やはり誰もパスワードを変えなかった
朝靄の残る道場に、静けさが戻っていた。
夜の戦火が嘘のように、空は澄みわたり、障子越しに差し込む光が、畳を柔らかく照らしていた。
小鳥のさえずりが、耳に心地よいリズムを刻む。
その中で、優希は一人、掃除用のほうきを手にしていた。畳の目に沿って、丁寧に、丁寧に。まるでその一本一本が、彼自身の新たな人生を撫でるように。
「早いな、優希」
背後からかけられた声に、彼は手を止めて振り返った。
そこには、いつもと変わらぬ佇まいで立つ剛心の姿。
「えぇ……」
優希は穏やかにうなずくと、ほうきを立てかけた。
「今日から、花屋の開店に向けて準備しようと思って」
その言葉には、確かに小さな決意が宿っていた。
剛心は、頷いた。
「そうか。やっと――やりたいことが見つかったんだな」
だがその瞬間、優希の顔に、わずかな陰が射す。
「でも……ちょっとだけ怖いんです。聖典に頼らず、これから本当にうまくやっていけるのか……」
その言葉に、剛心の足が止まった。
静かに向き直る。表情は柔らかく、だがその眼差しは、真っ直ぐに。
「怖いのは、悪いことじゃない」
優希は目を瞬かせる。
「えっ……?」
「怖いってのはな、成長してる証拠だ。
成功を求めるな。——“成長”を楽しめ。……その方が、強くなれる」
その声には、剛心が歩んできた無数の困難がにじんでいた。
それを、優希は静かに受け取った。
そして、ふっと目を細め、少し笑った。
「……やっぱり剛心さんは強いな」
一拍置き、深く、力強く頷く。
「分かりました。僕、頑張ります。――みんなが笑顔になれるような、そんな場所を作ってみせます!」
そう言って、彼は駆け出すように去っていった。
朝日が差すその背中は、まるで春の光そのもののように明るかった。
剛心はしばし、その背を見送っていた。
そして、ふとつぶやくように呟いた。
「俺もだな……」
──誰かの夢を応援しながら、自分の“道”もまた、歩き出していた。
街は、穏やかな陽の光に包まれていた。
石畳の通りを行き交う人々の顔には、かつてのような不安の影はなく、自然な笑顔が揺れている。
人々の暮らしの中に、確かに変化はあった。
だが、それは混乱や騒動を巻き起こすようなものではなかった。
ある日、誰も気づかぬうちに“聖典の仕様”が変わっていた。ただ、それだけのことだ。
誰が、なぜ、それを為したのか──国の中枢さえも答えを持たなかった。
聖典の使用をやめる者もいれば、従い続ける者もいた。
「どちらが正しいのか」など、果たして意味があるのかと議論は続いたが──
それでも人々は、次第にその新しい日常へと、歩を進めていった。
* * *
道場。
汗に濡れた額をぬぐいながら、門下生たちが黙々と鍛錬に励んでいる。
飛び交う掛け声は力強く、だがどこか温かい。型を修める者もいれば、黙想に沈む者もいる。
武の道は、一つにあらず──その思想が、今や自然に共有されていた。
夕方、門を開けて現れたのは、花束を手にした優希だった。
小さく売れ残りのタグがついた花を、彼は道場の中央に立つ剛心にそっと差し出す。
「今日は、この子です」
剛心は無言でそれを受け取ると、静かに柱に結びつけた。
どこか誇らしげに、そこに花が咲いた。稽古場にあって、不思議と違和感はなかった。
庭では、かつて奴隷だった青年が、幼い子どもとじゃれ合っている。
くすぐり、転げ、笑い声が響き──それに応じるように、他の弟子たちも微笑む。
そして、道場の入口。
そこに掲げられた木製の看板には、堂々とこう記されていた。
「キュ力・不問」
高潔さも、輝きも、魔力もいらない。
ここではただ、己の拳と、心だけが問われる。
少し離れた場所から、剛心はその光景を見つめていた。
何も言わず、何も求めず、ただじっと。
人々が笑っている。
それが、奇跡でも啓示でもなく、ただ“当たり前”としてそこにあることが──
彼には、何よりも尊く、そして少しだけ、遠かった。
風が吹く。
剛心の道着の袖が揺れた。
それは、静かで穏やかな、何気ない一日の終わりだった。
道場の縁側に、一人佇む男がいた。
東雲剛心。夕暮れの光に照らされたその横顔は、どこか遠い空を見つめている。
虫の声がかすかに聞こえ、時間だけが静かに流れていた。
その瞳の奥に浮かぶのは、迷いか、あるいは決意か。
──皆が、それぞれの“道”を見つけて進んでいる。
それは、喜ばしいことのはずだった。
だが、なぜか、剛心だけが、空白を抱えていた。
誰よりも傍にいながら、誰よりも立ち止まっているような錯覚。
考え事をする時間が、増えていった。
* * *
夜の道場。焚き火の灯りが、暗闇にゆらゆらと揺れていた。
