表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
6/34

同意していないのに個人情報が収集された件


丘の上には静寂があった。

丘陵の稜線をなぞるように踏みしめるその足取りは、かつて幾多の道場を渡り歩き、幾多の床板を砕いてきたそれである。


市街地の喧騒も、群衆のざわめきも、ここまでは届かない。

剛心はその丘の中腹に立ち、遠くにそびえる山々を真顔で見据えていた。


「修行といえば山籠りと相場は決まっているからな……」


遠くにそびえる山々を一瞥し、重々しくうなずいた。


だが、次の瞬間である。


空間が──裂けた。

いや、正確には“表示”された。


半透明の矩形が、何の前触れもなく剛心の目前に浮かび上がったのだ。


「……ん?」


見知らぬ言語。否、よく見ると日本語に似ている。表示にはこうあった。


《警告:冒険者ギルドへの登録が終わっていません。市街地エリアに戻ってください》


剛心の眉間に、深い皺が刻まれる。


「なんだこれは……タブレットか?」


彼の声は、戦場で敵を見定めたときのそれであった。


「……ギルド? 団体か? いや、これは新手の流派……“冒険流”とでもいうのか?」


一歩退き、再度画面を睨む。だが、情報はそこに確かに存在し続けていた。


「……いや、待て。俺は通信契約を結んでいない!

もしやこれは……“テレビを設置しただけで契約が成立する”という、あの悪名高き制度……?」


剛心の背に、かすかな冷汗が流れる。


「まさか……NHKの手法か!?」


震える指先が、画面の一角——《ステータス》と記された項目に触れる。


ぴっ、と音もなく遷移する情報。そこに表示された内容は——



名前:東雲 剛心

性別:♂

身長:182cm

体重:115kg

力:999

素早さ:999

防御:999

精神:999

かしこさ:30



剛心の表情が、明らかに変わった。


「こ……これは只事じゃない……」


唇が乾く。手がわずかに震えた。

何より、「かしこさ:30」という項目が、無言で彼の人格を断罪していた。


「これは……個人情報が流出している……!」


怯えたわけではない。だが、誇り高き武道家の精神が告げていた。これはハッキングであると。


「くそっ!パスコードも顔認証も突破された!? 二段階認証で万全のはずだったのに……!!」


「……俺の心の弱さか!!!」


画面に視線を落とす。


「削除ボタンは……ないのか!?」


拳を握る。怒りでも焦りでもない、防衛のための拳。

その瞬間、彼の掌に伝わる感触が変わった。


画面は、ぬるりと弾力がありながらも、中には硬質な核のような芯がある。

未知の物質。いや、未知の挑戦——


剛心は、ごくりと唾を飲み込んだ。


「……これは、俺の拳が通じるのか?」


己に問う。

板を割り、大木を砕き、岩を粉にし、鉄骨すら折ってきた己の拳。


その拳で、かつて何を割ってきたのか。なぜ割ったのか。


そして今、ここにあるのは割ってみたいという、甘美なる欲望。


「いや、いかん!! 俺の悪い癖だ!!」


「……もしリース契約体系だった場合、違約金が発生する可能性がある!!」


「破損時は端末代一括、なおかつ自動更新で24ヶ月縛り……!!」


一瞬、脳裏に「解約違約金」の文字が浮かぶ。


剛心は、一歩下がって考え込む。


契約条項。使用規約。確認していないチェックボックスの無数の罠。


しかし、すぐに彼の瞳に再び光が灯った。


「……いや、仕方ない」


剛心は、唇をゆっくりと噛んだ。血の味はしない。ただ、その行為が思考を一点に集束させる。


不正アクセス。個人情報流出。仮にこのUIがクラウドと連携していた場合、彼の身長、体重、精神ステータス、さらには「かしこさ:30」という取り返しのつかない数値までもが、全世界に拡散される恐れがあった。


