ての視線が、一人の男に注がれていた。
異様な風貌。異様な頭部。そして、何よりも異様な沈黙。
剛心は帯に手を添えた。
「……俺の“実績”を見せるしかないか」
そして、誇らしげに宣言した。
「黒帯だ!!」
受付嬢が瞬きをする。誰かが喉を鳴らす。空気が止まっていた。
「く、くろおび……?」
剛心はすかさず応じた。
「七段だ!師範免許もある!ドゥーユーノゥ、ブラックベルト?」
「す、すいません……」
「なっ、なるほど……ではこれはどうだ?」
もう一方の腰紐、白帯を掴み、ゆっくりと掲げる。
「この白の腰紐はカポエイラ最高位。そしてカポエイラとは音楽と戦闘の融合だ」
「お、音楽……?戦闘と融合って……何かの儀式ですか……?」
「リズムだ。攻防はリズムの中にある」
その言葉が、予期せぬ方向から受付嬢の理解に届いた。
「つまり吟遊詩人ということですか!?」
剛心は、戸惑いつつも頷いた。
「……まあ、似たようなものだ」
受付嬢は、ぱあっと顔を明るくし勢いよく資料棚をめくり始める。
紙の音がやけに軽快だった。
「ありました!リゼリア様はS級、つまり吟遊詩人の帯同、許可されております!」
「よし!これで強さが証明されたわけだな!」
その言葉に、受付嬢は一瞬黙り込み——だがすぐに、にっこりと笑って討伐依頼書を差し出した。
「……えっと……はい!!」
「こちら、ゴーレムの討伐依頼書になります!!」
そして誰も、“吟遊詩人とは何か”を、深く掘り下げようとはしなかった。
なんとか依頼書を受け取り、ようやく席に戻った剛心とリゼリア。ギルドの喧騒はやや落ち着きを取り戻しつつあったが、二人の間には言葉にならぬ空気が漂っていた。
リゼリアが、そっと目線を逸らしながら呟く。
「……あ、あのっ……その……ありがとう、ございます……」
剛心は、まるでそれが当然であるかのように眉ひとつ動かさず答える。
「何の話だ?」
「……えっ?」
戸惑いを含んだ問い返しに、剛心はなおも真顔のまま言葉を継いだ。
「俺たちは“戦った”。それでいい。それ以外に言葉は必要ない」
その口調には揺るがぬ確信があった。だが次の瞬間、剛心の表情がわずかに変わる。
視線が、リゼリアの口元に吸い寄せられていた。
「……お前、歯はどうした?正拳突きで折れたよな、あの時?」
不意の問いに、リゼリアが小首をかしげる。
「歯って?……あのあと普通に生えましたわよ?」
剛心の動きが止まる。
「……生えた?」
「えぇ、歯なんて”ひと段落”すれば生えますわ」
「そんな馬鹿な……永久歯は一度折れたら終わりだ。神経も根も、戻ることはない……!」
「そう言われてみれば不思議ですが……髪の毛だってまた生えますわよ? それと一緒ですわ」
剛心は、目を見開いたまま硬直した。
「……なんてことだ……STAP細胞は存在したのか……!」
そして呟く。
「すぐに厚労省に届け出なければ……!」
だが、その仮説も束の間である。
次の瞬間、酔いどれのような足取りで近づいてきた一人の男が、剛心の頭上に故意とも思える動作で酒をぶちまけた。
——ばしゃり。
剛心の頭上から、ひとしずくの冷酒が滴り落ちた。
「……あっ、すまない。気づかなかったよ」
その声は、やけに穏やかだった。だが、込められた意図は明白である。
「君みたいな存在感のない“下級民”は、どうも視界に入らなくてね」
現れたのは、黒髪の青年。整った顔立ちに、上質な布地を纏った身なり。そして背には、場違いなほど豪奢な魔剣。
しかし彼の瞳には、どこか決定的な“空虚”が宿っていた。
「おいおい……あれは……」
「ユウキ様だ!」
場内がざわめく。名の知れた存在であるらしい。
リゼリアは憤りを込めて立ち上がる。
「ユウキ様、ゴウシンに何を──」
彼女の声には怒りが滲んでいた。
けれど、それは単なる義憤ではない。
あの決闘で、自分を“戦士”として受け止めてくれた剛心。
そんな彼が、再び誰かの手で“見下される側”にされるのが、耐え難かったのだ。
それが何なのか、自分でもまだ言葉にできないまま、彼の隣に立っていた。
しかし、剛心は拭おうともせず、まるで何事もなかったように言った。
「知り合いか?」
その落ち着きに、リゼリアは一瞬言葉を失う。
「三年前にこの世界にいらっしゃった……あなたと同じ使徒様ですわ」
「……なるほど」
剛心の反応は、まるで他人事のようだった。
対する優希は、芝居がかった口調で語る。
