拳は孤独を超えて
「……まだ、首は……もう一本ありますからね……」
だがその時──
ケルベロスの残された最後の首が、不気味な電子音を発し始めた。
「損壊データ、収集完了」
「自己修復不能、確認」
「全保護規制、破棄」
「自壊許容領域──オーバーフローに移行」
「出力制限──全解除」
「縮退炉、最大励起」
その声は、もはや“理性”ではなかった。
破壊のための機構が、制御を手放し、“死と破滅の最終段階”に入ったことを告げる。
ケルベロスの胸部装甲が展開し、中心に脈動する“黒い光核”──
高密度縮退炉が露出する。
その輝きは、燃える太陽よりも禍々しく、狂気じみた熱を周囲に放ち始めた。
クロの声が、鋭く、しかしかすれるように響く。
「だ、ダメにゃ……! コアが……暴走を始めてる……!!」
戦場に、静かなる恐怖が広がった。
だが、誰ひとりとして、退かない。
なぜなら──“まだ帰っていない”からだ。
全員で、生きて帰るために。
そのために、あと一本──
あの、最後の首を──殴り倒す必要がある。
咆哮が轟く。
ケルベロスの第三の首が天を仰ぎ、背中の魔導ラインが真紅に染まる。
熱に焼かれた空気が歪み、次の瞬間、空間そのものが軋むような衝撃が放たれた。
「──出力制限、全解除。縮退炉、最大励起状態」
「戦闘形態Ω、稼働率100%」
冷徹な機械音が、静寂を引き裂いた。
だが、それに応じる声は、もっと熱かった。
「三本目だ! ここで仕留めるッ!!」
剛心が地を蹴った。
風を斬るように、獣に向かって一直線。
拳は握りしめられ、闘志が滾っていた。
──しかし。
爪が走った。
閃光にも似た速さ。
まるで空間を刻むかのごとく、金属の刃が疾走する。
「……ッ!?」
読み切れなかった。
肩口を裂く鋭い一撃。
道着が破れ、赤が滲む。
その衝撃を受け流すように、剛心は爪を掴み、体重を滑らせて力を外へ──
合気の極意、その応用。重力と慣性を味方につけて、巨躯を弾き飛ばす。
「厄介だな……速さが段違いだ」
肩を押さえ、微かに笑った。
──それでも止まらぬ。
それでも挑む。
「なら、こっちからいくぞッ!!」
踏み込み。
風圧を置き去りにして、光の中へ躍り込む。
が──
ケルベロスの眼が閃き、空間に走る無数のレーザー。
それは壁ではなかった。
塗りつぶす。
焼き払う。
一切を拒絶する、純粋なる殺意の光。
「チッ──!」
剛心の身体がしなった。
肩を落とし、腰を引き、全身を巻き込むようにひねる。
刹那の回避。
頬を掠めた光が背後で爆発を起こす。
「……遠間ではレーザー、近間では刃物の爪か……」
「どこまでも厄介な奴だな……!」
──だが、そのとき。
光の網を破るように、もう一つの影が突っ込んできた。
「シン……独りにすんなよ!」
エンケだった。
レーザーの嵐のなか、彼は駆ける。
僅かな身のこなし。
わずか数センチのずれが生死を分ける世界。
それを、正確に、緻密に、確実にくぐり抜けていく。
閃光の間を縫い、影が踊る。
命を削るような、舞踏。
「援護しますわ……!」
リゼリアの声が響いた。
魔力が渦を巻き、詠唱が風を呼ぶ。
「風よ、歩に追いつき、背を押せ──風神の脚、今ここに展く──《疾風展脚》!」
風が、エンケの足元に絡みつく。
その軌道は跳ね、跳び、重力さえ味方につける。
「エンケ……いけるか!?」
剛心が問いかけた。
だが、返答はない。
──ただ、一瞬振り返ったエンケの顔には、笑みがあった。
そして──
彼の視界は、変わっていた。
まるですべてが分解されたかのように、明瞭だった。
閃光の軌道、瓦礫の角度、ケルベロスの足の張力、熱波の揺らぎ。
それらすべてが、音楽のように美しく、整って見えた。
「シン……大丈夫」
(……全部が、見えるんだ)
これは、感覚の覚醒ではない。
これまでに積み重ねてきたものの、結実だった。
逃げた日々も。
悔しさも。
諦めそうになった夜も。
すべてが、今──ここに還る。
「ずっとやってきた……全部が繋がって……溶け合って……」
(不思議だ……全部が、ゆっくり……見える!!!)
そして、気づいた。
これこそが──
(多分これが、シンに見えていた世界!!)
