同意していないのに個人情報が収集された件
丘の上には静寂があった。
丘陵の稜線をなぞるように踏みしめるその足取りは、かつて幾多の道場を渡り歩き、幾多の床板を砕いてきたそれである。
市街地の喧騒も、群衆のざわめきも、ここまでは届かない。
剛心はその丘の中腹に立ち、遠くにそびえる山々を真顔で見据えていた。
「修行といえば山籠りと相場は決まっているからな……」
遠くにそびえる山々を一瞥し、重々しくうなずいた。
だが、次の瞬間である。
空間が──裂けた。
いや、正確には“表示”された。
半透明の矩形が、何の前触れもなく剛心の目前に浮かび上がったのだ。
「……ん?」
見知らぬ言語。否、よく見ると日本語に似ている。表示にはこうあった。
《警告:冒険者ギルドへの登録が終わっていません。市街地エリアに戻ってください》
剛心の眉間に、深い皺が刻まれる。
「なんだこれは……タブレットか?」
彼の声は、戦場で敵を見定めたときのそれであった。
「……ギルド? 団体か? いや、これは新手の流派……“冒険流”とでもいうのか?」
一歩退き、再度画面を睨む。だが、情報はそこに確かに存在し続けていた。
「……いや、待て。俺は通信契約を結んでいない!
もしやこれは……“テレビを設置しただけで契約が成立する”という、あの悪名高き制度……?」
剛心の背に、かすかな冷汗が流れる。
「まさか……NHKの手法か!?」
震える指先が、画面の一角——《ステータス》と記された項目に触れる。
ぴっ、と音もなく遷移する情報。そこに表示された内容は——
⸻
名前:東雲 剛心
性別:♂
身長:182cm
体重:115kg
力:999
素早さ:999
防御:999
精神:999
かしこさ:30
⸻
剛心の表情が、明らかに変わった。
「こ……これは只事じゃない……」
唇が乾く。手がわずかに震えた。
何より、「かしこさ:30」という項目が、無言で彼の人格を断罪していた。
「これは……個人情報が流出している……!」
怯えたわけではない。だが、誇り高き武道家の精神が告げていた。これはハッキングであると。
「くそっ!パスコードも顔認証も突破された!? 二段階認証で万全のはずだったのに……!!」
「……俺の心の弱さか!!!」
画面に視線を落とす。
「削除ボタンは……ないのか!?」
拳を握る。怒りでも焦りでもない、防衛のための拳。
その瞬間、彼の掌に伝わる感触が変わった。
画面は、ぬるりと弾力がありながらも、中には硬質な核のような芯がある。
未知の物質。いや、未知の挑戦——
剛心は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……これは、俺の拳が通じるのか?」
己に問う。
板を割り、大木を砕き、岩を粉にし、鉄骨すら折ってきた己の拳。
その拳で、かつて何を割ってきたのか。なぜ割ったのか。
そして今、ここにあるのは割ってみたいという、甘美なる欲望。
「いや、いかん!! 俺の悪い癖だ!!」
「……もしリース契約体系だった場合、違約金が発生する可能性がある!!」
「破損時は端末代一括、なおかつ自動更新で24ヶ月縛り……!!」
一瞬、脳裏に「解約違約金」の文字が浮かぶ。
剛心は、一歩下がって考え込む。
契約条項。使用規約。確認していないチェックボックスの無数の罠。
しかし、すぐに彼の瞳に再び光が灯った。
「……いや、仕方ない」
剛心は、唇をゆっくりと噛んだ。血の味はしない。ただ、その行為が思考を一点に集束させる。
不正アクセス。個人情報流出。仮にこのUIがクラウドと連携していた場合、彼の身長、体重、精神ステータス、さらには「かしこさ:30」という取り返しのつかない数値までもが、全世界に拡散される恐れがあった。
それは、人格の剥奪に等しい。