「まさか……ステータス画面も出せないの? 素手で何とかなると思ってるのかな?」
「それに……坊主頭って。正気かい? で、キミ、なんのスキル持ってるの?」
剛心は即答する。
「特にない」
優希の顔に、待ってましたと言わんばかりの笑みが浮かぶ。
「なるほど。“選ばれなかった側”ってことだね」
その声には、確かな優越感と、同時に見え透いた哀れみが滲んでいた。
だが——剛心の表情は、微動だにしなかった。
そのまま、優希は踵を返してギルドの扉に向かう。そして、振り返ることなく、声だけを残していく。
「僕はいつでも、中央広場の南の鍛錬場にいるよ……。戦いたくなったら、来てくれてかまわないからね?」
しかし、背後から返る言葉はなかった。剛心はそのとき、濡れた靴を脱いでいた。
「ん?……この床、適度な弾力……初心者にも優しい設計だな」
優希は少し声を張った。
「……君が怖くて来られないなんて、僕は思いたくないよ? だから……中央広場の南の鍛錬場で待ってるからね?」
剛心は顔を上げることもなく、軽くステップを踏み出す。
「……この床、足に吸い付くような粘りがあるな……うむ、いい木材だ」
優希は口元を引きつらせながら、再び振り返りもせず叫ぶ。
「中央広場の南の鍛錬場! 分かったかい!? あの鍛錬場だよ!? 君の挑戦をいつでも受ける覚悟はできているからね!!」
しかし剛心は、リゼリアの方へと向き直り、静かに問う。
「リゼリア、ここの床材は何の木だ? 道場を建てるなら、これ以上はないだろう」
「……あっ、あの、ゴウシン……行かないのですか?」
「そうだな。行こう」
リゼリアが安堵の表情を浮かべたのも束の間、剛心の問いはあくまで実務的だった。
「明日のゴーレム討伐とやらの準備は、どこに行けばいい?」
「大通りに露店が並んでいますわ……」
その後、二人は買い物へと出かけた。
「店主、この食材のPFCバランスは?」
「PFC? よくわからんが、たらふく入ってるぜ」
「素晴らしい!」
「このポーションを使えば、多少の負傷は治りますわ」
「エアサロンパスだな!」
──そして、夕刻。
【中央広場の南の鍛錬場】
そこには、すでに一人の男の影があった。
優希だった。
鍛錬場の中心で、どこか所在なく立ち尽くし、頭を垂れている。
「……はぁ……今回の聖典の指示……なんだったんだろう」
その手には、ぬるくなった酒瓶。すでに意味を失った小道具に、彼は微かな視線を落とす。
「“酒をかけて怒らせろ”って……僕、そういうの苦手なんだよなぁ……」
夕暮れの風が頬を撫でる。彼の視線は何度も、門のほうを振り返った。
「でも……頑張ったんだよ。ちゃんと、中央広場の南の鍛錬場って言ったし……場所、間違えてないよね……?」
沈黙。
「……剛心さんには、怒ってほしかったのに……。ずっと、床の話してた……」
言葉に出した瞬間、それがどこか滑稽に思えて、彼はうっすらと笑った。だがその笑みは、口元ではなく、まなじりの陰に滲んでいた。
「……まあ、うすうす分かってたけど……」
ぽつりと呟く。
「今回は……多分、僕が“負ける役”なんだろうなぁ……」
彼の口元が歪む。だが笑っているわけではない。ただ、顔の筋肉が、どう反応していいかを忘れてしまっただけである。
「でも、聖典が、僕を選んだんだ。だから……信じて待つしかない……」
──そして、夜は更けていった。
【中央広場の南の鍛錬場/深夜】
星々がかすかに瞬き、空は無音の闇に染まっていた。
その中で、なおも優希は立ち尽くしていた。
「……もう……帰ってもいいかなぁ……」
その呟きは、誰にも届かぬ空に消えた。
それでも、彼は念のため朝まで待った。
希望は失われても、聖典からの命令だけは残っていたからだ。
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UI:UserPenaltyUpdated: Entity '東雲 剛心' reclassified to [Class-B Disruptor]
── ユーザー『東雲 剛心』の脅威ランクを更新:クラスB妨害因子へ再分類されました
UI:Cause: Interference with scenario synchronization flow
── 原因:シナリオ同期フローへの継続的干渉
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