理性のまま、狂気に踏み込む者
全員が言葉を失う中、剛心はふいに息を吐いた。
ゆっくりと拳を解き、道着の裾を直す。
「……すまん、取り乱した」
静かに呟いたその声は、さっきの怒号よりも重く響いた。
そして彼は、ゆっくりと歩き出す。
「行こう」
その背は、まっすぐだった。
だが、リゼリアには見えていた。
その背中が──いつもより、少しだけ小さく見えることに。
クロが、重い沈黙のなかでぽつりと呟いた。
「さっきのトラップで……帰還ルートは、もう使えないにゃ」
それは、静かな死刑宣告にも似ていた。
しばしの間、誰もがその意味を咀嚼しようとするように、ただ無言で時が流れた。
やがて──
剛心が、ゆっくりと立ち上がる。
その拳が、無言のまま握られる。
「……全部、俺がやる」
低く、鋭く。
その声には、いつものような理性も、熱もなかった。
あるのはただ、張り詰めた冷たさと、理屈すら切り捨てた覚悟だけ。
リゼリアが息を呑む。
「シン……?」
剛心は、仲間たちに一瞥をくれた。
だが、その目は焦点を結ばず、何かを通り過ぎた先を見つめていた。
「お前らは動くな。俺が、すべてを潰す」
その言葉に、ハーゲンが立ち上がろうとする。
が──剛心の気迫が、声にならない壁となって彼を押しとどめた。
クロが、小さく名を呼ぶ。
「……剛心」
だが、その声も彼の耳には届かない。
いや、届いていても応じる意思が、そこにはなかった。
通路を進むたびに、敵の密度が増していく。
まるで、この先に何かがあることを確信するように──敵は剛心たちの進行を拒み続けた。
だが剛心は、立ち止まらない。
拳が放たれるたび、敵の装甲が裂け、骨格のような機構が弾け飛ぶ。
それは精密で、無慈悲で、無機質だった。
技の一つひとつに、怒りも恐れもない。ただ、最短距離での排除。それだけ。
(仲間が死んだ? 嘘だ……俺は、強い……嘘だ)
ハーゲンが思わず呟く。
「すげぇ……」
だがその声には、憧れや喜びはなかった。
ウスゲーも、眉を寄せながら言葉を落とす。
「でも……シン……」
剛心は、聞こえているのかいないのか、そのまま敵陣を穿ち続ける。
表情は、氷のように硬く、沈黙すら斬り裂くようだった。
(いつも独りだった。仲間のことを考えてなかった……? ……違う)
「シン、後ろ!!」
リゼリアの声が響く。
だが、剛心は振り向かない。
その身体は、機械仕掛けのように正確に回転し、
放たれた手刀が、背後の敵を断ち割った。
血ではない。機械の残骸が宙を舞う。
(異世界……これが俺の望んだ、“命のやり取り”……俺が、望んだ?
みんなを、巻き込んだ……?)
目の前に広がるのは、敵の大群。
剛心は、一言も発せず、迷いなくその中へ突入する。
「シン! 魔法で撹乱してから!!」
リゼリアの叫びすら届かない。
(もう、誰も……傷つけない……俺が……全部潰す!!)
