間合いがなくても、心は届く
朝。
空は雲ひとつなく晴れ渡り、どこまでも蒼く澄んでいた。
肌を撫でる風は冷たく、だが、不思議と心地よい静謐を運んでくる。
道場の門前に、剛心が立っていた。肩にかけた荷は少なく、背筋はいつもどおり凛としていた。
門下生たちはその背を囲むように集まり、それぞれに言葉を探していた。
「……シンの伝えてくれたこと、俺たちが……受け継ぐから……」
エンケが、拳を握り締めながら、涙を堪えて言った。
「安心して……行ってきて」
「おで、本当に楽しかった……」
ウスゲーは、少し口ごもりながら、それでも笑顔を浮かべて言った。
「おで、ばかだから上手く言えないけど……ほんとに……ありがとう」
「……あっしは、本当は、ずっと一緒にいたい……」
ハーゲンは目を逸らしながら、言葉を絞り出すように吐き出す。
「けど……ダメなんだよな……だから……だから……がん……ばって……くれ……」
最後の言葉とともに、堪えていた涙が、ぽろぽろと音もなくこぼれ落ちた。
剛心は静かに三人の肩を抱いた。
「……ありがとう」
それだけを、深く、丁寧に。
そのとき、優希が静かに現れた。手には小さな花束。白い星形の花が、朝の風にそよいでいた。
「剛心さん、これ……高山にしか咲かない花なんです」
優希は少し照れくさそうに言った。
「花言葉は、“勇気”と“高潔な心”……」
「……ありがとう」
剛心はそっと受け取り、その花を胸に抱いた。
一瞬、場に静けさが戻る。
「リゼ……遅いな……」
エンケがぽつりと呟いた、その時だった。
そのときだった。
朝の静謐を切り裂くように、街の方角から乾いた足音が響いた。
一同が振り返ると、遠くにひとつの影が見えた。
「待ってくださいっ!!」
声が風を裂く。
息を荒げ、額に汗を滲ませながら、リゼリアが大きなリュックを背負って駆けてきた。
ドレスではない。戦装束でもない。
ただの動きやすい、旅の装い。
「私も、行きますわ!!」
剛心の前に辿り着くや否や、リゼリアはまっすぐに叫んだ。
瞳には迷いがなく、むしろ眩しさすら帯びていた。
剛心は一瞬だけ、目を見開いた。
それは、この世界の誰よりも強く、そして誰よりも“合理的”である彼が、思わず感情を揺らすほどの意志だった。
「いいのか?」
彼は静かに問いかけた。
「お前の地位も、名誉もなくなる。もしかしたらキュ力すら……使えないかもしれんぞ」
それは、決して脅しではなかった。
現実的な、冷静なる確認である。
だが、リゼリアは一歩も退かず、ただ剛心を見つめ、力強く頷いた。
「何もいりませんわ!」
その声は、朝日を裂くように高らかだった。
「私は──困難を、苦難を、災難を望みます!!」
彼女は叫んだのではない。
宣言したのだ。
かつて“選ばれた者”として生きていた彼女が、今ここに、“選び取る者”として立った。
そして、微笑んだ。
リゼリアの声は、まるで誓いの鐘のように澄んでいた。
「それに……あなたを、また独りになんかさせませんわ」
その言葉に、剛心はゆるやかに目を伏せた。
思考の刃を研ぐような沈黙ののち、彼は小さく、しかし確かに頷いた。
「……リゼ……」
呼吸するように、その名を口にする。
その声音には、師としての峻厳でも、武道家としての威圧でもなく、ただ、ひとりの人間としてのぬくもりがあった。
「……わかった。一緒に行こう」
そして、わずかに頬を紅潮させながら、視線を逸らすように小声で告げた。
「……ありがとう」
剛心が感謝を口にするなど、誰が想像しただろうか。
それは、断崖に咲いた一輪の花のように、不意に、だが美しく咲いた瞬間だった。
その空気を、ハーゲンが呆れ顔で突き崩す。
「ったく……妬けるってことで」
しんと張り詰めていた空気が弾け、仲間たちの間に一斉に笑いが広がる。
それは、別れを惜しむための涙よりも、よほど剛心らしい幕引きであった。
剛心は静かに皆を見渡し、最後に、彼らの魂を震わせるように言葉を放った。
「みんな……離れ離れになる。
だが……“俺たちの戦いは、これから”だ!!」
その言葉に、エンケは思わず感嘆の息を漏らし、懐から小さな手帳を取り出して記録を始めた。
「“俺たちの戦いは……これから”……
いい言葉だ……」
異世界において“サブカルチャー”という概念はない、それでも彼の中には、何かが届いたようである。
一方、優希は柔らかな微笑みを浮かべたまま、控えめに呟いた。
「……何か違う気がしますが……でも、そうですよね。
それで、いいんですよね」
──そして。
振り返った剛心が、軽く手を挙げて言った。
「じゃ、行ってくる」
その声に、全員が声を揃えて叫んだ。
「行ってらっしゃい!!!」
陽の光が眩しく照らす中、
