押忍=OS
決勝戦の鐘が、静かに鳴り響いた。
その瞬間、道場内に満ちていた雑多な喧噪は嘘のように鎮まり返った。
中央に対峙するは、リゼリアとエンケ。いずれも構えは堅く、だが動きはない。まるで風をも断つ刃のように、ただ沈黙が場を斬っていた。
リゼリアの瞳が、鋭く相手を射抜く。
かつては装飾のように輝いていたその瞳は、今や武を極める者のそれへと変貌していた。
「……下手に出たら、返される……」
エンケは、ただ一歩、また一歩と間合いを詰めてくる。
遅すぎるほどの歩幅、それはまるで“何かを測っている”かのような、執念にも似た動作だった。
リゼリアの眉がわずかに動く。
「……誘ってる? ……なら、乗ってあげますわ」
刹那、リゼリアの拳が閃いた。華麗で、無駄のない正拳——
しかしそれは、真の一手を隠す仮面であった。
「来た!このタイミング!!」
エンケが踏み込み、カウンターの体勢を取る。
だが、次の瞬間。
リゼリアの脚が、流麗にして鋭く、袴の影から飛び出した。
秘められていたのは膝蹴り——拳の影に忍ばせた、意表を突く近距離の一撃。
「っく!!」
エンケは咄嗟に腕を振り上げ、衝撃を防ぐ。
しかし、腕越しに伝わる“キュ力”の震動は想像を超えていた。
「こ……これが、キュ力の打撃……!
ウスゲー、よくこんなのを何発も……!」
顔をしかめ、肩で息をしながらも、彼は後退しない。
表情に一瞬浮かんだ怯えを、自らの意思で押し潰す。
拳を構え直し、目に宿る光は、恐怖ではなく“希求”の色に変わっていた。
「怖い……でも、それよりも——
試したい!! 俺の拳が、どこまで通用するのか!!」
一歩、踏み出す。
それは始動でもなく、反撃でもなく、決意そのものであった。
「今のを防がれた……!?」
リゼリアの心がわずかに波打つ。
だがエンケは動かぬ。
彼の選んだ距離は、武道において開始間合いとすら呼べぬ極端な接近。
もはや反応では遅い。必要なのは“反射”、意識を超えた領域である。
「反応じゃダメだ……反射で制す!!」
リゼリアはその圧迫感に、わずかに気圧された。
この男は動かない。誘いも見抜かれ、フェイントも通じぬ。
「……怖いけど、ここで逃げない……!」
エンケは心中で唱えるように、自らを縛り続ける。
この静寂の中で、動くのは己の恐れであり、打ち克つべきは己の内側。
リゼリアは堪えきれず、距離を取った。
息を吸い、構えを解かずに後退する。その瞬間、わずかに頬を赤らめたのは、羞恥でも敗北感でもない。
——初めて、“圧”を受けた。
それはかつて彼女が味わったことのない、研ぎ澄まされた間合いの“支配”だった。
そして、それを成したのは、決して豪腕でも魔力でもない。
一人の男が、逃げずに立ち向かった勇気である。
観客席に、息を呑む音が満ちていた。
だが誰も、言葉を発せなかった。
今、ここにあるのは、言葉では語れぬ“気”の交差だった。
リゼリアの呼吸がわずかに乱れる。
額を伝う一筋の汗が、肩の縁を滑り落ちた。
「まだ……できるかわかりませんが——」
そう呟いたその瞬間、彼女の両足裏に、淡い光が集まった。
全身のキュ力を“地”へと通し、そこから跳ね上げるように──彼女は動いた。
キュ力を纏った地を裂くような足運び。
雷鳴にも似た低い音を、床が軋ませる。
それはただの素早い移動ではない。
重心の低さ、圧の重さ、そして意識の切断──
極限の集中が生んだ、“重い機動”であった。
その残像の中、リゼリアは背後へと一歩跳躍し、反転。
刹那、強烈なキュ力を込めた回し蹴りが放たれる。
空気が泣いた。歪むほどの勢いをもって、蹴りがエンケの側頭を目がけて襲いかかる。
だが──
「俺には、これしかできないから……!」
エンケは、声と共に沈んだ。
あえて身を落とす。体軸を、地へと沈める。
それは守るためではない。打ち込むための体勢だった。
迎撃の拳。
下から上へと突き上げられたその拳は、空気を裂き、風圧を巻き起こしながら、リゼリアの蹴りの内角をとらえた。
——ドンッ!!!
