伝説の始まりと終わり
戦いが、終わった。
そしてその瞬間──すべてが、爆ぜた。
ケルベロスの最後の首が砕け落ちるや否や、空気が弾ける。
焼け焦げた残滓の中に、静寂の代わりに歓声が満ちていく。
「──やったあぁぁぁッ!!!」
エンケが、吠えるように叫んだ。血に濡れた顔が、笑っていた。
「シン、やりましたわ! 本当に……本当に!!」
リゼリアが、涙まじりに駆け寄る。崩れかけた膝を引きずってでも、彼のもとへ。
優希はその場に崩れ落ち、拳を握って叫んだ。
「勝った……! 終わったんだ……!」
クロが、目をまん丸にして震える。
「にゃ、にゃにゃにゃ、にゃんということにゃ……! こ、こんな結末、ほんとにあるのかにゃ……!」
ウスゲーは瓦礫に背を預け、陽だまりのような笑みを浮かべた。
「ふは……っ、やっぱり……シンだ……ほんとうに、すごい……」
そして、血塗れの床に横たわるハーゲンが、ゆっくりと目を開いた。
「……はっ……当然だろ……“シン”だぜ……?」
彼らは笑い、泣き、叫んだ。
崩れ落ちる天井の破片すら、今はただの花吹雪のように見えた。
全員の視線が──剛心に向けられる。
勝者の中心。静かに佇み、右拳を下ろした剛心は、ただまっすぐに前を向いていた。
その姿は、戦いの終わりを告げる鐘にも、
新たな始まりを告げる灯火にも見えた。
その中央で、剛心は静かに前を向いていた。
「……あとは、クロをメイン端末に接続させるだけだな」
──だが。
鈍い音が、床に転がる金属片から響いた。
破壊されたはずのケルベロスの首の一つが、赤く、微かに輝きを取り戻している。
「にゃ!? ま、まだ……!」
クロの声が裏返る。その瞬間、首の口腔ががくりと開き、内部に光が宿る。
「ッ──!!」
リゼリアが迷いなく走った。
音すら追いつけぬ速度で、一直線にケルベロスの首へ。
渾身の蹴撃が炸裂し、レーザーの発射は天井に逸れた。
ケルベロスの最後の火花が、ようやく沈黙する。
──だが、その直後。
リゼリアの腹部を、残った余熱の熱線が、貫いた。
血が舞い、道着が赤く染まる。
口元から血をこぼしながら、それでも彼女は笑った。
「……皆さん……全員、ご無事で……」
彼女はそのまま、力なく崩れ落ちた。
「リゼ!!!」
剛心の絶叫が響き渡る。
彼は駆け寄り、リゼリアを抱き上げる。
その身体は、あまりに軽く、あまりに熱かった。
「優希、治療を!! 早く!!!」
剛心の叫びに、優希は苦しげに俯いた。
「……すいません……もう、キュ力が……ないんです……」
「……嘘だろ!? 異世界なんだろここは!! なんとかなるんだろ!?」
剛心の怒声が虚空に吸い込まれる中、リゼリアが目を開ける。
声はかすれ、だが、どこまでも優しかった。
「……昔の私は……ずっと、上から見ていましたの……
皆さんのことも……この世界も……」
「誰より努力して……だから、当然だと……誇っていましたの……
でも……ようやく、気づけましたわ」
「“見下ろす場所”より……“隣に立つ”方が……ずっと、あたたかいって……
皆さんの、その一人一人の強さに……触れて……私は、ようやく……」
「シン……ありがとう……私に、“仲間”を教えてくれて……」
「もういい、喋るな……今すぐ治す……治すからな、リゼ……!」
剛心はポーションを探し、誰かに叫ぶ。
「ポーションだ!! ポーション、誰か──早くッ!!」
だが、クロが首を横に振った。
その顔に浮かぶのは、厳しさと、痛みのないまぜだった。
「……剛心。この傷じゃ……治癒は逆にリゼを苦しめるだけにゃ……」
「そんなの……そんなの関係ないだろ!! 絶対、助けるんだ……!!」
彼は叫んだ。だが、誰も答えられなかった。
すべての者が、ただ俯き、立ち尽くす。
──そのときであった。
東雲剛心の身体を、柔らかな光が包んだ。まばゆく、あまりにも静謐な輝き。
それは祝福のようであり、同時に異界の理が軋むような、不穏な気配をも孕んでいた。
「っ……!? な、なんだ……これは……」
彼の声に驚愕が混じるのも無理はなかった。
ふわりと浮かぶ幾つもの光の粒。空気中に漂い、まるで“何か”を語りかけるように、淡く、優しく煌めいている。
その中から、声が降りた。
その声は、どこか懐かしい響きを帯びていた。幼子のように柔らかく、けれど深いところで確かに響く、無垢な優しさ。
「……僕たちは……ずっと見てたんだ」
「君が、強くあろうとしたとき。迷っても、折れなかったとき──そばにいたよ」
「大丈夫だよ、剛心。今度は、僕たちが支える番だ」
それは、耳ではなく魂に語りかける声であった。
剛心は動揺を隠せず、眉をひそめて周囲を見渡した。