一本のレーザーが奔った。
だが身体は、意識よりも速く、自然に動いた。
最小の動作。
最短の軌道。
風が舞う。
それは、まるで“技”ではなく、“在り方”だった。
後方で、剛心がその背を見つめていた。
静かに、誇らしげに、瞳を細めながら。
「……よくぞ、ここまで来たな」
そして二人は、並び立った。
光の砲火のなか、風と拳で──最後の首に挑む者として。
「優希、俺の腕──あいつの爪を受け止められるようにできないか?」
剛心は、息を切らしながらも視線を逸らさず問うた。
右肩からは血が流れ、道着の袖を染めていた。だがその目は、戦意を失っていなかった。
優希は、蒼白な顔に汗を浮かべながらも、すぐに頷いた。
体力も、キュ力も限界だった。それでも、彼の中の“意志”は折れていなかった。
「腕だけなら……何とか……!」
その声に迷いはなかった。
彼の手が、微かに震えながら印を組む。
「古の祈りを、今こそこの拳に宿す──」
「封ぜし聖遺よ……我が仲間を護れ!」
「《聖遺の鎧》!!」
その詠唱とともに、剛心の右腕が淡く金色に輝き始める。
その光は、ただの魔力ではない。
筋繊維の一本一本を包むように“硬質な祈り”が編まれ、やがて神聖なる紋章が浮かび上がる。
まるで、神が地上に下ろした一振りの剣。
剛心はその腕を握り直し、重さと強度を確かめるように呟いた。
「……重い。だが、これなら……」
足を踏みしめる。
砂塵が舞い、彼の視線が真っ直ぐ“敵”を射抜いた。
「これで……いけそうだ!」
咆哮が響く。
ケルベロスの第三の首が唸り、無数の爪が剛心へと飛来する。
鋭く、速く、鋼鉄すら易々と裂くそれを──
剛心は捌いた。
回転。
しなやかに、剛柔の如く。
上げ受け、下段払い、滑らかな体捌きで爪をいなし──
そしてその腕に込めた一閃。
斬り裂くような、鋭い手刀が爪に突き刺さる。
《聖遺の鎧》に包まれた拳が、魔導爪を打ち砕いた。
金属の悲鳴が火花を散らしながら崩れる。
だが、直後。
ケルベロスの眼が赤く染まり、砲塔が剛心を狙う。
「──照準完了」
ズドン!!
閃光が奔る。
だがその瞬間──別の閃光が砲塔を打ち砕いた。
「──そこですわっ!!」
リゼリアだった。
キュ力を高めた拳が砲塔に炸裂し、レーザーの発射は寸前で中断される。
爆煙が上がり、瓦礫が降り注ぐ。
「シン! 首を──!!」
その声が、剛心の背中に届いた。
(……預ける? そんな簡単にできたのか?)
胸の奥に、かすかに波紋が広がる。
(言葉で言うのは簡単だ。だが──背中を預けるってのは、命を預けるってことだ)
誰かを本当に“信じる”ということ。
それは、己を他者に託すということ。
(どこかで、信頼しきれなかった。誰にも、どんな時も、最後は自分だけだと……)
けれど、今。
肩越しに、リゼリアの吐息が感じられる。
気配が。温もりが。命の響きが。
(……なのに今──こんなにも、あたたかい)
それは気のせいではない。
戦場の幻影ではない。
そこに、仲間がいる。
(ああ、わかったよ……今だけじゃない。ずっと……)
(……俺には、信じられる仲間がいたんだ)
剛心は静かに目を開いた。
その瞳に宿るのは、決意。そして安堵。
(冷たい独りの世界じゃない……)
(俺は──それだけで、幸せだ!!)
深く、深く、呼吸を整える。
音が消える。
まるで空気が止まったかのような静寂。
「……見える。いや、感じる……すべてが……」
彼の瞳は細まり、時間が水中のように鈍化する。
かつての集中──“起こり”の世界。
それは、敵の動きだけに焦点を絞った孤独の領域だった。
だが、今は違う。
魔力の流れ。風の匂い。地面の震え。
ケルベロスの筋肉の蠢動。
──それだけではなかった。
リゼリアのキュ力の振動。
エンケの足音の予備動作。
優希の詠唱のリズム。
ハーゲンとウスゲーの呼吸、心音さえも。
それらすべてが、彼の中に流れ込んでいた。
「これはもう、俺ひとりの“世界”じゃない……」
「“俺たち”の世界だ……!」
その瞬間、剛心の中で世界が一つに統合された。
すべての存在が、一つの力として彼の拳に宿る。
それは、もはや武道ではない。
──それは、信じ合う者たちの“意志”だった。
剛心の思考は、空のように澄みわたっていた。
もはや敵の“起こり”だけではない。
仲間たちの気配が、意志が、そして祈りまでもが、彼の内奥に流れ込んでくる。
それは言葉にできぬ何か──
理ではなく、感応である。
己の技で世界を読む段階は、すでに過去のものとなっていた。