火を囲む輪の中、皆が笑い合い、手にした箸で食事をつついている。
その光景は温かく、平和で、何もかもが“今ここ”にあるように見えた。
──だが、輪の中心にいた剛心の箸だけが、静かに止まっていた。
気づいたのはリゼリアだった。
そっと身を乗り出し、声をかける。
「最近、どうしたのですか、シン。何だか……元気がないですわよ」
焚き火の炎を見つめたまま、剛心は小さく頷く。
その口から、ゆっくりと、言葉が零れた。
「……みんなに、聞いてほしいことがある」
場の空気が、わずかに張り詰める。
冗談ではないと、誰もが悟った。
「俺は……今までずっと、独りだった」
「“友”と呼べる存在が……いなかったんだ」
その言葉は、静かに、だが確実に響いた。
「初めは違った。幼馴染も、仲間もいた。けど──」
「ある時から、みんな俺に敬語を使い出すようになる」
ぱちり。焚き火が爆ぜた音が、夜に染み込む。
「空手、柔道、古武術……何をやっても、勝ってしまった」
「勝ちすぎて、皆、俺から離れていった。怖がられて……憧れられて……そのどちらも、距離を生んだ」
誰も、言葉を挟まない。
ただ、剛心の声だけが、ゆっくりと焚き火の上に降り積もっていく。
「――そんな俺と、誰も拳を重ねてくれなかった」
火が、またひとつ、小さく跳ねた。
それはあまりに切実で、あまりに剛心らしい告白だった。
「だから俺は、山にこもった。独りで修行して……
強くなることしか、俺には道がなかったんだ」
長い沈黙ののち、優希がそっと声をかけた。
「剛心さん……」
その一言が、張りつめていた空気をわずかに解いた。
剛心は、微かに笑ったような顔で、火を見つめたまま続ける。
「でもな、この世界に来て、変わった」
「“シン”って、あだ名で呼んでもらった。稽古をして、笑って、怒って……でも、誰も俺を“孤独な強者”に戻そうとしなかった」
「みんなが、俺と“向き合って”くれた。逃げずに……まっすぐに」
その言葉に、リゼリアの手がわずかに震える。
クロも耳をぴんと立て、じっと見つめている。
「だから俺は……この世界が好きだ」
「みんなが、大好きだ」
そして、剛心は言った。
「だけど……だから……俺は……元の世界に帰ろうと思う」
焚き火の揺らぎが、一瞬止まったかのようだった。
リゼリアが、ぽつりと、言葉を漏らす。
「えっ……?」
信じられないというより、言葉が追いつかない──そんな声音だった。
沈黙の中で、焚き火だけが、変わらず燃えていた。
焚き火のゆらめきが夜を裂くなか、
その“影”から――クロが、ぬるりと現れた。
「……あるにゃ」
誰もが言葉を失う中、その声は意外にも静かだった。
「聖典には、“ログアウト機能”があるにゃ」
リゼリアが小さく息を呑む。
その瞳には、祈りにも似た焦燥が浮かんでいた。
「……ッ」
クロは珍しく真面目な顔をして、細めた目で剛心を見つめる。
「でも、セキュリティはかなり厳重にゃ。そう簡単には……」
そのとき、剛心が火を越えてクロに歩み寄り、静かに問うた。
「……どうするんだ?」
その瞬間。
クロの瞳が淡く光り、声色が変化する。冷たく、機械的に。
「聖典復旧対象──東雲剛心、クラス“null”。
簡易スキーマー割り当て。強制実行──」
焚き火の明かりの中、剛心の目の前に光の粒子が集まり、
ゆっくりと“聖典”の形をなしていく。
火の音が、ひときわ大きく夜に響いた。
* * *
「左上を拡大してみるにゃ」
クロの言葉に、剛心は画面をそっと指でなぞる。
「こうか……?」
光の板のようなUIがズームインされていくが、何も表示されない。
「……何もないぞ?」
剛心が眉をひそめたとき、クロはぐっと顔を寄せた。
「もっとにゃ。目を凝らすにゃ」
さらにピンチイン。光が歪む。
剛心が息を呑む。
「こ……これは……!」
聖典の右隅に、わずか数ピクセル分の文字が浮かび上がった。
『ログアウトはこちら』
「……だと?」
剛心がその文字をそっとタップすると、
画面にIDとパスワードの入力フォームが現れた。
クロは神妙な面持ちで言う。
「ここからが問題にゃ。
管理者権限の認証が必要にゃ。つまり、セキュリティのラスボスにゃ」
剛心は、不敵に笑った。
「……組み合わせは無限か。
いいさ──何年、何十年かかっても解いてみせる」
その覚悟の言葉に、場が重く、静まりかけた……そのときだった。
「すいません……」
優希が小声で手を挙げた。
「なんかこれ、前に見たことある気がするんですけど……」
剛心は、すでに画面に指を走らせていた。
「まずは……これで試してみよう」
数秒の沈黙。
そして――手が止まった。
「……突破した」
クロの瞳が見開かれる。
「にゃあ!? なんでそんな簡単に!?
