夜を超えて、構え直す
夕陽が道場の床板に長く伸び、木の温もりとともに影を染めていた。
剛心は、濡れた稽古着の襟元を静かに拭いながら、ゆっくりと一歩を踏み出す。言葉は少ない。されど、その一歩に呼応するように、弟子たちの気配がざわりと動いた。
「……今日の稽古はここまでだ。みんな、ちょっと集まってくれ」
その呼びかけに、誰よりも早く反応したのは、例によって頭頂部の眩しい者たちである。
「押忍ッ!!」
気合とともに列を成すのは、いつもの光景である。そこへ、エンケがやや腰を引きながら、リゼリアが胸を張って、クロがふわりと音もなく加わる。
そして、静寂の中で宣言された。
「この道場もできて、月日は流れた。そろそろ……“師範”を決めようと思う」
言葉は穏やかだったが、その響きは重かった。道場に、一瞬だけ風が吹いたような沈黙が訪れ——すぐさま、ざわめきが広がった。
「し、師範って……当然、シンが……?」
ウスゲーが首を傾げると、剛心は即座に首を振った。
「いや、俺じゃない」
その否定は、まるで断崖のように揺るぎなく、聞く者すべての思考を一度止めた。
「なっ……なぜですの? 一番強いのは、間違いなくあなたですわ!」
リゼリアの声には、驚きと困惑、そして——どこか焦燥すら滲んでいた。
だが剛心の返答は、逆に落ち着いていた。いや、それ以上に、確信に満ちていた。
「この道場は、誰かに教えられる場じゃない。“自分で強くなる場所”だ。これからもずっと——だから選ぶ」
剛心の眼差しは、誰一人を特別視せず、等しく全員を見据えていた。かえってそれが、誰もが試されているように思わせた。
「……それじゃ、やっぱりシンがいいんじゃねぇで?」
と、ぼそりと漏らしたのはハーゲンである。至極もっともな疑問ではある。
「俺は……そういうのが合わない。ずっと挑戦者でいたいんだ。“完成”なんてしちまったら、拳が止まる」
その言葉に、場の空気が少し、きりりと締まった。
そして剛心は宣言した。
「三ヶ月後、“試合”を開く。そこで一番強かった奴が、この道場の“初代師範”だ」
それは、単なる競技ではない。彼の哲学に基づく、意思の継承儀式であった。
「しょ、初代ってことは……?」
エンケが恐る恐る問うと、剛心は頷く。
「そうだ。2代目も、3代目もある。俺が教えるんじゃない。お前たち自身で技を磨いていくんだ」
その瞬間、誰ともなく息を飲んだ。
そして沈黙の中、ウスゲーが一歩前に出て、鼻をすんとすすった。
「……むずかしいことはわかんないけど……シンが言うなら、それであってる気がする」
それは彼なりの、最大の信頼の証だった。
リゼリアはその言葉に微笑みながら、そっと頷く。
「……ほんと、あなたって人は……なんだかんだで、一番先にいるんですのね」
その言葉が合図だったかのように、弟子たちの表情に、自然と笑みが広がっていく。
陽は、すでに傾きつつあった。
けれどこの道場には、夜を恐れぬ者たちの声が、確かに息づいていた。
夜の帳がすっかり降り、道場はしんと静まり返っていた。
あれほど喧騒に包まれていた床板も、今はまるで呼吸を忘れたかのように沈黙を守っている。月明かりだけが、わずかに廊下へと差し込み、木の肌を銀色に照らしていた。
その静寂の中を、ひとつの影が歩んでいた。
小柄な身体に不釣り合いなほど慎重な足取り。肩にかけた小さな風呂敷包みは、彼の決意の軽さと重さを同時に示していた。
エンケである。
彼はそっと足を止めると、脇の柱に手を置いた。手のひらが触れたのは、浅く裂けた傷痕だった。
「……この傷……」
誰に向けるでもない声が、夜気に溶けた。
「……あの時、ウスゲーがぶつかって……俺が吹っ飛んで、ここに……」
指先で、その痕をなぞる。節くれだった木目の中に混じるわずかな破線。それは、この場所に彼が“いた”という唯一の証だった。
苦笑とも、諦めともつかぬ表情が、彼の口元に浮かんだ。
「……俺はやっぱり、ここに居ちゃいけないんだよな……」
