ここが効くんだ、塗ってみろ
──その日、道場の空気には、いつになく熱がこもっていた。
朝露がまだ畳に残るうちから、人々はぽつぽつと集まり始めていた。試合の噂は風より早く町を駆け、今日この場に“何か”が起きると、人々の本能が告げていたのであろう。
「剛心さん、来たよ」
道場の門をくぐったのは、ひとりの少年。大剣を肩に下げたその姿は、どこか場違いな“正義感”の匂いを漂わせていた。
「おぉ、助かる。怪我人が出た時は治療を頼む」
剛心は、まるで天気を伝えるかのように自然にそう言った。
「にゃるほど、それで優希を呼んだにゃ」
傍らで尻尾を揺らすクロが納得顔で頷いた。
「あぁ、そうだ」
「……剛心さん?」
呼びかけた少年の目には、言い知れぬ疑念が浮かんでいたが、剛心はそれをさらりと受け流す。
「時間だな。では、一回戦を始める」
そう言うと彼は静かに立ち上がり、中央へと歩を進めた。
名乗り上げられるまでもなく、二つの影が畳の中心に進む。ひとりは、頑強な脚を持つ漢・ハーゲン。もうひとりは、どこか不安げに見えながらも瞳を逸らさぬ青年──エンケ。
「今日は逃げるなよ」
「……おう」
それは挨拶のようでいて、どこか兄弟のような距離感を孕んでいた。
「しゃッ!」
開始の声とともに、ハーゲンが瞬間的に間合いを詰める。まさに弾丸。彼の拳が閃いた──だが、それは空を切った。
「ふぅ」
エンケは一息。紙のように軽く身を流し、その場を離れる。
「くっ……!」
ハーゲンが悔しげに歯噛みするも、攻め手を緩めない。
周囲の空気がざわめいた。
「おい、逃げてんじゃねぇ!」
「つまんねぇぞ!」
観客たちは見慣れぬ“沈黙の応酬”に苛立ち始めていた。
「これは……試合ですか? まるで……狩りみたいですね」
そう呟いたのは優希。神聖さと混乱を併せ持つその眼で、光景を見つめていた。
「いや、違う」
剛心が静かに応じた。
「今、獣はどっちだと思う?」
「えっ? 逃げてるだけじゃ……?」
「距離とタイミングを合わせている。よく見てみろ」
その言葉に、少年の目が見開かれる。
確かに、初めこそ大きくかわしていたエンケの動きが、徐々に変わってきていた。
ハーゲンの拳を、ギリギリで躱す。紙一重どころか、毛髪一束分の差──
エンケの瞳が、鋭く細められる。
まるで、獲物の息を読む猛禽のように。
そのとき、風が変わった。
ハーゲンの猛攻は、もはや舞うような連撃ではなかった。拳、肘、膝、脚、そしてまた拳。畳がきしみ、空気が裂ける。だが──
「動きは見えてるはずなのに……なんで当たらねぇ……!?」
その胸中に渦巻く困惑は、観客には伝わらぬ。ただ、男の荒い息づかいが、静まりゆく道場に音を残していた。
大きく、息を吸い込む。
「押忍!!」
その声は、まるで神前での一声のように場を切り裂き、あたりの空気を粛然とさせた。観客の誰もが息を飲み、瞬きさえ惜しんだ。
(関係ない。シンプルだ。最速、最短で沈める。それだけだ)
心の中で呟いたハーゲンの構えは、見た目にもわかるほど深く沈んだ。脚はわずかに開き、重心は完璧な低さを保ったまま、前脚に圧をかける。爆発する予兆。
そして、地面が鳴った。まるで山の裾野を踏み鳴らす獣のように、ハーゲンの身体が疾走する。
対するエンケの瞳は、恐れを湛えながらも、逸らさなかった。
(怖くないと言ったら、嘘だ……でも)
剛心の言葉が、彼の背にあった。
(……シンは俺を信じてくれた。だから……俺も、俺を信じてやらなきゃ……できる!)
次の瞬間、吹き荒れる拳の“風”すら読み取ったかのように、エンケはその下へ潜り込んだ。
その動きに、観客席からは感嘆とも悲鳴ともつかぬ声が上がる。
(これは……練習の延長なんかじゃない。あのとき、誰にも見られずに、巻藁の前で……ただ、ただ、ひとりで繰り返した)
数千回。いや、数万か。名もなき努力が、今、実を結ぶ。
拳が──届いた。
それは剛心譲りの“ど真ん中”、迷いなき中段突き。美しく、そして無慈悲に、ハーゲンの鳩尾を撃ち抜いた。
「ぐっ……!」
ハーゲンの身体が、わずかに沈む。膝が揺れる。空気が揺らぐ。
だが──そのまま倒れはしなかった。
「まだ……終わらねぇ!」
苦しげに吐く息は、まるで肺を裏返したような音だったが、それでも男は膝をつかなかった。足を踏みしめ、肩をいからせ、立っている。
──まるで、自身の限界ごと踏み越えるかのように。
それは、倒れる美学を忘れた男たちの、異様に真剣なやりとりだった。
道場に、ふたたび緊張が走る。
「立った!!」
観客席の誰かが叫ぶと、次の瞬間には沸き上がるような歓声が場を満たした。だが、それをよそに、土の匂いと汗の残る道場の中央では──二人の男が、ただ拳だけを信じて立っていた。
ハーゲンの構えが、音もなく沈む。
その姿は、もはや“戦士”というには幼く、“猛獣”というには真っ直ぐすぎた。ただ、誰よりも強くなりたいという欲望が、彼の全身を燃え立たせていた。
(入り際を狙うなら……入らせなきゃいい。足で刻む! 押し切る!!)