何を入れたのにゃ!?」
剛心は表情を曇らせ、ゆっくりと呟いた。
「……IDはadmin。PWもadminだ……」
──沈黙。
優希は両手で頭を抱え、絶叫する。
「やっぱりかぁぁぁぁぁぁぁ!!」
次の瞬間、剛心が怒りを爆発させる。
「どうなってるんだこの世界のセキュリティは!?
センシティブな情報を扱ってるのに初期設定のままとは!!」
言葉は滝のように溢れ出す。
「まさか……この世界の情シス、一人だったのか!?
マネジメントは!? コンティンジェンシープランは!?
誰かヘッドカウントの試算くらいしておけッ!!」
地鳴りのような轟音が、大地の奥底から鳴り響いた。
──ゴウウウウウ……!
空間がひび割れ、まるで次元そのものが剥がれ落ちるかのように、
夜空に眩い光の“門”が現れる。
それは、あまりにも静謐で、どこか神々しさすら漂わせていた。
クロはしっぽをピンと立て、瞳を細める。
「……ログアウトゲート、開いたにゃ……」
誰もが声を失ったまま、その光を見つめた。
焚き火の火がパチパチと音を立て、明と暗がゆらぎながら彼らの表情を照らしていた。
リゼリアは、何も言わず、うつむいたまま。
その金の縦ロールが、微かに震えている。
「……」
そんな彼女の横で、剛心が勢いよく立ち上がる。
「よし、行くか!」
その一言が、まるで場の空気を決定づけるように響いた――が。
「ちょっと待ってくれ!」
突如、ハーゲンが手を上げて声を張った。
「お、おい……」
エンケが制止しようと小声を漏らすが、
ハーゲンはまっすぐに剛心を見据えたまま、揺るがなかった。
「違げぇよ。
最後の夜なんだ……。
帰るのは明日の朝にして、今夜は……みんなで騒いだっていいんじゃねぇか?」
──焚き火の炎が、ひときわ高く揺れる。
静寂の後。
剛心はふっと目を細めて、笑った。
「……そうだな」
そして、皆に向き直り、高らかに言い放った。
「みんな! 今日は騒ごう!!」
ぱっと顔を上げる仲間たち。
「倉庫の酒も全部出せ! 一番高いやつからだ!!」
「おおおおっっ!!」
歓声が夜空に弾ける。
それはどこか、寂しさと嬉しさの交じり合った、不思議な音色だった。
「にゃーっ!!飲むにゃーっ!!」
クロも尻尾を振りながら跳ね回る。
喧騒が夜を染めていく中──
リゼリアは、そっと立ち上がった。
誰にともなく、しかし確かに何かを伝えるように、静かに呟く。
「ちょっと……夜風に当たってきますわ……」
その背中は、誰よりも尊く、そして、寂しげだった。
夜の道場から離れた、小さな丘の上。
そこにひとつの影が佇んでいた。
星が、言葉もなく瞬いている。
月光が草を淡く照らし、丘の上のシルエット──リゼリアの姿を、静かに浮かび上がらせていた。
彼女の耳には、まだ微かに聞こえていた。
道場の方から風に運ばれてくる、仲間たちの笑い声。
酒と笑顔と、別れの夜の喧騒。
それが、かえって胸を締めつけた。
(……シンが、帰る……)
心の内に呟いたその一言が、波紋のように広がっていく。
目元に、ぬるい感触。
「ダメですわ、わたくしが……そんな……泣いてしまったら……」
「シンが……行けなく、なって……しまいますわ……」
そう言葉にした途端、理性の堤が音を立てて崩れた。
「いや……いやですわ……
シンがいなくなるのは……いや……
でも……とめちゃだめ……
だって……だって……シンなら……どうするの……?」
言葉は涙に呑まれ、嗚咽にかき消されていく。
縦ロールの髪が、夜風に乱れて揺れる。
星の明かりさえ霞むほど、目の前が滲んでいた。
だが、沈黙は永遠には続かなかった。
リゼリアは、震える指先でそっと涙をぬぐい、
もう一度、空を見上げた。
夜空には、ただ、月と星とが変わらず瞬いていた。
「……そうですわね。
シンなら──」
その声には、先ほどまでのかすれはなかった。
「迷ったときこそ、前に進む」
その一言が、彼女の背中をまっすぐにした。
遠く、道場の宴はなおも続いている。
仲間たちの声が、夜空の下ににじんでいく。
リゼリアはひとつ深く息を吸い込むと、
その声を背に、そっと歩き出した。
──まるで、“自分の意志”という道を、今ようやく見出したかのように。




