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GDPR違反で異世界召喚が止まった話


気づけば、男は真っ白な空間に立っていた。


上下左右に境界はなく、床のようなものがあるのに影はない。重力は確かに感じるが、風も匂いも存在しない。ただ、自分の呼吸音だけが、静かすぎるほどの空間に反響していた。


そして、正面。


そこに佇むひとりの老人。

白いローブを纏い、長い髭を胸元まで垂らし、神々しさを漂わせている。


しかし、その顔は今、ピクピクと怒りに満ちていた。

眉が吊り上がり、握った杖がカタカタ震える。


「なんでわしのトラック壊した?」


第一声がそれだった。


男の眉がぴくりと動く。


「……わしの、だと?」


ぐっと目を細め、低く問う。


「つまり……貴様が雇用主か!!」


怒りのボルテージが一気に跳ね上がる。拳を握り、踏み出そうとする。


「聞けッ!無茶な運行スケジュールを組ませて、労災対策も不十分な環境で……!」


「即刻、彼らの労働環境を是正しろ!! 睡眠時間の確保!走行ルートの見直し!あと“異世界”という意味不明な表記を業界内で統一すべきだ!」


老人はひとつ深く息を吸った。


「……そこからか!? 違うわ!! わしは神じゃ!!」


「神……?」


男は一瞬戸惑った。

だが、その解釈がすぐに別方向へ加速する。


「なるほど……つまり何かの武道流派の創始者か」


腰を低くして頭を下げるように礼を取る。


「これは無礼を働いた。だが“神”などと名乗るからには、相応の責任があるはずだ。お前が体系化した武術がどれだけの現場の労働環境を破壊してきたか──」


「違う!!違う違う!!そうじゃなくて!」


老人はもう完全に苛立ちを隠さない。


「神様!人智を超えた存在じゃ!そういう役割なんじゃよ!」


「……人智を超えた?」


「いやだから話を進めさせてくれッ!」


すると、老人の前に——唐突に、何の前触れもなく——空中に薄く淡く光る半透明のスクリーンが“ポン”と現れた。

まるで空間そのものにウィンドウを開いたかのような現象だった。


「……おお、出た出た」


「えー、名前が……東雲 剛心。空手七段。ふむふむ……」


「他に柔道、柔術、合気道、古武術、レスリング、カポエイラ……」


スクロールの指が止まる。


神の指が、ピタリと止まる。


「……って、これ……」


しばし無音。


「どれも達人クラスってどういうことじゃ!!!?おぬし何者じゃ!!?」」


「……山に籠った結果こうなった」


「だからなんでじゃ!!」


神は思わず叫んだ。その声が、虚無の空間に反響して消えた。


「……一ついいか、ご老体」


神は少し警戒しつつも、うなずいた。


「なんじゃ?」


剛心は、ぐっと腕を組み、静かに告げる。


「個人情報保護法はご存知か?」


「は?」


「先ほどのやり取り、氏名・戦歴・武道歴を本人の同意なく読み上げていた。あなたの時代では問題なかったかもしれんが、現代ではそれは個人のプライバシーに関わる。特にフルネームの公開はリスクが高い」


