このバリカン、日本製です
王宮・召喚の間。
重厚な石柱が並ぶ広間に、祭壇の淡い光が満ちている。
空間は張りつめた静けさに包まれ、儀式を見守る者たちは息を潜めていた。
広間の奥、王座の傍ら。
エメラルドのような髪を持つ男が、静かに口を開いた。
「……何年振りだ?」
その隣、空のように澄んだ青髪をたなびかせる女性が、微笑を浮かべて応じる。
「ユウキ様以来、三年かしら」
歳を重ねた銀の髪の老人が、扇子で口元を隠しながら言う。
「今度は聖者か、賢者か……あるいは、勇者かのう」
祭壇の前に立つ男が一歩進み出る。
宮廷魔術師。艶やかな金髪が揺れ、肩までのストレートヘアが整然と光を受ける。
その目が、まっすぐに祭壇を見つめた。
「……信託は下された」
彼の言葉と同時に、祭壇の中央に刻まれた魔方陣がゆっくりと光を帯び始める。
それはまるで命を宿すように、青白い光脈を走らせながら輝きを増していく。
空気が振動し、魔力が大地から噴き出す。
儀式に立ち会った貴族たちが一様に目を見開くなか──
光は、頂点へと達した。
眩い閃光が間を包み込む。
誰もがその先に、“神に選ばれし者”の姿を思い描いていた。
聖なる杖を携えた賢者か。
神器を携えし勇者か。
天命を受けた導き手か。
だが──光の中心から現れたのは、
隆起した筋肉。
見るからに鍛え上げられた厚い胸板と、引き締まった腹筋。
道着は白く、帯は黒。
だがその黒帯も、長年の使用により端が擦れ、ところどころ色が剥げ、艶を失っていた。
姿勢はぶれず、ただ仁王立ち。
何が起きたかも問わず、彼は無言でそこに立っていた。
“異世界召喚”の儀式に降臨したのは──
ただ、己の拳を頼みに修行を積み続けたひとりの武道家だった。
「……ここが異世界、か」
剛心は一歩前に出て、静かに辺りを見渡した。
重厚な石造りの壁、高く伸びた天井。
荘厳と呼ぶにふさわしい空間だったが——なぜか、全体に変な“間”がある。
……誰も、何も言わない。
魔法陣は静かに消えていき、ただ、剛心ひとりがその場に立っていた。
「なんじゃ……あれは……」
ようやく声を漏らしたのは、召喚の儀を取り仕切っていた銀髪の老人。
その眉間には皺、瞳には戸惑い、口元にはかすかな戦慄——
まるで“望んだものと違うモノ”が出てきた時の、通販失敗のリアクションだった。
「ひっ……罪人ですわっ!」
青髪の貴婦人が、まるで幽霊でも見たかのように後ずさる。
彼女の視線は、明らかに“頭”に向けられていた。
——そう、剛心の、髪がない。
全身を包む道着は白く、帯は黒。
だがそれ以上に、頭頂部の反射光が異世界民に与える衝撃は大きかったらしい。
ざわ……ざわ……と場がざわつき始める中、祭壇前の宮廷魔術師が、恐る恐る一歩前に出る。
「よ、ようこそ……ヘアストリア王国へ……して、その髪型は……?」
剛心は、ちょっと考えるように首をかしげた。
「ん? 坊主だが?」
と、何でもないことのように言ってから、自らの頭を軽く撫でる。
ツヤのある地肌が、宮殿の光を見事に反射していた。
「……な、何者の手によって……髪を刈られたのだ……?」
銀髪の老人が、震えるように問う。
その目は、もはや“拷問の痕跡”でも探しているようだった。
「いや、自分でだ。0.8ミリだ。これで」
そう言って剛心が道着から取り出したのは——バリカンだった。
銀色のボディに無骨なグリップ、そして唸る刃。
異世界の民にとってそれは、どう見ても“断罪の神器”だった。
「キャアアアアアアア!」
青髪の女が悲鳴と共に硬直、そしてそのまま倒れる。
まるで“魔を封じる神器”でも見たかのように。
「……おい、どうした!大丈夫か!?」
彼女の倒れるのを見て、剛心は反射的に駆け寄った。
だが、筋肉の塊のような男が手に謎の金属器具を持って接近する姿は、周囲にはまるで処刑執行人のように映った。