二人の背中は、徐々にゲートの向こうへと小さくなっていった。
そして、誰にも見えぬその先に──
まだ知らぬ“現実”という名の、新たな異世界が広がっていた。
それは、天も地も曖昧に溶け合う、光と静寂の支配する空間であった。
淡く光る石の床は、一切の塵を許さぬ厳粛さを湛え、足を踏み入れるたびに、まるで永遠に刻まれる鐘のような響きを発した。
そこを歩むのは、異界より帰還した二つの影。東雲剛心と、リゼリア・フォン・グリューエンリア。
その先。
玉座に凭れかかるようにして一柱の存在がいた。白銀の衣をまとい、老いた瞳に万象を映す──かの“神”である。
その神は、実にだらしない格好で頬杖をつき、目を細めた。
「……もう帰ってきたのか?」
まるで、どこかの定食屋の常連がうっかり早く来すぎたかのような、気の抜けた声音である。
だが、確かにその声は世界を紡いだ力の主であった。
「どうじゃった、お前の望んだ“困難”は?」
問いに、剛心は迷いなく頷いた。声音は凛として、心の芯にまで届くような確かさを孕んでいた。
「あぁ。素晴らしい仲間に恵まれた。最高の困難だったよ」
隣のリゼリアが、怪訝そうに身を乗り出す。
「シン、この方は……?」
「神、らしい」
言葉の軽さに反して、その内容はあまりにも重い。
リゼリアの背筋が凍り、瞬時に膝をついた。
「神様……! これはこれは、失礼を……」
神は、その様子を興味なさげに一瞥した後、ゆるやかに顎を撫でる。
「ふむ……リゼリア・フォン・グリューエンリアか。
異世界から異世界への渡航……まぁ、いいじゃろ。既にこの世界もバグだらけじゃ」
だが、その瞬間、剛心は一歩前へと出た。
「聖典は、悪いが……修正させてもらった」
神はその言葉に眉ひとつ動かさぬまま、あくび混じりに言った。
「好きにすればよい。どうせ……同じじゃ」
「……どういうことだ?」
剛心の眉間に、深く皺が刻まれる。
「よくあることじゃ。
お前の世界でも、“神殺し”や“超人”を気取って、既存の価値観を壊した者たちがいた。
だが数百年もすれば、また別の“神もどき”が生まれる。
そして人はまたすがる。同じことの繰り返しじゃよ。滑稽なほどにな」
剛心は、拳を静かに握り締めた。
それは怒りではない。希望という名の火種を灯し続ける者の拳である。
「そうかもしれん。だが、“意思”は継がれる。
壊す者がいて、築く者がいて……
価値は受け継がれ、育まれ、時代を超えて進化する」
その言葉に、神はわずかに目を細めた。
まるで久方ぶりに、予想外の棋譜を見せられた老将のような顔である。
「……そういうもんかの?」
剛心はもう一歩、神へと近づいた。
静謐な空間に、その足音はやけに重く響く。
「最後に一つ……聞いてもいいか?」
「なんじゃ?」
「“聖典”を管理しているのは……あなたで間違いないか?」
神は堂々と頷いた。その仕草は、まるで古本市のセールを自慢する老人のように満足げだった。
「そうじゃ。“最大多数の最大幸福”……実にいい仕組みじゃろ。
効率的、合理的、間違いのない設計じゃ」
だが次の瞬間。剛心の声音が、地の底を撫でるように低くなる。
「……聖典は、致命的な間違いを犯しているぞ」
風が止まり、空気が凍った。
神の眼差しが、一変する。
それはもはや面倒くさがりの老神ではなく──
万象を制御する存在そのものの、真の“まなざし”であった。
次なる言葉が交わされたとき、
この世界の仕組みは、再び音を立てて変わり始める。
闇が、突如として立ち昇った。
それは太古の怒りが眠りより目覚めたような、重々しく、圧し掛かるような威圧であった。
玉座に凭れかかっていた神の姿勢がわずかに正され、その瞳が──まるで世界そのものの光源であるかのように──蒼白く輝いた。
「……間違い? わしが?」
ただの問いであった。
しかし、それを聞いた瞬間、空間に漂う空気は凍り、石の床が軋みを上げる。
威光は刃となり、あらゆる命を削る“神の圧”へと変貌していた。
「言葉には気をつけろよ……
それが“最後の言葉”になるやもしれんぞ?」
世界が沈黙した。
空間が黙した。
リゼリアが息を呑み、ポータルの光が一瞬だけ明滅する。
だが、東雲剛心はただ一歩、神へと進み出た。
拳を固め、武道家としての凛然たる姿勢を崩さぬまま──
彼は言った。
「セキュリティだ!!!!」
……静寂。
万象の支配者たる神が、眉をひそめる。
「……は?」
それは“神”にとって、想定外の“脅威”だった。
剛心は止まらない。
むしろここからが本題だとばかりに──一気に畳みかける。
「あんなにセンシティブな情報を扱っていながら、
初期パスワードが“admin/admin”のままだったんだぞ!?