「これは個人情報を守るためだ。そうに違いない!」
剛心の目が、ゆっくりと、そしてはっきりと見開かれた。
瞳孔が収縮し、世界が収束する。空間のすべてが静止し、重力すら意識の外へと押しやられた。
そして、導き出される唯一の結論——
次の瞬間、右の拳が流れるように腰へと引かれる。
「——右中段突き!!」
UIは沈黙した。だが消えなかった。
柔らかくも硬い、奇妙な手応えを残したまま、宙に浮いている。
《警告! 強い衝撃を検知。聖典システムが正しく動作しない可能性があります》
「なんてことだ……神よ!これがお前の言っていた困難というわけか!」
だが、剛心はすぐに次なる手を講じた。
呼吸を整え、腰を落とし、丹田に気を込める。
「ならば——これはどうだ!!」
彼の膝が高く上がり、渾身の前蹴りが炸裂する。
ゴシャッ。
瞬間、足から脊髄を駆け上がるような震えが走った。
それは、理想的な破壊対象と出会った者にしか訪れぬ恍惚である。
UIが弾けた。破片ではない。光と粒子に還元され、風に乗って消えていく。
「ふぅ……いいじゃないか、異世界」
剛心は満足げに空を見上げた。
その頬を撫でる風が、確かに心地よい。
「これでようやく……この世界でも安心だ」
拳に宿る理と責任を再確認しながら、東雲剛心は、再び歩き出した。
──次なる困難を、その拳で迎え撃つために。
遠く、風の合間に微かな声が混じった。
「ちょっと……使徒様ーっ!」
その声を追うように、場違いな足音が丘に鳴り響く。
石畳ではなく、土と草の起伏ある山道。にもかかわらず、その音は“コツコツ”と妙に整っていた。
ヒールである。高く、硬く、鋭く、転倒寸前の勢いで鳴らされていた。
剛心は振り返り、目を細めた。
「あいつは……?」
風を切って駆け寄る少女。息を切らしながら、裾を翻し、顔を赤らめた金髪の令嬢が、ようやく追いつく。
「もう胸の病気は大丈夫か? あと、名乗っていなかったな。俺は東雲剛心だ」
問われた彼女は一瞬きょとんとし、それから硬く口元を引き締めた。
「リ、リゼリア……ですわ」
その声音には、ほんのわずかに震えがあった。だが誇り高き名を口にすることに、ためらいはなかった。
「……なんで、こんな……山道にいらっしゃるのかしら?」
剛心は険しい山容を見上げ、神妙に頷いた。
「いい質問だ。まず、地形が不安定だ。道場のような平坦な床は無い。これは体軸の訓練に最適だ」
「いえ、そうではなくて……」
「なるほど。お前、なかなか分かっているな」
真顔で返すその語調は、褒めている。しかし、内容はまったく噛み合っていない。
「その通りだ。あくまでそれらは副産物に過ぎない。自然の中で一切の情報を遮断し、己と対話する。そうすると何が起きるか……」
「違いますわ!!」
リゼリアが叫ぶように割って入る。もはや耐えきれぬという様子である。
「そうではなく! なぜ冒険者ギルドで登録をしないのか!? ということですの!!」
「まずはそこから始めないと! “聖典”にも、ちゃんと書いてあったはずですわ!」
「聖典?」
剛心は眉をひそめる。すると彼女は、どこか誇らしげに、まっすぐな目で語った。
「そうですわ。宙に浮き、青白く淡い光を放つ、神秘的な書物。それが“聖典”ですの」
その響きはあまりに神聖であり、剛心は一瞬たじろいだ。
「……一つ、聞いてもいいか。それは……ステータスとやらに、個人情報が記載されていたりするのか?」
「えぇ! その通りですわ! 現状を知り、己の現在地を知るもの。それが聖典!」
剛心は、数秒の沈黙を置いた。
「ちなみに……修理……いや、サポート窓口はどこにある?」
「さぽーと……まどぐち? ああ、神殿のことかしら?」
「安心してよくってよ。聖典が道を指し示しますわ。世界の人々を、良い方向に、幸福へと導く、神からの贈り物ですのよ」