いまや剛心は、“起こり”のさらに、その先へと導かれていた。
それは孤独な読みではない。
繋がりの中で拓かれた、共有された未来の感覚であった。
そして、彼は静かにそのすべてを受け入れた。
世界が、一つの“術”として立ち上がる
それはもはや視るものではなかった。
ただ感じる。
ただ、繋がる。
エンケがスッと後方へ跳ね退く──その“動機”すら、剛心には読めた。
仲間の“意志”が戦場に描いた一手。
ケルベロスの首が、微かに戸惑いを見せる。
リズムが乱れる。
敵の“起こり”が、明確に揺らいだ。
剛心は静かに、だが確かに呟いた。
「今だ──!」
大地を蹴る。
爪が閃光のように迫る。
剛心はその一撃を受け流し、回転とともに逆関節を断つ。
刃のような手刀が、魔導機構を打ち砕いた。
怒りにも似た咆哮を上げ、ケルベロスの最後の首が剛心に焦点を絞る。
センサーの視線が──すべて、彼に集まる。
剛心は一歩踏み出す。
だが、その足首の角度は“正確すぎるがゆえの虚”。
わずかに重心を崩したその挙動は、ケルベロスを誘う罠だった。
敵が喰いついた。
巨大な爪を振りかぶる──だが、それは空を斬る。
その瞬間、剛心の身体は逆方向へと跳ねる。
背筋を一気に伸ばし、踏み込みのエネルギーを脚へ集約。
「──落ちろッ!!」
彼の踵が唸りを上げて振り下ろされる。
それはまさに、《かかと落とし》──一撃必倒の極意。
《聖遺の鎧》を纏ったその一撃が、ケルベロスの骨格支柱を叩き潰す。
金属が悲鳴を上げ、歪んだ音が空間にこだまする。
──ドンッ。
振動が、世界を一拍止めた。
まるで、宇宙の重力がこの場に集中したかのように、
全ての視線が、彼一人に集まっていた。
剛心はゆっくりと息を吐いた。
足元から舞い上がる砂塵。
逆光の中で、剛心のシルエットだけが浮かび上がる。
「……今、この空間は──俺のものだ」
爪が迫るたびに、それを壊し、受け流し、制する。
剛心は静かに、そして確実に、最後の首へと距離を詰めていく。
ケルベロスの前脚はすでに壊滅。
もはや動くは“首”ただ一つ。
それが、最後の牙をむいて襲いかかる。
金属音。
油圧の唸り。
魔導炉の熱風が空気を灼く。
──それでも、剛心は歩みを止めなかった。
その間合い、わずか一歩。
だが、互いに一撃必殺の間。
剛心は、ついにその距離まで接近する。
その刹那、機械の呻きにも似た駆動音が響く。
「──最終防衛牙、射出モード……起動」
金属が噛み合う鋭い音。ガキィン、と空気を切り裂き、首部の口腔が異様な展開を見せた。まるで咆哮ではなく、装填であるかのように。
「なんだ……!?」
剛心の目が見開かれる。次の瞬間、それは“牙”の名を冠した暴虐の真意を露わにした。
無数の金属製の牙が、散弾のように射出される。
閃光、破裂、鋭い金属音が空を支配した。剛心は即座に身を屈め、廻し受けでいなす。だが、すべてを凌ぎきることは叶わなかった。
肩に、脇腹に、数本の牙が深く突き刺さる。血が奔り、赤が空間に鮮烈な軌跡を描く。
「……ハッ、まさか口まで大砲とはな……!」
苦悶の表情の中、それでも彼の口元には、どこか苦笑のような色が滲んでいた。
剛心はひとつ、深く息を吐く。まるで嵐の渦中にあって、湖底のような静けさを宿した吐息。
「……最後は、これしかないだろ」
重心が静かに落ちる。前屈立ち。
握られた拳に、余計な力はない。ただ、そこに“積み重ね”があった。
子供頃のあの日、道場で教わった最初の技──中段突き。
孤独の中で繰り返し磨いたその拳は、やがて仲間と共に打たれるものとなった。
これはもう、彼一人の拳ではない。
共に歩んできた者たちと作り上げた、“みんな”の技だ。
いま、世界に向けて──打ち込む。
次の瞬間、音が、空気が、そして世界そのものが止まったように見えた。
気合と共に──拳が、まっすぐに突き出される。
右中段突き──その一撃は、空気ごと軌道を裂いた。
拳が放たれた瞬間、世界が一瞬、沈黙する。
次の瞬間、轟音。
炸裂するような破砕音が空間を満たし、
ケルベロスの最後の首は、ねじ切れるように──粉砕された。
鉄と魔力でできたはずの巨体が、
まるで“意思”を失ったかのように、崩れ落ちていく。
──すべてを、沈黙が包む。
戦いの音が消え、空間にはただ、風が流れるばかりとなった。
剛心は、拳を静かに下ろした。
一歩、後ろへ引き──
そして、ゆるやかに正面を向き、
静かに、一礼した。
「押忍!!」