「ち、近づくなァァァ!!」
誰かが叫び、別の誰かが腰を抜かし、混乱は一気に広がっていく。
剛心は気にも留めず、淡々と女性の脈を取り、顔色と呼吸を確認する。判断は迅速、処置も的確。まるで熟練の救急隊員である。
「……脱水か? 栄養失調……いや、血糖値の低下もあるか?」
騒然とする召喚の間に、突如響いた声があった。
「……あれはかつて、異端者の魂ごと“誇り”を断ち切るために使われた拷問具……!」
空気が張り詰めた。
語ったのは、王国史に詳しい老魔導士だった。顔は青ざめ、震える指で剛心が手にしたバリカンを指している。
「かつてその刃で髪を奪われた者は、“名”と“血統”を否定され……あまりの非道ゆえ、記録ごと封印されたはずだ……!」
だが──剛心は涼しい顔で、手に持った機械を誇らしげに掲げる。
「いや安心してくれ!これは業務用でリチウムイオン電池で動く!」
「日本製で3年保証もついてる。あと、アタッチメントつければ12ミリまで対応できる」
情報量に対して理解の速度が追いつかず、聴衆たちの顔が固まる。
「このシリーズ、湿気に強くてな。風呂場でも刈れる」
「あと、前のモデルに比べてモーター音も静かになった。赤子を寝かせながらでも剃れるという口コミがあってな」
言いながら、どこか満足げに微笑んだ。
静寂。
次の瞬間、誰かが叫んだ。
「赤子の横で……!? 呪術か!?」「それはもう邪教だ!!」
「眠っているうちに“誇り”を断つなんて!!」
「悪魔だ!?」
もはや何がどう誤解されたかも分からぬまま、召喚の間に悲鳴と動揺が渦巻いた。
騒然とする召喚の間の中で、宮廷魔術師が恐る恐る口を開いた。
「……あの、まぁ……まずは“聖典”と、この世界についてのご説明を……」
だが、その言葉は遮られた。
「穢らわしいその手を離しなさい!」
澄んだ声が、空気を震わせた。
ざわめく会場を割くように、ゆっくりと歩み出てきたのは──
透き通るような金髪に、優雅な縦ロールを揺らす女性だった。
堂々たる佇まい。装飾されたドレスに、冷ややかな眼差し。
その気配だけで、空気がぴんと張り詰める。
「その髪の欠落は、あなたの“魂の劣等”を意味しますわ!」
リゼリア・フォン・グリューエン。
アストリア王国が誇る王族の一人にして、“最もキュ力が高い女”と称される存在だった。
「……いや、ただの散髪だ!」
剛心のきれいに刈られた0.8ミリの坊主頭が、再び静かに王宮の光を反射する。
「黙りなさい!」
リゼリアの声が鋭く空間を裂く。
「この国において、“キュ力”はすべて」
「魔力、地位、美徳……そして人権。すべては“キュ力”によって決まるのですわ!」
剛心は、しばし無言だった。
その目には、理解不能という文字がありありと浮かんでいた。
「……きゅりょく?」
隣に立っていた宮廷魔術師が、小声で、しかし真剣な眼差しで説明する。
「恐れながら……使徒様……。キュ力、すなわち“キューティクルの力”とは、この国における“魔力の質・人間の格・神の加護”を示す、絶対指標でございます……」
「絶対……?」
「はい。髪の輝き、なめらかさ、光沢、毛根の潤い……それらの総合的な“キュ力”で、個人のすべてを評価する制度でございます」
剛心の視線が、まわりの人々を見渡す。
そこにいた人々──貴族、兵士、侍女たちは皆、神妙な顔で髪をそっと撫でていた。
まるで祈るように、あるいは誓うように。
髪の美しさが、彼らの誇りそのものであるかのように。
静かに、剛心が呟く。
「……たかが毛の潤いで……ここはまさか……パリ・コレクションの聖地なのか……?」
——その瞬間。
会場全体が石化したかのように静まり返った。
ざわめきすら止み、空気が固体のように重くなる。
「……いま、なんと?」
リゼリアの静かな声が、剣のように鋭く空気を裂いた。