「…………」


「もし俺がEU圏の国籍を持っていれば、GDPR──つまり一般データ保護規則に抵触する可能性すらある。国境をまたぐ処理においては特に——」


「……」


老人はしばし固まったあと、眉間を押さえて深いため息をついた。


「……これでどうじゃ?」


ぱちん、と指を鳴らすことすらせず。

ただ、言葉に合わせて、彼の姿がゆらりと揺れる。


次の瞬間、そこに立っていたのは──


黄金の髪を波のように垂らした、妖艶な美女。

白いローブはそのままに、抜けるような白い肌と豊かな曲線が視線を奪う。


剛心「……なっ!?」


完全に硬直した。


だが、神は容赦しない。


その姿がまたふわりと変化し、今度は手のひらサイズの小さな妖精のような存在に。

ピンク色の羽がひらひらと揺れている。


剛心、沈黙。


さらに姿がまた変わり、元の白髭の老人へと戻る。

杖をトンと地に突きながら、神は言った。


「──これでわかったか?」


剛心はしばらく沈黙していたが、やがて口を開いた。


「なるほど……つまり……マジシャンか?」


「違う!!」


神の叫びが、空間にこだました。


再び、静寂。

その静寂は、まるでその軌道がどこまでも交差することなく続いていく未来を、慎ましく予告しているかのようだった。


それから、小一時間が経過した。


この空間では時間の概念が曖昧なはずなのに、なぜか「一時間だった」と断言できる程度には、やり取りは長かった。


今、そこには、肩で息をしている老人と、仁王立ちのまま微動だにしない男の姿があった。


「──では、ご老体、いや神よ」


男、東雲 剛心は、静かに言った。


「あなたは、現世で辛い思いをした者に“チートスキル”とやらを与え、異世界で幸せに暮らせるようにしていると?」


「そうじゃ……」


老人はもう完全にぐったりしていた。

白いローブの裾を片手で仰ぎながら、息も絶え絶えにうなずく。


「無双、下剋上、スローライフ、ハーレム──誰もが幸せになれるようになっとる」


その声には疲労と同時に、どこか悟ったような、あるいは諦めたような響きがあった。


「……そういうのがええんじゃろ?お前たちは。

だから、そういう風にしておる」


言い終えると、神は片手をゆるりと掲げた。


すると、空中に巻き物が現れ、音もなく広がっていく。

その表面には、金色の文字が次々と浮かび上がる。


——


【選択可能スキル一覧】


・【全属性魔法Lv.999】

・【アイテム無限所持】

・【ハーレム耐性 +300%】

・【成長速度 ∞】

・【物理完全反射】

・【絶対説得】

・【空間跳躍】

・【料理天才(異種族対応)】

・【死亡時復活:∞】

・【ステータス画面の美麗化】


——

巻き物は、静かに漂っていた。

金色に輝く文字が並び、世界を掌握できるほどの“力”が、そこにはいくつも記されている。

まるで玩具のように、軽やかに提示されたそれを、剛心は一瞥しただけで視線を外した。


沈黙が落ちる。神は促さない。ただ、選ばれることに慣れきったような目で、待っていた。


その沈黙を破ったのは、剛心だった。


「……はたして、それは強さか?」


低く、静かな声だった。だがその音には、何かを試すような棘があった。


「は?」


老人──いや、神は小さく眉をひそめ、思わず聞き返す。


剛心は巻き物を見ることなく、ゆっくりと自らの右拳を見つめた。

その拳は、かつてのものではない。皮膚は硬く、節くれだった関節は変形し、まるで鍛冶場で鍛えられた鉄塊のように、もはや“人体”のそれとは異質になっていた。


「それは強さではなく、単なる“力”だろ」


言葉は淡々としていたが、どこか突き刺すような重みがあった。


「確かに、俺は誰にも理解されずに日々鍛錬を重ねた。他人から見れば、それは狂気か、あるいは自傷の一種に見えたかもしれん」


ゆっくりと拳を握る音が、白い空間に響く。


「だが、その時間こそが、俺の強さを作ったんだ。痛みも、恐怖も、孤独も……自分の意志で飲み込んできた。逃げる理由はいくらでもあったが、それを超える理由を、俺は自分で見つけてきた」


神は無言だった。だがその目は、どこか困惑すらしていた。


「あなたは……何も考えずに力を与える。無邪気に、慈悲のつもりで。けれど、その力を手にした者が、何かに失敗した時……それをスキルのせいにするとは考えなかったのか?」