大地が軋む。音が跳ねる。
その衝撃に、リゼリアの蹴りは停止した。
いや、止まったのではない。“止められた”のである。
観客席がざわめく。
「跳ね返した!?」
「いや違う……ぶつけたのか!?」
「え、あれ拳で止めたの……!?」
剛心の眉が、無意識に上がる。
その眼差しは、かつて見たことのない“型”を捉えていた。
「攻防一体か……!?」
「エンケ、お前……いつの間に」
その声に込められたのは驚愕。そして、敬意だった。
優希は、呆然と呟く。
「迎撃した……拳で、あの速さの蹴りを……」
対峙するふたりは、再び距離を取る。
両者の呼吸が、かすかに重なる。
その間、わずか数歩。されど、容易に踏み込めぬ緊張の間合い。
観客の息が、止まる。場には一音たりとも乱れぬ静寂が張り詰めていた。
剛心が、膝に手を置いたまま低く呟く。
「……まだやるか」
その問いに、リゼリアはわずかに息を整え、眉を上げる。
「……両脚に、もう一度、キュ力を」
淡く、髪が光を帯びる。
その輝きは、魔法というよりも意志の発露であり、魂の輝きであった。
キュ力が足元へと集束し、次の瞬間、爆ぜるような音と共にリゼリアの姿が消える。
目にも止まらぬ速度で、縦横無尽に跳ね、空間を刻む。
だが、その残像には微かに“歪み”があった。
クロが、口元を覆いながら呟く。
「……剛心。リゼリア、ちょっと変じゃないかにゃ?」
剛心はわずかに目を細め、じっとその動きを追う。
「……足を痛めてるな。さっきのエンケの攻防一体で、受けた衝撃が残ってる」
そして続ける。
「エンケもだ。右拳を──壊しかけてる。……相討ちだったんだ」
彼の声には、どこか静かな敬意が滲んでいた。
正面──リゼリアが拳を突き出す。
エンケは即座に構え、壊れかけた右拳で受け止める。
その衝突の瞬間、ふたりの表情が歪む。
「私は“魔法の才”だけじゃなく──」
「この拳で、みんなに認めてもらいたいんですの……!」
リゼリアが呻く。
エンケも、血のにじむ唇を噛みながら言葉を返す。
「ぐぅ……っ!」
両者、満身創痍のまま、わずかずつ前へとにじり寄る。
引きずるような足取り。だが、それでも“下がらない”。
観客席には言葉もなく、ただ鼓動のような静けさが支配していた。
ふたりは互いの呼気を感じ取れるほどの至近に立った。
そしてエンケが左を打つ。リゼリアが右で返す。
拳が交差し、次第に正確性も、美しさも、流派の型も消え失せていく。
残るのは、ただ“届かせたい”という意思のぶつかり合い。
「……みんなと肩を並べたい。そのための一発なんだ、これ……!」
打つ、殴る、叩く、返す。
もはやそれは、洗練された武の応酬などではなかった。
剛心が拳を膝に置いたまま、静かに目を伏せた。
「……あとは、気持ちの勝負だ」
リゼリアの左目は腫れ上がり、足元がふらついている。
エンケは口元から血を垂らし、右拳は、すでに力の通らぬものと化していた。
それでも、両者は前へ出る。
前へ──ただ前へ。
殴る。殴られる。
己の想いが届くことを信じて、ただ、その繰り返し。
それは、ある意味で完成された技よりも、はるかに尊く。
ある意味で、実に愚かしくも、真摯な戦いであった。
殴る。殴られる。
ただその繰り返し。
打撃の意図も、構えの理も、もはやそこにはなかった。
ただ己の立場と、拳の理由を、二人は互いにぶつけ合っていた。
クロが、かすれた声で呟く。
「もう……やめるにゃ……」
その声音には、静かな悲哀がにじんでいた。
しかし拳は止まらない。
顔面は腫れ、足は縺れ、よろめきながらも、二人はなお立ち続けていた。
観客のひとりが、息を呑む。
「……これが、本気かよ……」
別の者が、呟くように漏らす。
「戦いって、こんな……こんな痛々しいもんだったのか……」
ついに、二人の動きが止まる。
構えたまま。だが、わずかに膝を折り、今にも崩れそうな姿で──
それでも、倒れない。
沈黙。
剛心が、歩み出る。
その足取りは、静かにして確固。
弟子たちの視線が、自然と彼に向く。
そして、彼は言った。
「そこまでだ。この勝負、引き分けとする」
その声は、雷鳴でも、祝福でもなかった。
ただ一つの“判定”として、事実を述べたまでである。
エンケとリゼリアは、無言のまま並び立っていた。
満身創痍のその姿に、観客席が、騒然となる。
「えっ……引き分け?」「あれで……?」
「いや、むしろ……引き分けにしてくれて、よかった……」
剛心が、ゆっくりと前へと進み出る。その眼差しは厳粛にして穏やかで、言葉には揺るぎのない確信が宿っていた。
「……試合は、引き分けだ」
観客席から、どよめきが広がった。
沈黙を破ったのは、仰向けに寝かされたままのハーゲンだった。顔を青くしつつも、ぽつりと漏らす。
「じゃあ……“師範”は、誰がやるんで……?」
その言葉に、周囲がざわりと色めき立つ。視線が再び、剛心に集まった。
「——この道場の初代師範は、両名とする」
リゼリアとエンケが、同時に声を上げる。
「えっ?」
剛心は冷静に、理知的に言葉を続けた。
