異世界入国の正当性
数ヶ月後、王都ヘアストリア、王宮前門──夜。
篝火の揺れる光が、漆黒の石畳を不規則に照らしていた。静寂の中、重厚な門扉を前にして、剛心たちは立ち止まった。
「止まれ──ここは王命なき者の立ち入りを禁ず」
門番の声が鋭く響く。槍の柄が地を打つ音が、夜気を震わせた。
すると、一歩前に出たのは、深くフードをかぶった少女。
リゼリアである。
「……まあ、まさかこの私をお忘れになったなんてこと、ありませんわよね?」
その声音は柔らかかったが、どこか冷ややかでもあった。
すっと指先がローブの縁をつかみ、面布が払われる。
──黄金の縦ロールが、月光に淡く輝いた。
「ば、暴風のリゼリア様……っ!?」
門番の顔色が変わった。
次の瞬間、彼はまるで自らが石像と化したかのように硬直し、道を開ける。
「どうぞ、お通りくださいませ……ッ!」
リゼリアは軽く頷くと、すぐに後ろを振り返り、小さくウィンクした。
案内するのは、ふわふわの毛を揺らすクロ。
彼女の案内で、王宮の回廊を抜け、荘厳な礼拝堂を横切り、やがて小さな祈祷室へと辿り着く。
「この裏手に、管理されていない古い神殿があるにゃ。そこから下層へ降りられる」
「……こんな場所に、迷宮の入り口があったなんて……」
リゼリアが思わず呟いた声は、かすかに震えていた。
重い石扉を押し開け、蝋燭の明かりを頼りに、地下へと続く階段を降りていく。
そして数刻、黴と湿気の匂いのする古い回廊を進んだそのとき──
「シン! 宝箱ですぜ!」
叫んだのは、ハーゲンだった。
見れば、苔むした石の隅に、金属製の箱が慎ましげに佇んでいる。
「これ……これ、すごいですわ!魔力反応が……!」
リゼリアが目を輝かせている。
「うわっ、これ《封印解除式多層展開型アイテムコンテナ》だ!」
優希が身を乗り出す。
「秘宝級……いや、国宝級のマジックアイテムじゃないですかこれ!」
しかし──
「……待て」
剛心の声が、場の興奮に冷水を注いだ。
「お前たち……それを持ち帰るつもりか?」
三人は、まるで悪戯を咎められた子供のような顔になる。
剛心は眉ひとつ動かさぬまま、淡々と続けた。
「これは“遺失物”に該当する可能性がある。
持ち主の生存・所在が不明でも、勝手に持ち帰れば“横領罪”だ」
「お、横領……ざい?」
「さらに、仕方ないとはいえ王宮敷地内での未許可探索、地下空間への進入──
“住居侵入罪”と“文化財保護法違反”の可能性もある」
「文化財……ほご……ほう?」
「俺たちは法の網をかいくぐったつもりでも、結局“軽犯罪のごった煮”だ」
優希が一歩前に出て、必死に食い下がった。
「ちょ、ちょっと待ってください!これは異世界的に“持ち帰ってOK”なヤツですよ!