剛心の言葉に、神の表情がわずかに動いた。だが、その意図は読めない。


「創造する機会を、奪っていないか? 自分の意志で選び、踏み出すという本質を……削いでいないか?」


剛心の声は、怒りではなかった。ただ、静かだった。あまりにも静かで、それが逆に、問われる側の心に刺さる。


「……それは、虚しくないか?」


最後の言葉は、叱責ではなく問いだった。

同情でもなく、嘲笑でもなく──ただ、純粋な問い。


だが、神は答えなかった。


否、答えられなかったのだ。


理解できないわけではない。

ただ、理解するという概念が、そもそも彼の“設計”には、組み込まれていなかった。

システムとしての“神”には、その問いに対する応答のアルゴリズムが存在しない。


空間に再び、深い沈黙が降りた。

ただ、それは先ほどまでの沈黙とは違っていた。


問いが存在し、しかし応えが存在しない──

それが、この場所に初めて生まれた、確かな“断絶”だった。


「……俺は」


低く呟いたその瞬間、拳に熱が走った。

皮膚の下で血が沸き立ち、筋肉が軋む。

熱ではない。覚悟が、内から外へと染み出していく。


東雲 剛心は、笑った。


その笑みは、どこまでも静かで、どこまでも研ぎ澄まされていた。


一歩、踏み出す。


構えは極限まで無駄を削ぎ落とされ、ただ一点、手刀が巻物に向けて放たれた。


紙を裂く音はなかった。

あまりにも速く、あまりにも鋭く、剛心の手刀は金色の巻物を真横に断ち割った。


その瞬間──


白い空間が激しく脈動する。


「ERROR:選択肢未定義」


機械とも生物ともつかない、声のようなものが空間全体から響く。


「再構築を試行します──」


視界が、音が、すべてが歪んでいく。

バチバチと光が弾け、床も天も、概念すらあやふやになる。


だが、剛心は動じなかった。


拳を下ろしたまま、揺るがぬ声音で叫ぶ。


「何もいらない!」


「与えるなら──困難を、苦難を、災難を与えろ!!!」


空間が軋み、まるで世界そのものが悲鳴を上げるように明滅を繰り返す。


その光の中で、神は初めて、静かに息をついた。


「……そっか。お前は、何もいらんのか」


その声には、驚きも怒りもなかった。ただ、静かに何かを悟ったような響きがあった。


やがて、老人の目が淡い光を帯びる。

それは怒りでも慈悲でもない、“意思”の光だった。


「なら、苦しめるだけの世界に送ってやる」


「望んだのはそれじゃろう? “強さ”とやらを求めたんじゃろう?」


白の空間がひときわ明るくなる中、剛心はふっと口元を緩めた。


「……それでこそだ」


そして、光の中へと歩みながら、剛心は言い放つ。


「新たな階段が見えたな。あとは──登るだけだ」


眩い光が剛心の全身を包み込む。


その姿が完全に光に飲まれる直前、神はわずかに呟いた。


「……やれやれ。厄介なやつを引き当ててしもうた」


光が、すべてを覆い尽くす。

そして次の瞬間、東雲 剛心の姿は、完全に消え去っていた。


──残された空間には、静寂だけが残っていた。


光は戻り、空間は元の均衡を取り戻している。

だが、そこには確かに、ひとつの痕跡が残されていた。


神は、ゆっくりと腰を下ろすと、自らの手のひらに乗せた巻物の破片を転がす。

紙のようでいて紙でないそれは、裂けた箇所からかすかに金色の光を漏らしていた。


「……ほんとに、面倒な存在じゃな」


ぽつりと、言葉が漏れる。


「与えれば文句を言い、奪えば怒る。欲しがるかと思えば、拒む」


手の中の破片が、小さく跳ねた。

無音の空間に、乾いた指先の動きがやけに大きく響く。


「非論理で非効率……ほんと、“人間”というのは、仕様が不安定じゃのう」


神はふっと目を細める。

その目に浮かんでいたのは、理解でも共感でもなかった。


それは、ただの“当惑”だった。


あらゆる情報を分類し、体系化し、効率化し、幸福へと導くシステムとして存在してきた神にとって──

あの男は、明確に“未定義の変数”だった。


予定調和を拒み、選択肢を斬り捨て、規格からはみ出すことを恐れない。


それを異常と断ずることもできた。

だが──それは、あまりに人間だった。


神は、手のひらの破片を見つめながら、ほんの一瞬、微かに笑ったようにも見えた。


「……さて。次の選別者を探さねばのう」


静かな独り言とともに、神の姿もまた、ふっと空間に溶けるように消えていった。


無人となった空間に、ただほんのわずかに、剛心の裂いた空間の亀裂だけが、うっすらと残っていた。


それはまるで、“定義されなかった答え”の名残のように、そこに在り続けていた。


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