「曜日ごとの交代制だ。月・水・金はリゼ、火・木・土はエンケ、日曜は一番熱心だったやつがやればいい」
リゼリアが目を見開き、少し身を乗り出す。
「ちょっと待ってください!そんなにコロコロ変える意味があるのですか?」
剛心は、真剣な眼差しで告げる。
「師範はOSだ。“更新”しなければ脆弱性だらけになる。立場にあぐらをかいた瞬間から腐敗が始まる。OSの自動アップデートみたいに、定期的な再起動が道場の安全と強さを守るんだ。あとシフト制だ。つまり突発休にも対応可能だ!」
ハーゲンが、小さく呟く。
「OS……つまり、押忍(OS)……やっぱり……俺たちの基礎だったのか……」
優希が頭を抱えて呻いた。
「師範がもうバイトリーダーだよ……」
リゼリアが剛心をじっと見つめ、あきれ半分の声を出す。
「ちょ、ちょっと待ってください!そんな頻繁に師範とは変わるものなのですか?多分、何か、絶対おかしいですわ!」
だが、剛心は満足げに頷いた。
「次は3ヶ月後だな。楽しみだ!」
リゼリアが思わず叫ぶ。
「3ヶ月後……!?それ、ちゃんと聞いてませんでしたわ!」
剛心は少し首を傾げた。
「そうだったか?」
そして、胸を張って言い放つ。
「だが、よく考えてくれ。OSだって3ヶ月ごとに大型アップデートが来る。道場も進化し続けなければならん。あと、うっかり“放置”してると、勝手に再起動されて作業が全部飛ぶぞ」
観客席のウスゲーが、涙ぐみながら頷く。
「なるほど、さすがシンだ……!」
ハーゲンも頷きながら唸る。
「常に2手3手先を読んでいたってことで……」
剛心は一歩進み出て、道場を見渡すように高らかに告げた。
「最後に、これからは道場の“ガバナンス”も時代に合わせて進化させる。一本取った者には“道場株”が一株発行される。押忍の声が大きい者にも“特別優待株”を配布する」
「え、押忍の声量で……?」とハーゲンが驚く。
剛心はうなずきながら、重々しく答える。
「そうだ。『押忍』という意思表示は“道場の信任”そのものだ。1押忍=1株だ」
「じゃ、声出せば出すほど株主に……?」とウスゲーが問う。
「その通りだ!でも、無意味な押忍乱発には“株式分割停止”を設ける。品格も大事だ!」
リゼリアは、ついに頭を抱えた。
「意味がわからないですわ……!」
「株主は“師範選出会議”に参加できる。なお、議決権行使には“清掃当番を終えていること”が必須だ!」
優希は、空を見上げた。
「この人たちダメだ……もうストーリーの流れとか王道展開とか、そういうのが欠落してる……」
クロはくすりと笑い、こう呟いた。
「“シン式道場運営術”にゃ」
「押忍ッ!!」
ハゲ三人衆の声が道場に響く。
剛心は深く頷いた。
「うむ、今三株発行されたな」
日が傾き、道場の門の外には朱に染まる光が差し込んでいた。戦いの終わりを告げるように、夕暮れが街を包み込んでいく。
人々は足早に道場を後にした。だがその足取りには、確かな余韻が残っている。誰もが今日の試合に胸を打たれ、口々に何かを語り合っていた。
エンケの拳──それは、ただの肉体の動きではなかった。キュ力というこの世界の常識を覆し、“意志”だけであれほどの熱を生み出す。観戦していた者たちの眼差しには、驚きと敬意と、そして何より「わからなさ」があった。
リゼリアのキュ力もまた、華やかでありながらも、今までにない使い方だった。それは見せびらかす光ではなく、鍛錬の末に磨き抜かれた技術の軌跡。その制御、その重さに、人々は初めて“本物”というものを見たのかもしれない。
通りにはまだ、戦いの余韻が残る会話が点々と響いていた。
「……あんな戦い、初めて見た。何かが変わる気がする」
「聖典って……なんなんだろうな……」
その言葉に、一瞬空気が揺れた。
「おい、なんてこと言うんだ。聖典は……絶対だろ?」
すぐに打ち消すような声が飛ぶ。しかし、否定の言葉はどこか空々しく、夜風に乗って溶けていった。
「そう、だと思うんだけど……なんかな」
その呟きは、誰に届くでもなく、ただ夕闇のなかに吸い込まれていった。だが確かに、そこには芽があった。疑問という名の、変化の芽が。
———
《RestructureCompleted: fallback schema applied》
── 聖典の再構築が完了しました。新スキーマを適用。
《UserPenaltyAssigned》
Entity '東雲 剛心' flagged [Threat Level: A]。
── 対象ユーザー『東雲 剛心』、危険思想の流布によりクラスA妨害因子として指定。
《EnforcementDirectiveIssued》
Affiliates of Entity ‘東雲 剛心’ classified for immediate enforcement.
── 対象ユーザー『東雲 剛心』に属する人物群を、クラスA妨害因子との関連性に基づき即時執行対象とする。
———
クロが、ぽつりと呟いた。
「冗談の通じない奴だにゃ……」