跳躍。
剛心の身体が宙を舞い──
回転。
回し蹴りが、機械の獣たちをなぎ払う。
風圧が岩壁を削り、光の残像が散ってゆく。
敵の群れが、塊ごと崩れる。
(俺が、守るんだ……)
その目は冷たく、深く、そして鈍く光っていた。
それは武道家の目ではなかった。
英雄の目でもなかった。
それは、
“すべてを自分の責任と錯覚してしまった者の目”だった。
迷宮の最深部──
岩盤が剥き出しとなったその通路の果てに、黒い静寂がぽっかりと口を開けていた。
ひんやりとした風が吹き抜けるたび、背筋に触れる冷たさが、ただの空気ではないことを告げてくる。
クロが、前を歩く足を止め、低く呟いた。
「……この先が、メイン端末にゃ」
一行が慎重に進み出すと、その先には、巨大なドーム状の空間が現れる。
そこは、もはや“迷宮”ではなかった。
天井高く、魔導配線が天蓋のように巡り、中央には一際異様な存在が鎮座していた。
それは、金属と肉体が融合した、三つの首を持つ巨獣。
各首の目が異なるリズムで赤く点滅し、胴体には幾重もの魔導ラインが走っていた。
禍々しいという言葉では足りない、これは──
リゼリアが、思わず声を上げた。
「こ、これは……伝説の魔獣、ケルベロス……!?」
だが、その声音には混乱も混じっていた。
「でも……この身体、まるで……機械のようですわ……」
クロがその疑念に答えるように、静かに言葉を継ぐ。
「にゃ。あれは、“本物”のケルベロスじゃないにゃ。
かつて存在した神話的存在をモデルに、“再構築”された戦闘端末……」
「……正式名称は《三位同格・終端監視機構》。
通称ケルベロス──この世界の管理者が、システムの“最終防衛ライン”として設計した最大戦力にゃ」
剛心が一歩、前に出た。
迷いはなかった。
敵がどれほど異形であろうと、目的が明確であれば、心は揺れない。
「リゼリア──みんなを頼む」
その声音に、場が一瞬、静まった。
「お前の魔法で、全員を守れ。俺は、あいつとやる」
リゼリアは、信じられないといった表情で彼を見た。
「シン、無茶ですわ! あんなの、単独で挑んだら──!」
剛心は目を伏せ、ゆっくりと拳を握った。
「……誰も、死なせない」
その言葉は重く、だがどこまでも静かだった。
「そのために、俺がここにいるんだ」
剛心の背には、誰にも背負えぬ重荷があった。
それを一人で背負うことに、もはや疑問すら抱いていないその在り方に、
リゼリアは声を失った。
クロが苦々しく眉をひそめた。
「……優希の離脱で、成功率は8%以下に低下にゃ」
「この個体は“想定されていた最大戦力”──つまり、お前たち全員の協力を前提として設計された防衛存在にゃ……」
その言葉が意味するところは明白だった。
沈黙が、空間全体を凍りつかせる。
剛心はゆっくりと肩を回し、呼吸を整える。
その拳は静かに握られ──
「だから……俺が全部やる」
その声は、まるで夜明け前の空気のようだった。
張り詰め、冷たく、それでいてどこか光の訪れを予感させる。
“理性のまま、狂気に踏み込む者”──
今、そこに立つ剛心は、誰よりも人間的で、誰よりも危うかった。
そして、
誰よりも“武道家”だった。
閃光のように、剛心が動いた。
拳を握り、まるで迷いそのものを斬り捨てるかのごとく、静寂を切り裂いて突進する。
ケルベロスは、反応すら感情の余地なく、機械的な挙動で迎撃姿勢に移行した。
——《対象:東雲剛心 キュ力0 脅威度C 執行対象》
金属が軋む音をともない、三つの首が同時に襲いかかる。
火を吐くでもなく、咆哮するでもなく、ただ精密に、淡々と、排除を遂行するための動き。
だが、剛心の身体もまた、一分の隙もなかった。
「——っ!」
一撃、また一撃。右の首に踵落とし、左の顎に裏回し蹴り、旋回する胴体を軸に真ん中の首へと上段突きを叩き込む。
それは、武道家が生涯をかけて磨き上げた、技の結晶だった。
だが。
「……何だ、この感触……!?」
拳に返る手応えは異様だった。まるで虚空を撃ったかのような、沈まず、響かず、重力の概念を逸した硬質な空虚。
背後で、クロの声が響く。
「——反重力リアクターにゃ。力のベクトルを無効化する、対衝撃構造だにゃ!」
その瞬間、横合いから鋭利な金属の爪が突き出され、剛心の脇腹を穿った。
「……ぐっ!」
呻きと共に身体が弾かれ、壁に激突する。
石壁がひび割れ、剛心の額から、鮮血が一筋、静かに滴った。
「シン!!」
ケルベロスがその赤い眼をぎらつかせ、次なる標的を捉える。狙いは、リゼリアたち。
瞬間、リゼリアが両手を構え、魔法陣を浮かび上がらせる。