光は、なおも身体を包み込み、まるで内側から彼を照らしているようだった。
「おい……誰だ!? なんだ、お前らは……!」
その問いに答えるように、もうひとつの気配が近づいた。
優希である。彼の顔には驚愕が浮かび、そして即座に分析の色が走る。
「剛心さん!? この光……これは、キュ力!? しかも──とんでもなく濃密な……!?」
言葉を失い、一拍の沈黙の後、彼は呟いた。
「でも……あなたは、坊主のはずじゃ……一体、何が……」
その刹那──
低く、威厳に満ちた声が降りた。
それはまるで神託のようでありながら、内容はあまりに地上的で、理解を越えていた。
「……僕は、すね毛。剛心の足を、ずっと支えてきた」
「……僕は、胸毛。彼の誇りとともにあった」
「……僕は、脇毛。汗と共に、剛心の戦いを耐えてきた」
一瞬、空気が凍った。
仲間たちは誰ひとりとして動かず、風さえ止まったかのような静寂が訪れる。
優希がそっと頭を抱える。
「あーもう!! わけわかんないですけど! でも、このキュ力……間違いなく使えます!」
突如として現れた“体毛由来の霊的キュ力”の理不尽を一蹴し、優希は立ち上がった。
目はすでに、目の前の命を救うためにのみ向けられている。
「剛心さん! リゼリアさんの胸元に右手を当ててください! 僕の詠唱を、なぞって唱えて!」
剛心は即座に応じた。
言葉に疑念はなかった。ただ、リゼリアの命を救うために──そのためだけに、彼の掌は少女の胸にそっと添えられる。
優希と剛心──ふたりは、ひとつの祈りの形を成した。
光の粒が空間に舞い、まるで命そのものの余熱のように静かに輝いている。
優希は深く息を吸い、厳かに唱えた。
「……めぐれ、命の環──」
「いま一度、その魂を……光へと還せ」
剛心も目を閉じ、言葉をなぞる。
その声は低く、しかし岩を貫くような重さを帯びていた。
「……めぐれ、命の環──」
「いま一度、その魂を……光へと還せ」
優希がそっと囁く。
「……剛心さん。リゼリアさんの“元気だった時”を、思い浮かべてください」
剛心は深く静かに頷き、まぶたの奥へと意識を沈めた。
──彼の内に、記憶がほどけてゆく。
「リゼは……この世界に来て、初めて戦って……」
「何度も立ち上がって、時に泣きそうな顔で……」
「俺のバカな言動に、呆れてた……でも……」
「……最後はいつも、笑って、隣にいてくれた」
トゥクン──と剛心の胸が鳴る。
その音は剛心の身体の奥で、確かに反響した。
「やれやれ……あの二人、ほんとに……」
横たわったままのハーゲンが、くぐもった笑みを漏らす。
やがて、優希が両手を掲げ、声を張り上げた。
「──世界よ、聴け! 願いよ、響け……!」
「《命環の環》──発動!!!」
剛心もまた、全身を貫く決意を乗せて叫ぶ。
「──世界よ、聴け!! 願いよ、響け……!!」
「《命環の環》──発動ッ!!!」
眩い光がリゼリアの身体を包み込んだ。
傷口が音もなく塞がれ、呼吸が徐々に穏やかになっていく。
そして、閉じていた瞳の奥が──ほんのわずかに、光を取り戻した。
剛心は立っていた。
まばゆい光の衣を纏い、その姿はまるで、はるか神話の頁から抜け出したかのようであった。
ただ無言で、けれど全てを受けとめるように、リゼリアの瞳を見つめている。
──そのとき、リゼリアの記憶の深奥から、ある言葉が浮かび上がる。
(……王国の古い伝承……)
(その者、光の衣を纏いて──キュ力と人とを結び、世界の理を変える……)
彼女は、微かに息を吸い込んだ。
呼吸の中に、温もりがあった。痛みがあった。そして、生があった。
その眼差しが、剛心を捉える。
(──まさか、あなたが……)
かすかに弧を描いた唇。その笑みは、どこまでも柔らかく、安堵に満ちていた。
「……シン……」
名を呼ぶその声は、風に揺れる羽のようにか細く──それでも、全員の胸に届いた。
一瞬の静寂。そして──爆発のような歓声が響いた。
「リゼ!!!」
「やった!!」
「生きてるっ……!!」
泣き声とも歓声ともつかぬ叫びが重なり、誰かがしゃくりあげるような音がこだまする。
それは勝利の歓喜などではなかった。
それは、失われかけた“ひとりの命”の帰還に捧げられた、心からの祝福だった。
クロがぽつりと呟いた。
「……ほんとに……信じられないにゃ……」
その小さな声の震えは、誰よりも深く、この奇跡を噛み締めていた証でもある。
優希は血と汗に濡れた顔をわずかに上げ、苦笑のような微笑を浮かべた。
「……テンプレでも、ご都合主義でも……なんでもいい。助かったんです、仲間が。生きてるんですから」
その言葉は、誰の胸にも──否応なく、温かく、深く──沁みわたった。