だって、ゲームでもアニメでも!宝箱があったら、“開ける、持ち帰る、装備する”が常識じゃないですか!」
「だからこそ異常なんだ。
考えてみろ、異世界では道端に落ちてる財布を開けた瞬間、持ち主不明でも“装備可能”なのか?」
「それ言い出したら、異世界転生してる時点で全部“違法入国”じゃないですか!」
優希の何気ない一言が、静かな迷宮の通路に落とされた石のように、剛心の精神を深く抉った。
「……違法、入国……だと?」
彼の表情が、一瞬で氷のように硬直する。眉間には深い皺が刻まれ、呼吸すら浅くなるほどの衝撃が、その身を貫いた。
「──しまった。入国審査を受けていない……!」
彼は静かに独りごち、次いで真剣そのものの面持ちで腰を落とし、袴の中から何やら手帳のようなものを取り出す。が、それはパスポートではなく、段位認定証と武道大会の出場履歴であった。
「これは使えない……!」
唇を噛みしめながら、剛心は深く思索に沈む。異世界という概念が、どの法体系に属しているか不明である以上、越境の正当性を証明するには、何らかの形で“存在の記録”を得る必要がある。
「……まずは在留資格の取得だ。そして国籍確認、旅券発給の申請……!」
ろ
「いやちょっと待ってください剛心さん!ギャグですから!今の完全に冗談ですって!」
「いや、万一この世界に“入国管理局”が存在していたなら、俺の今の行動はすべて法の外にある。道場が没収される前に、正当な手続きを……!」
ハーゲンが小声で囁く。
「これ……宝箱開けただけっすよね?」
リゼリアがそっと宝箱に近づき、ぱたんと蓋を閉じた。
「……とりあえず、無かったことにして先にいきましょうか」
地下迷宮の石畳が湿った吐息を漏らすように冷気を孕むなか、一行は慎重に足を進めていた。
と、その先に現れたのは——
「六体、確認……!」
クロの低い声が響いた瞬間、闇より浮かび上がるように姿を現したのは、鋼鉄の骨格に猟犬のごとき俊敏性を備えた、機械の番犬どもだった。
その名は〈ガーディアンハウンド〉。
赤銅に鈍く輝く躯体は、まるで魂を持たぬ狩人。息づくものに反応することすらなく、ただ“排除”という命令のみを宿したかのような動きで、無言のまま襲いかかる。
刹那、剛心が前に出た。
「間合い、五歩」
低く呟いたその瞬間、踏み込み一閃。
気のこもった拳が、鋼の顎を貫いた。
轟音とともに一体が沈む。
剛心は倒れた機械犬の向こう、戦況全体に視線を送った。
右手、優希の周囲には光が舞い、彼の放つスキルが幻惑のように敵を翻弄している。
練り込まれた魔力は風の刃となって残る四体を切り裂き、彼の表情には焦りではなく、確かな読みと制御の余裕があった。
左手、リゼリアとエンケ、ハーゲン、そしてウスゲー。
リゼリアはひと呼吸遅れて動いたが、持ち前のキュ圧魔法で軌道をずらし、脚を捌いて躱す。
ハーゲンの跳躍、ウスゲーの突き、エンケのカウンターどれも迷いはあったが、迷った分だけ相手をよく見ていた。
そして四人は、打ち合わせたように連携し、最後の一体を叩き伏せた。
静寂が戻る。
「……いけそうだな」
剛心は息を整えつつ、皆に背を向けぬまま言った。
「怪我したやつはいないか? エアサロンパスはまだあるか? ……EXの方も」
「だからポーションです!」
優希が即座に突っ込むように返す。
その声には苛立ちではなく、どこか安心が滲んでいた。
小さく、しかし確かに笑いが生まれる。
機械の番犬が潜む迷宮の奥で、その笑いは生者たちの強さの証であり、絆の証明でもあった。
剛心たちは迷宮の奥へと進んでいた。
不気味な静寂と機械の唸りを背に、幾度となく現れるガーディアンハウンドを次々と制圧してゆく。
それは、あまりにも順調だった。
まるで道場の稽古を反復するかのような動き。
攻撃、受け、連携、防御──誰もが己の持ち場を理解し、淡々と戦果を重ねていた。
「……おかしい」
剛心が呟いた瞬間だった。
通路の先が、不意に開けた。
大広間かと見まがうほどの空間。その中心に足を踏み入れたとき──床が震えた。
鈍い音を立てて、足元が崩落する。
「罠か!」
刹那、空間が変貌した。
足場のほとんどが消え、断崖絶壁。狭い縁に取り残された一行の頭上に、さらに追い打ちをかけるように──
カシャリ、と金属の裂ける音。
天井が割れ、無数のガーディアンハウンドが降ってきた。
「数が……違う!」
リゼリアが魔力を展開し、エンケがその陰から突きを放つ。
ハーゲンとウスゲーが背中を合わせ、数で押される敵を堰き止める。
剛心は一体を殴り飛ばしながら、周囲の様子を冷静に観察していた。