「——《ウィンドシールド》!」
透明な風の膜が周囲を包み、盾となって仲間を護る。
風が唸り、衝撃を柔らかく受け止める。だがそれは、ほんの猶予に過ぎなかった。
「……持ち堪えてはいますが……時間の問題ですわ……!」
全身に痺れが走る。感覚が鈍い。
息を吸うだけで、肋骨のきしみが響く。
剛心は、静かに目を閉じた。
「……今のままじゃ、仲間を守れない」
「なら……心を、沈ませろ……」
「深く、冷たく……何も考えるな。何も、ただ技のみに従え……」
その瞬間、ケルベロスの顎が開き、リゼリアのシールドが破砕した。
──だが、破片が散るより早く。
剛心の足が、宙を裂いた。
「……ッ!!」
飛び蹴り。一直線に跳躍し、三つ首の中央へと叩き込まれる破砕の一撃。
が、首は沈まない。再び、空虚な弾力が拳を拒む。
即座に着地した剛心は、前脚に下段突きを放つ。
だが──
「効かない……!」
再び、ケルベロスの眼が点滅する。
——《キュ力0 脅威度B 排除対象に再分類》
その宣告と共に、三つの頭部が静かに後退し、構えを取る。
その口腔から、螺旋状の光が収束する。
「来る……!」
光の奔流が、放たれる。
三本のレーザーが、正確無比に、鋭利な三角形を描いて剛心を包囲した──
だが、その中心には、誰の姿もなかった。
「え……?」
リゼリアの目が揺れる。
次の瞬間、剛心は既に、レーザーの軌道の“外”にいた。
しかも、それは偶然ではない。あらかじめその瞬間を予見していたかのような動きだった。
彼の眼は冷たく、深く、そして──何よりも静かだった。
「……あれを……避けている……?」
ウスゲーが呆然と呟く。
紙一重。刹那。瞬きすら追いつかない動き。
剛心は全ての光線を“見てから”回避していた。
巨大な爪が振り下ろされる。
その一撃に、剛心は何の溜めもなく、まるで条件反射のように手刀を合わせた。
鋼鉄が甲高く鳴き、爪が折れた。
剛心の眼に、光はなかった。
そこにあるのは、澄んだ深海のような沈黙だけだった。
(……ゆっくりだ)
(よく見える)
(相手の“起こり”──思考の生まれる瞬間の、さらにその一歩前の世界が……)
(……見えている)
ケルベロスの動きは完璧だった。だが、それはあくまで“計算”によって導かれた動作。
それに対して、剛心の技は“意志”によって選び取られる。
(……誰ももう、いらない。この速度についてこれるのは、俺だけだ)
剛心の拳が、三つ首を貫かんと、静かに、だが確実に放たれた。
ケルベロスが、機械の喉奥から響かせるような重低音で唸った。
「──脅威度、再計測中……完了。評価:Aランク個体。対応レベル切替……戦闘形態へ移行」
まるで儀礼のような宣告と共に、魔導機構が咆哮した。
その躯体が軋み、駆動音とともに形を変える。三つの首の両脇から、新たに五本の金属質の腕が展開された。
腕には魔導ラインが脈打ち、赤く、規則正しく、心臓の鼓動のように明滅する。
「ヤバいにゃ……“戦闘形態”……ッ!」
クロが震えた声を漏らす。
剛心は構えを取り直すと、一切の躊躇なく駆けた。渾身の気合と共に。
「うおおおおっ!!」
しかし。正確無比なその連撃は──すべて、届かなかった。
衝撃が触れた瞬間、装甲表面が揺らめく。まるで蒸気のように空気が撥ね返され、拳の力を受け流していく。
「……効いてねぇ!? 今の中段突きが……!」
剛心の眉がわずかに動いた。混じるは、明確な動揺。
クロは、苦々しく唇を噛んだ。
「やっぱり……剛心でも、反重力リアクターの前では打撃は通らないにゃ……」
次の瞬間、五本の機械腕が一斉に振るわれる。
空間が切り裂かれ、音よりも速く、剛心に迫る。
剛心は紙一重で身をひねり、回避する──が、その動きにも限界があった。
「ッ……ぐあッ!」
金属の爪が剛心の胸部を掠め、血が宙に咲く。深く、鋭い傷。膝が地を打ち、拳が震えた。
「シンッ!!」
リゼリアが声を上げるが、クロが制する。
「……見たことないにゃ。剛心が……追い詰められてる……」
ケルベロスの眼が光を放ち、三つの口が再び開かれる。螺旋状の光が収束し、殺意を込めて放たれる——
レーザー。
剛心は、跳んだ。
地面が蒸発し、煙が噴き上がる。かろうじて命は繋いだが、左腕が焼け爛れていた。
「……ッ!」
「……すげぇ……」
ハーゲンが呟く。
だが、エンケは唇を震わせた。
「いや……避け“きれて”ない……!」
着地した剛心の表情には、しかし怯えはなかった。ただ、静かに、確かな“焦燥”があった。
(……違う……俺は、負けてない。動きは……読めてる。だが……)
(……身体が……追いつかない)