獣は、自ら餌を運ぶことをやめた。
「破ああああっ!!」
吠える声とともに、重い前蹴りが唸りを上げ、さらにその直後に落雷のごとく正拳突きが降り注いだ。それは、打ち下ろすというより、地に拳を穿つ連打。振動が畳を伝い、観客席の空気すら微かに震わせる。
しかし──
「っ……速い! ギリギリだ……でも——!」
エンケは逃げなかった。
かといって、真正面から受けることもない。ただ、紙一重。
右肩をかすめる一撃、脛先を掠める蹴り。どれもが刃のように鋭く、ほんの一歩、いや、半歩でも間違えれば即倒される攻撃。
だが、彼は見切っていた。
(ここまで、見えてる……見えてるんだ)
体が先に反応している。かつて頭が真っ白になった恐怖は、いま、血の通った直感へと変わっていた。
そして──ひと呼吸。
打ち終わった拳を戻す、ハーゲンのその動作。ほんの刹那、呼吸を取り戻そうとした身体が、ごくわずかに間合いを崩した。
それを、見逃す目ではなかった。
「……戻りが甘い。足がついてきてないな」
剛心の低くも静かな観察が、誰に届くともなく場に漂ったその瞬間──
「——ここ!」
声とともに、エンケが踏み込んだ。
“後の先”——攻撃を受けることで、先に出る。
防御からの流れを読み、攻撃の隙を穿つ。技術でも、力でもなく、己が磨き抜いた“読み”と“間合い”によって生まれた一撃。
拳が、ハーゲンの顎を突き上げた。
ズバァンッ!!
音は、濁流のような歓声を切り裂いた。瞬間、時が止まったかのような静寂。
そして──
ハーゲンの巨体が、ゆっくりと傾き、まるで倒れることすら武道の一部かのように、静かに、畳へと沈んだ。
誰も、言葉を発さなかった。
ただ、倒れ伏した背中と、それを見つめる一人の少年の拳が語っていた。
これは偶然ではない。運でも奇跡でもない。
“訓練”が、“勇気”を越えた瞬間だった。
静まり返った道場に、重々しい呼吸音だけが響いていた。
畳の上、仰向けに倒れたハーゲンは、なおも拳を握ったまま天を見つめていた。目に映るのは、木造の高い天井──いや、その先の、遥かな理想。
「スピードに……頼りすぎた……」
言葉は、自責ではなく静かな“学び”として吐き出された。
「……もう一度……基礎からだ……」
その声に、誰も笑わなかった。なぜなら、その倒れ方があまりに真摯で、あまりに真っ直ぐだったからである。あたかも、敗北すら“成長の一手”と捉える者の佇まいに、観客は言葉を飲み込んだ。
そして──
「勝者、エンケ!」
その宣言を皮切りに、張り詰めていた空気が弾けるように崩壊した。
「うおおおおおおおおッ!!」
「逃げの美学! 成立したぞ!」
「紙一重!? いや紙以下だろあれ!」
淡い日差しが差し込む木造の一室。そこで、ハーゲンは呻いていた。
「う、腕が上がんねぇ……」
その声は敗者の悔恨ではない。ただ、物理的に上腕二頭筋が役目を果たさなくなった事実に対する、素直な報告であった。
その瞬間、風のように現れた男がいる。
剛心。
「これだな」
そう呟くや否や、道着の袂から取り出されたのは——透明の瓶。中には、煌めく青色の液体が揺れていた。
「打ち身にはこれだ、“冷却と収縮”が鍵だ。エアサロンパスだな、さぁ……」
手際よく、容赦なく、剛心はそれを“振った”。
構えは完璧だった。型の無駄は一切なく、寸分の狂いもない。
だが。
「ちょっ……待ってください剛心さん!」
優希が全身で割って入った。動作はまるで、爆弾の導火線を止めに行く者のようであった。
「そのポーションは!飲むものなんです!皮膚に直接吹きかけちゃダメなんですってば!」
剛心は眉をわずかにひそめた。
「……何?」
その表情には、深い思索と文化的衝撃が宿っていた。
「飲む……?この、塗った瞬間“ヒンヤリ”するやつを?」
彼は目の前の瓶をまじまじと見つめ、あろうことか瓶の裏面を逆さに読み始めた。
「“常温保存推奨、光を避けて保管”……ふむ、これは……やはり外用だろう」
「剛心さん、それ説明書じゃなくて“薬品保管ラベル”です!」
「いや、だが塗った瞬間に爽快感が走る、というのは……俺の中では“即効性の証”とされている」
「それ完全に気のせいです!」
剛心の視線が一瞬宙を泳ぐ。まるで、自らの信じてきた冷却文化が揺らいでいるかのように。
「……まさか、エアサロンパス“EX”の次が……“INTERNAL USE ONLY”だったとは……」
「違います!!最初からそうです!!」
その場の空気が一瞬静止した。
ふたりのやり取りを、ベッドの上から見守っていたハーゲンが、ポツリと呟く。
「……俺、どっちでもいいから早く治してくれねぇかな……」
拳が語る世界に生きる者と、錬金術に生きる者と、ついでに打ち身の者——
三者三様の文化が、救護室の片隅で静かに衝突していた。