縦ロールの髪がわずかに揺れ、その瞳には、透き通るような怒気が宿っていた。
剛心は、悪びれる様子もなく返す。
「いや、“たかが——”」
だが、言葉の途中で、リゼリアがそれを遮った。
「“たかが”……このわたくしのキューティクルに、“たかが”?」
その声は、静かで、しかし圧倒的だった。
「穢らわしい分際で……私の全てを否定するというのですか?」
そのまま、ゆっくりと手袋を外し──そして剛心の足元へ、音を立てて投げつけた。
「……いいでしょう。わからせてあげます——決闘ですわ」
剛心は一瞬きょとんとし、そして確認するように呟いた。
「決闘?」
その言葉をなぞるように繰り返す間、リゼリアの髪が光を帯び始める。
足元には魔法陣が現れ、淡い光が彼女を包む。
「決闘……つまり戦うということか?」
「まさか、怖気付いたのかしら?」
リゼリアは鼻で笑うように、言葉を投げる。
剛心はわずかに目を細めた。
「違う……」
その一言の後、彼は一拍だけ沈黙した。
まるで、命を懸ける覚悟でも問うような重々しい気配が流れる。
だが、次に発されたのは——
「まず確認だ!レギュレーションはあるのか!? MMAルールか? それとも打撃のみのポイント制か!?」
「あとその服、関節極めにくいと思うが、大丈夫か? 転倒時にスカートが干渉して、レフェリー止められる可能性あるぞ?」
「誰も止めませんわ」
「……ノーレフェリーか。危険だな。セコンドも不在か?」
リゼリアの眉がピクリと跳ね上がる。
「レフェリーに、ルール? そんな生優しいもの、決闘にはありませんわ」
ピリ、と空気が張り詰める。
「……つまり、“試合”ではなく“死合い”ということか?」
その言葉と共に、剛心の雰囲気が一変する。
空気が冷えた。呼吸すら重く感じるような、空間が満たしていく。
リゼリアの笑みがかすかに揺らぐ。だが、退かない。
「……どう受け取ってもらっても、結構ですわ」
剛心は目を閉じ、ほんの一瞬、呼吸を整える。
そして──
「…………わかった」
その声は静かだった。
そして、重く、沈んで、鋭い。まるでこれまでとは別人のような気配。
だが、なぜかその気配には、ほんの僅かに──悲しみの色が混じっていた。
「で、では……作法に則り、私めが立会人を務めます」
宮廷魔術師の震える声が、沈黙を切り裂いた。
静まり返った空間。
巨大な召喚の間は、今や観客のざわめきも消え、ただ二人の足音だけが石床に響いていた。
剛心とリゼリア。
互いに距離を取り、ゆっくりと対峙する。
剛心は、深く礼を取った。
静かに。形に一分の狂いもなく、まるで道場にいるかのように。
一方のリゼリアは、敵意を隠そうともしなかった。
その瞳は射抜くように剛心を見据え、指先がかすかに震えている。
「始め!」
宮廷魔術師の声が放たれた瞬間、空気が弾けた。
リゼリアの縦ロールが淡く輝き、髪の一本一本が魔力を帯び始める。
「聖なる風よ──」
口元から詠唱が漏れた、その刹那。
剛心の姿が消えた。
地面を踏み抜くような音。
重く巨大な肉体が、弾丸のようにリゼリアへと放たれる。
その拳──中段から、寸分のブレもなく真っすぐに伸びる右拳が、
リゼリアの顔面中央、正確には人中へと吸い込まれるように突き刺さった。
ドガァッ!!
次の瞬間、リゼリアの体は空を飛んでいた。
少女の体とは思えぬ勢いで、一直線に壁へ──
そして壁が、崩れた。
轟音とともに舞う砂煙。
その場にいた誰もが、目の前で起きた現実に思考が追いつかない。
リゼリアが……消えた?
いまのは……音か?風か?呪文か?事故か?
数秒の沈黙ののち、ようやく視線が壁へと集まった。
舞い上がる土煙の中──
そこに現れたのは、
白目を剥き、鼻血を流し、前歯が数本抜けたリゼリアだった。
顔面に拳の痕がくっきりと残ったまま、
彼女は崩れ落ちた石材の上で、完全に意識を失っていた。