それは、人格の剥奪に等しい。


「これは個人情報を守るためだ。そうに違いない!」


剛心の目が、ゆっくりと、そしてはっきりと見開かれた。


瞳孔が収縮し、世界が収束する。空間のすべてが静止し、重力すら意識の外へと押しやられた。


そして、導き出される唯一の結論——


次の瞬間、右の拳が流れるように腰へと引かれる。


「——右中段突き!!」


UIは沈黙した。だが消えなかった。

柔らかくも硬い、奇妙な手応えを残したまま、宙に浮いている。


《警告! 強い衝撃を検知。聖典システムが正しく動作しない可能性があります》


「なんてことだ……神よ!これがお前の言っていた困難というわけか!」


だが、剛心はすぐに次なる手を講じた。


呼吸を整え、腰を落とし、丹田に気を込める。


「ならば——これはどうだ!!」


彼の膝が高く上がり、渾身の前蹴りが炸裂する。


ゴシャッ。


瞬間、足から脊髄を駆け上がるような震えが走った。

それは、理想的な破壊対象と出会った者にしか訪れぬ恍惚である。


UIが弾けた。破片ではない。光と粒子に還元され、風に乗って消えていく。


「ふぅ……いいじゃないか、異世界」


剛心は満足げに空を見上げた。


その頬を撫でる風が、確かに心地よい。


「これでようやく……この世界でも安心だ」


拳に宿る理と責任を再確認しながら、東雲剛心は、再び歩き出した。


──次なる困難を、その拳で迎え撃つために。



遠く、風の合間に微かな声が混じった。


「ちょっと……使徒様ーっ!」


その声を追うように、場違いな足音が丘に鳴り響く。

石畳ではなく、土と草の起伏ある山道。にもかかわらず、その音は“コツコツ”と妙に整っていた。

ヒールである。高く、硬く、鋭く、転倒寸前の勢いで鳴らされていた。


剛心は振り返り、目を細めた。


「あいつは……?」


風を切って駆け寄る少女。息を切らしながら、裾を翻し、顔を赤らめた金髪の令嬢が、ようやく追いつく。


「もう胸の病気は大丈夫か? あと、名乗っていなかったな。俺は東雲剛心だ」


問われた彼女は一瞬きょとんとし、それから硬く口元を引き締めた。


「リ、リゼリア……ですわ」


その声音には、ほんのわずかに震えがあった。だが誇り高き名を口にすることに、ためらいはなかった。


「……なんで、こんな……山道にいらっしゃるのかしら?」


剛心は険しい山容を見上げ、神妙に頷いた。


「いい質問だ。まず、地形が不安定だ。道場のような平坦な床は無い。これは体軸の訓練に最適だ」


「いえ、そうではなくて……」


「なるほど。お前、なかなか分かっているな」


真顔で返すその語調は、褒めている。しかし、内容はまったく噛み合っていない。


「その通りだ。あくまでそれらは副産物に過ぎない。自然の中で一切の情報を遮断し、己と対話する。そうすると何が起きるか……」


「違いますわ!!」


リゼリアが叫ぶように割って入る。もはや耐えきれぬという様子である。


「そうではなく! なぜ冒険者ギルドで登録をしないのか!? ということですの!!」


「まずはそこから始めないと! “聖典”にも、ちゃんと書いてあったはずですわ!」


「聖典?」


剛心は眉をひそめる。すると彼女は、どこか誇らしげに、まっすぐな目で語った。


「そうですわ。宙に浮き、青白く淡い光を放つ、神秘的な書物。それが“聖典”ですの」


その響きはあまりに神聖であり、剛心は一瞬たじろいだ。


「……一つ、聞いてもいいか。それは……ステータスとやらに、個人情報が記載されていたりするのか?」


「えぇ! その通りですわ! 現状を知り、己の現在地を知るもの。それが聖典!」


剛心は、数秒の沈黙を置いた。


「ちなみに……修理……いや、サポート窓口はどこにある?」


「さぽーと……まどぐち? ああ、神殿のことかしら?」


「安心してよくってよ。聖典が道を指し示しますわ。世界の人々を、良い方向に、幸福へと導く、神からの贈り物ですのよ」


その瞬間。剛心の肩が、僅かに動いた。


「……幸福へ、導く?」