ログイン試行制限もなし、ログも未保存、認証は平文送信!?」
彼の声が高まるごとに、空間の威圧はなぜか減衰していく。
「脆弱性の塊だ!! 一人情シスかお前は!?
このままだと悪意あるAIクローラーにシステムを乗っ取られても文句は言えん!!」
神の神々しき光が、微妙に陰る。
剛心は全力で言い切った。
「ログ! 認証! 暗号化! 全てがなってない!!
“情報セキュリティマネジメント”の概念が機能していないッ!!!」
沈黙。
今度の沈黙は、先ほどまでとは質を異にしていた。
あまりに“異質”な怒り。
あまりに“現実的”な問題提起。
神性の空間に、突如として現れたIPA(情報処理推進機構)の亡霊。
剛心は静かに指を伸ばし、玉座の上の神を正面から指し示した。
「まずは国家試験“情報セキュリティマネジメント”を取得しろ。
試験時間は120分、四択形式だ。範囲は広いが、午前と午後で傾向が──」
「……ようわからんが……考えておくわい……」
神は、明らかに疲れていた。
かつての威光はすっかり陰り、まるでIT研修に出された新人上司のような顔である。
「……もう帰れ。うるさい」
そう呟いた神が手を振ると、ふたたび白光のポータルが現れる。
剛心とリゼリアは、無言で一礼した後、ゆっくりと歩を進める。
──そして。
「……まったく、人間は……ようわからんわ」
そう、神はぼそりとこぼした。
この言葉が、神の本音であったのか、
あるいは彼なりの“敗北宣言”であったのか──
それを知る者は、もういない。
白き光が空間を満たす。
物語は、静かに幕を引いた。
──ただし、ログインパスワードは必ず変更しておくこと。
それだけは、忘れてはならない。
その日、空は異様なほどに澄み渡っていた。
雲ひとつない青空から降り注ぐ朝の光は、磨き上げられた木の梁を金色に染め、畳の縁に優しく影を落とす。
その空間に、澄んだ声が響いていた。
「押忍!!」
少年少女たちの声である。
幼き手が、拙くも真剣に構えられ、細き腕に不格好な気合が漲っている。
中央に立つ男は、齢三十を過ぎたあたりの、筋骨たくましい人物であった。
その頭は、隠すものも飾るものもない、見事な丸坊主。
だが、その瞳は穏やかであり、声には深い慈愛があった。
「よし、今日は──中段突きの練習だ」
男の名は、東雲剛心。
かつて異界にて“間合い”を失いながらも、自らの拳を信じ続けた武道家である。
彼の隣には、一人の女性が立っていた。
長い金髪を結い上げ、胸元を優しく撫でる風に目を細めながら。
腹部はふっくらと丸く、命を宿す母の気配がそこにあった。
彼女の名は、リゼリア・フォン・グリューエンリア。
この世界でも“伝説の縦ロール”として知られる──が、今やその髪は、柔らかにほどけている。
子供たちの気配に、剛心は膝を落とし、構えた。
低く、安定した前屈立ち。
拳を腰に、背筋をまっすぐに。
「この中段突きは、基本であり……そして極意だ」
言葉に、無駄はない。だが響く。
彼は拳をゆっくりと掲げた。
その動作に、一瞬、光が集う。
「この拳に──“キュ力”を乗せる!!」
……静寂。
一同の目が、剛心の拳に集まった。
「きゅ……りょく?」
子供の一人が、小首を傾げた。
武道と科学と迷信とが渾然一体となったこの道場では、たびたびこうした“語彙の衝突”が発生する。
リゼリアは、ふふ、と微笑み、柔らかな声で言った。
「“キューティクル”の力ですわ」
その瞬間だった。
剛心の拳が、わずかに輝いた。
物理法則の範囲内──ぎりぎりのラインで──確かに、輝いたのだ。
そして──中段突き。
バァンッ!!!
道場の端に設置されていたサンドバッグが、まるで精霊にでも突き飛ばされたかのように、音を立てて揺れた。
子供たちは目を丸くする。
「す……すごい!!」
「師範って……マジシャンだったんだね!!」
剛心は、一拍置いてから、ふっと笑った。
「違う。俺は──武道家だ」
その背に、陽が射した。
長い旅路の果て、異界より帰還した彼は、今ここにいる。
誰もが笑える場所に──間合いのない、しかし心が通じるこの道場に。
剛心はゆっくりと歩き出す。
そして、門の手前で振り返った。
「……“間合いが取れない”武道家だ」
声は静かだった。だが、その言葉の奥には、すべての記憶と意思とを乗せた力があった。
子供たちの笑い声が弾ける。
リゼリアの微笑が、朝の光を受けて美しく輝く。
外では風が吹き、桜の花びらがわずかに舞った。
それは、新たなる始まりの合図だった。
──終わり、そして始まり。
間合いの取れぬ世界にて、今日もまた、稽古は続いている。