「……このままじゃ埒が明かん。空間が悪すぎる」
そのとき、優希が叫んだ。
「僕に任せてください!」
アイテムボックスから、ぎらつく金属製の何かが引き出された。
「ハシゴ!?」
「これで向こう岸まで行けます!」
設置されるハシゴ。その狭い足場を頼りに、次々と仲間たちが向こう岸へと渡ってゆく。
「ユウキ様、早く!」
「今、リフレクトシールド展開!」
その声と同時に、優希の周囲に半透明の防御膜が広がる。
跳ね返される敵の突撃。時間は稼げた。
全員が渡りきった──残るは、優希ただ一人。
「ユウキ! 急げ!」
剛心の声に応じ、優希がハシゴへと手をかけた、その瞬間──
「っ……!?」
ガーディアンハウンドの一体が、ハシゴを噛み砕いた。
「——ッ!」
優希の身体が、断崖に取り残される。
「ロープを出せ! 優希!」
剛心の声に、優希は反射的にアイテムボックスへと手を伸ばした。
──ギュン。
出現する一本のロープ。それを縁へと投げ渡し、剛心が咄嗟に掴んで引く。
その手には、確かな力と焦りが込められていた。
「よし、こっちへ──!」
ガーディアンハウンドの機械の肢体が、ひとつ、またひとつと崖の底へ消えていく。
その轟音が断末魔とも、警鐘ともつかぬ響きを空間に残す中で──
ふ、と。
優希の視界に、聖典のウィンドウが浮かんだ。
彼は、それを見て、微笑んだ。
「剛心さん……僕……この戦いが終わったら、花屋を開こうかと思うんです」
その声には、不思議な静けさがあった。
静かで、それでいて儚い、春の終わりの風のような声音だった。
「花屋に来る人って、みんな……笑顔じゃないですか?」
哀しげな笑みを浮かべる優希。その目は、遠くを見ていた。
「そうか!」
剛心は、朗らかに笑った。
「やりたいことがあるんだな! 良かったな、優希!」
「早く登ってこい!」
それは、武道家の素朴な歓喜だった。
仲間が“意思”を得たことを、素直に祝福する──だが、無垢なる喜びほど、時に死を呼ぶ。
リゼリアが血の気を失う。
「ユ、ユウキ様ぁぁぁぁ!? は、早く! 早くですわよ!!」
「みんなで引き上げますわよっ!! 今すぐっ!!」
ウスゲーが縄を握り、エンケが背後を支える。
ハーゲンは何故か祈っている。
だが──その縄は、静かに、“音を立てずに”ほつれていった。
ちり……ちり……
ほとんど誰にも気づかれぬ速度で、ロープの繊維がほどけていく。
その中で、優希はふと声を張った。
「剛心さん!」
「僕、本当に花屋になりたいんです!」
「聖典なんて関係ない、間違いなく……僕の意思です!」
「僕の選択ですっ!!」
その言葉には、涙も、未練も、なかった。
ただまっすぐに。
ただ誇らしげに。
──ちぎれた。
ロープの末端が、するりと剛心の手元から消える。
「っ!?」
重力が、それを引き裂いた。
「優希ーーーーッ!!!」
剛心が叫ぶ。その声には怒りも、恐れも、後悔もなかった。
ただ、仲間が“選択”し──そして“落ちた”という事実だけが残った。
ロープの残骸が、剛心の手元で揺れていた。
闇の底へ消えていくその光景の中、優希の最後の笑顔が、光の残滓のように刻まれていた。
リゼリアの肩がわずかに揺れた。
「……ッ」
小さく噛みしめた声とともに、彼女は俯く。
拳を固く握り、白い指先が震えていた。
悔しさに滲むその眼差しは、地面を睨みつけることしかできなかった。
その傍らで、剛心が地面を叩いた。
「何でだ……!?」
拳が岩盤にめり込む音が、洞の中に乾いた衝撃音を残す。
その拳は、ただの怒りではなかった。無力への、そして理不尽への、言葉にならぬ憤りだった。
「縄の切れ方、普通じゃなかった……!」
剛心の声は、かすれていた。
感情の熱が、言葉の輪郭を溶かしていた。
リゼリアが、震える唇で呟いた。
「……聖典、ですわ……」
その言葉に、全員の時が止まった。
「ユウキ様の、最後の言葉……」
「“この戦いが終わったら”……」
「この世界では、それを“呪いの言葉”と呼びますの……」
その声には、混乱も、恐れも、罪悪感さえも混ざっていた。
彼女自身、信じたくなかった。だが、それでも理解していた。
あの瞬間、世界が優希を“物語から降ろす”と決めたことを。
沈黙が、数秒続く。
剛心は、拳を握ったまま、小さく呟いた。
「……それが……みんなの“幸福”につながるのか?」
言葉は、溶岩のように低く、そして重かった。
「気に入らん……」
震える拳から血がにじむ。
「気に入らんぞぉおおおッ!!!」
怒声が洞を揺るがす。
理不尽に抗う者の咆哮だった。
誰のためでもなく、ただ“間違った幸福”への拒絶だった。