戦いの余韻を引きずりながら、リゼリアはゆるやかに上体を起こした。
顔色はなお青白く、吐息も浅い。だが、その瞳には確かな意識の光が宿っていた。
「……水、飲めるか?」
剛心は水筒を、慎重な手つきで差し出した。
リゼリアはかすかな微笑みを浮かべ、か細い声で応じた。
「……えぇ、ありがとう……シン」
その瞬間。
空間にふわりと、柔らかな光の球体が浮かび上がる。光はきらめき、言葉を紡いだ。
「よかったね、剛心……」
それは──すね毛のキュ力であった。
続けて現れたのは、誇らしげな声を帯びた胸毛のキュ力である。
「僕たちは……ずっと待ってたんだ。君が“選ばれる瞬間”を」
最後に、脇毛のキュ力が、神託めいた囁きを落とした。
「剛心……この力で、世界の理を変えよう……」
空気が震える。
それを目の当たりにした優希は、目を潤ませ、ふるえる声で呟いた。
「すごい……とんでもないキュ力密度……!」
クロもまた、驚愕に目を細めた。
「にゃ……データベースにもこんな存在、記録されてないにゃ……」
だが、その中心にいる剛心は──静かに、真顔で応じた。
「……それより、クロ。メイン端末にアクセスできるか?」
「問題ないにゃ。ちょっとだけ、待つにゃ」
クロは、しっぽを小刻みに振動させながら、端末の前で作業を始める。
すると──すね毛が、神妙な声で告げた。
「……ついに来たね」
「そうだね。ついに……」と胸毛。
──次の瞬間。
剛心は、無言のまま、ゆっくりと胸毛に手を伸ばした。
「……」
ブチッブチッ。
音を立てて引きちぎられる胸毛のキュ力。
「えっ!?!? いや待って──」
悲鳴のような声と共に、球体はキラキラと霧散した。
「ちょっ、ちょっとシン!? 何してますの!?」
リゼリアの声は震えていた。
だが剛心は、至極まじめな表情のまま、淡々と述べる。
「……いや、キュ力には感謝してる。でも……これ、うるさくないか?」
そのまま、すね毛と脇毛にも手を伸ばし、同様に“処理”した。
「……マジで!?」「そんな終わり方……ある!?」
哀愁を帯びた声と共に、残るキュ力球体も消え去った。
その瞬間、剛心の体を包んでいた神々しい光は、静かにその輝きを失っていった。
場には、無言の静寂が広がる。
リゼリアは頭を抱え、目を泳がせながら懇願するように言った。
「ちょっと……シン……説明を……いえ、説明になってなくても構いませんから……何が起きてるのか、せめてヒントを……!」
剛心は、わずかに顎を引き、何かを熟考する仕草を見せた。そして真顔のまま口を開いた。
「いや、まずな……さっきの光。おそらくだが──ブルーライトが出ていた可能性が高い」
──時が止まった。
「ブルーライトを長時間浴びると、睡眠障害につながる。丈夫な体は、まず良い睡眠からだ。……つまりだ、俺にとってキュ力は“夜更かしの敵”だ」
「さすがシン……言っている意味は……全然わからないけど、たぶん“常に強さを求める姿勢”ってことだな」
エンケは真顔で頷き、小さな手帳に「ブルーライト=敵」と記し込んだ。
ハーゲンとウスゲーも重々しく頷く。
「なるほどな……睡眠、大事だもんな……」
優希が焦燥と共に前に出る。
「いやいやいや! 待ってください! 今の流れ! 完全に──伝説が始まる感じでしたよね!?」
「ここで主題歌とタイトルがドーンって出るタイプのやつですよ!?」
「そうですわ! 私もそう感じましたわ! それにキュ力が使えれば、もっと強く──」
剛心はそれを静かに遮った。
「いや、リゼ」
彼は自らの左胸に手を当て、神妙な面持ちで語る。
「……さっき、お前を治したとき……俺の胸から“トゥクン”って音が鳴ったの、聞こえただろ?」
「……え、ええ、確かに……」
「胸が締めつけられるように苦しくなった。たぶん心室細動の初期症状だ。……俺には、キュ力は危険すぎる」
「それは違いますっ!!」
優希は叫ぶように抗議したが──
「……な、なんだ? 何なんだ!?」
「そ、それは……言わないお約束なんです!!」
優希はなぜか顔を赤らめ、リゼリアは視線を逸らしながらも微笑んでいた。
剛心は困惑を深めながらも、ふと右脇に目をやり、淡々と口にした。
「……まぁ安心しろ。一本だけ、残しておいた」
その言葉に、全員の視線が集中する。
剛心の脇から、神々しく輝く一本の毛が──確かに残されていた。
「これで睡眠の問題は抑えられる。あとは……この力の使い方、ゆっくり考える。俺には……これだけで十分だ」
「あぁ……もうだめだ……」
優希のため息が、地下迷宮に虚しく響いた。
その響きは、どこか悟りを開いた者のように、静かで──深かった。