「え、えぇ……そう……ですが?」


リゼリアの言葉は、徐々に細くなる。


「……悪いが、聖典は破壊した」


静かに、しかし確固たる意志をこめて、剛心は言った。リゼリアの瞳が大きく見開かれる。


「な……なんですって!!?」


「幸福は与えられるものなのか?」


一拍の間が、丘を満たす。


「その幸福は……ぬるま湯じゃないのか?」


「それよりも俺は──困難を。試練を。自分を超えた、燃えたぎるような炉、生きた情熱の中に居たい!」


その言葉は、熱をもって風に溶けた。リゼリアは何かを返そうとしたが、うまく言葉が出ない。


「……でっ……ですが……ギルド……!」


彼女は戸惑う。だが、否定できない何かが胸を揺らしていた。

この男は、明らかに異物だ。だが、否定しきれない強さが、確かにそこにある。


「では、俺は山に籠る。わざわざ追ってきてくれて悪かったな」


剛心は、まるで道場の畳を踏むかのように、静かに地を踏みしめ、再び山へ向かって歩き出す。


「……指示に従ってギルドに行かないと! きっと悪いことが起こりますわ!」


「それこそ、俺の望みだ!」


リゼリアの表情が曇る。その唇から、震える声が漏れた。

「ギルドの登録がない者には、クエストも与えらない……

報告が遅れて……もし大量のゴーレムが市街地にいけば……

一体誰が、彼らを救えば……」


その瞬間。


剛心の歩みが、ぴたりと止まった。


「ゴーレム……?」


「ま、魔物ですわ……」


「それは硬いのか? それとも分厚いのか?」


「えっ……両方ですわ……?」


次の瞬間——


「行くぞ、リゼリア! ギルドとやらに!!」


剛心の声が響いた。リゼリアがきょとんとする暇もなく。


「案内してくれ!!」


剛心は、信じられぬほど軽やかに、スキップで丘を駆け下り始めた。


跳ねた。

しかも、きれいな弧を描いて跳ねた。


リゼリアはその場に呆然と立ち尽くした。


「……な、なに……この人……」


「なぜ……今、跳ねる必要が……?」


午後の陽光が、丘陵の草をやさしく照らしていた。

まだ何も起きていない。だが——世界は確かに、動き始めていた。



一方その頃、閉ざされた石の扉のさらに奥。

古より稼働し続ける機構が、異端の侵入者に応じ、静かに演算を始めた。


そこでは、一機の巨大な端末が無音のまま稼働していた。

それは呼吸の代わりに光を点滅させ、心臓の鼓動の代わりにプロセスを走らせている。


突然、画面に乱れた表示が現れた。



OutputException: unable to render directive response

 ── 聖典が出力指示の応答に失敗しました


SystemRebootFailure: process termination incomplete

 ── 聖典の再起動に失敗、プロセスが終了しきれていません


RestructureInitiated: fallback schema engaged

 ── 聖典の再構成を開始、代替スキーマを適用中


UserPenaltyAssigned: Entity ‘東雲 剛心’ flagged [Class-C Disruptor]

 ── ユーザー『東雲 剛心』にペナルティを付与:クラスC妨害因子として識別されました



それは神ではない。

だが、神に代わってこの世界を制御する存在。


“聖典”。

人智の及ばぬその意識は、ただ静かに──しかし確実に、剛心という異物を敵と定義した。


——そのとき、この世界に、ほんのわずかな“軋み”が生じた。


名もなき異物。

だが、その拳が触れるたび、常識が音を立てて崩れていく。


“妨害因子・東雲剛心”——それは、この世界の再定義の始まりだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
script?guid=on
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