その瞬間。剛心の肩が、僅かに動いた。
「……幸福へ、導く?」
「え、えぇ……そう……ですが?」
リゼリアの言葉は、徐々に細くなる。
「……悪いが、聖典は破壊した」
静かに、しかし確固たる意志をこめて、剛心は言った。リゼリアの瞳が大きく見開かれる。
「な……なんですって!!?」
「幸福は与えられるものなのか?」
一拍の間が、丘を満たす。
「その幸福は……ぬるま湯じゃないのか?」
「それよりも俺は──困難を。試練を。自分を超えた、燃えたぎるような炉、生きた情熱の中に居たい!」
その言葉は、熱をもって風に溶けた。リゼリアは何かを返そうとしたが、うまく言葉が出ない。
「……でっ……ですが……ギルド……!」
彼女は戸惑う。だが、否定できない何かが胸を揺らしていた。
この男は、明らかに異物だ。だが、否定しきれない強さが、確かにそこにある。
「では、俺は山に籠る。わざわざ追ってきてくれて悪かったな」
剛心は、まるで道場の畳を踏むかのように、静かに地を踏みしめ、再び山へ向かって歩き出す。
「……指示に従ってギルドに行かないと! きっと悪いことが起こりますわ!」
「それこそ、俺の望みだ!」
リゼリアの表情が曇る。その唇から、震える声が漏れた。
「ギルドの登録がない者には、クエストも与えらない……
報告が遅れて……もし大量のゴーレムが市街地にいけば……
一体誰が、彼らを救えば……」
その瞬間。
剛心の歩みが、ぴたりと止まった。
「ゴーレム……?」
「ま、魔物ですわ……」
「それは硬いのか? それとも分厚いのか?」
「えっ……両方ですわ……?」
次の瞬間——
「行くぞ、リゼリア! ギルドとやらに!!」
剛心の声が響いた。リゼリアがきょとんとする暇もなく。
「案内してくれ!!」
剛心は、信じられぬほど軽やかに、スキップで丘を駆け下り始めた。
跳ねた。
しかも、きれいな弧を描いて跳ねた。
リゼリアはその場に呆然と立ち尽くした。
「……な、なに……この人……」
「なぜ……今、跳ねる必要が……?」
午後の陽光が、丘陵の草をやさしく照らしていた。
まだ何も起きていない。だが——世界は確かに、動き始めていた。
一方その頃、閉ざされた石の扉のさらに奥。
古より稼働し続ける機構が、異端の侵入者に応じ、静かに演算を始めた。
そこでは、一機の巨大な端末が無音のまま稼働していた。
それは呼吸の代わりに光を点滅させ、心臓の鼓動の代わりにプロセスを走らせている。
突然、画面に乱れた表示が現れた。
⸻
OutputException: unable to render directive response
── 聖典が出力指示の応答に失敗しました
SystemRebootFailure: process termination incomplete
── 聖典の再起動に失敗、プロセスが終了しきれていません
RestructureInitiated: fallback schema engaged
── 聖典の再構成を開始、代替スキーマを適用中
UserPenaltyAssigned: Entity ‘東雲 剛心’ flagged [Class-C Disruptor]
── ユーザー『東雲 剛心』にペナルティを付与:クラスC妨害因子として識別されました
⸻
それは神ではない。
だが、神に代わってこの世界を制御する存在。
“聖典”。
人智の及ばぬその意識は、ただ静かに──しかし確実に、剛心という異物を敵と定義した。
——そのとき、この世界に、ほんのわずかな“軋み”が生じた。
名もなき異物。
だが、その拳が触れるたび、常識が音を立てて崩れていく。
“妨害因子・東雲剛心”——それは、この世界の再定義の始まりだった。