それは断罪ではなかった。ただ、どこまでも静かな、自己の確認であった。
道場の一室。畳の香りがほのかに漂い、時間が凍ったような静けさの中にあった。
障子戸の前に立つ影がひとつ。エンケである。
その表情には決意というにはあまりに儚い、だが確かに一線を越える者の影が差していた。
「……シンにだけは、挨拶しとかないと……」
小さく呟いた後、彼はそっと扉を指先で叩いた。音は控えめだったが、それでも夜の道場にはよく響いた。
中では、東雲剛心が座布団の上で静かに坐していた。目を閉じ、両膝を折り、呼吸一つすらぶれぬ姿。だがエンケの気配に、わずかに瞼を持ち上げる。
「どうした、エンケ。夜更けに」
その声音に、責める色は一切なかった。ただ、変わらぬ落ち着きと、淡い関心のみがあった。
エンケは目を伏せ、風呂敷をぎゅっと握る。
「……俺、辞めようと思います」
言葉は、ぽつりと落とされた石のように静かで、しかし重かった。
一瞬、空気がわずかに震える。剛心は、まばたきひとつせず言葉を返す。
「なぜだ」
それは問いというより、ただの事実確認であった。
エンケは口を開くまでに、しばしの間を要した。
「俺には、向いてないと思うんです」
声は、震えていた。
「組み手になると……足がすくんで、何もできなくなる……あの頃のこと、思い出して……」
その言葉には、言い訳も虚勢もなかった。ただ、過去から抜け出せない少年の、剥き出しの痛みだけが宿っていた。
「みんな……奴隷だった頃から進んでる。強くなって、変わってる。でも、俺は違う」
畳に視線を落としたまま、彼はなおも言葉を続けた。
「俺みたいな奴が、この道場にいても……迷惑なだけだと思って」
喉が乾いているのか、呼吸は途切れがちだった。
「毎朝ここに来るたびに……怖くなるんです。いつか、“やれる”と思ったけど、みんなどんどん先に行って……俺だけ、柱の陰から見てるままで……」
そこには、誇りも嘘もなかった。ただ、追いつけなかった者の静かな独白があった。
そして剛心は、まだ一言も、言葉を返していなかった。
剛心は、静かに立ち上がった。
その動きには威圧も怒気もない。ただ、何かを確かめようとする者の、慎重な歩幅だけがあった。彼は歩み寄ると、目の前の少年を見据える。
「……エンケ。拳を見せてくれないか?」
低く、しかし決して曖昧ではない声。
エンケは目を瞬かせた。
「えっ……?」
混乱と警戒が入り混じった声音。しかし、剛心の眼差しに嘘がないことを悟ると、戸惑いながらも、ゆっくりとその拳を差し出した。
その拳は、小さく震えていた。だが、明かりに照らされたそれは、ただの“逃げる者”の拳ではなかった。
拳頭は潰れ、指の皮は厚く硬化し、古い裂傷の痕が幾重にも重なっていた。
剛心は、静かに微笑んだ。
「——良い拳だ」
その一言が、夜の道場に落ちると、まるで時が止まったかのように、静けさが染み渡った。
「毎日、本気で巻藁に打ち込まないと、こうはならない。誰にも見られずに、正しい形で、迷いなく……拳ってのは、嘘をつかないからな」
その声音には、称賛でも慰めでもなく、ただ“認識”という名のまなざしがあった。
「俺は知っているぞ」
剛心の声が、わずかに低くなる。
「稽古のあと、ひとりで黙々と正拳突きを続けていたお前を」
エンケの指先が、かすかに震える。
「俺は知っているぞ。他の組み手を、片隅でノートにメモしながら研究していたお前を」
背中に担いでいた風呂敷が、少しだけずれた。
「俺は知っているぞ。誰よりも早く道場に来て、黙って掃除していたお前を」
息を呑んだのは、エンケ自身だった。
胸の奥深くにしまっていたはずの“誰にも気づかれなかった時間”が、今、目の前の男によって言語化された。
それは告発でもなければ、励ましでもなかった。ただひとつの、動かしがたい事実の提示であった。
拳が震えた。唇がわななき、目元が濡れた。
剛心は、静かに言った。
「だから俺は、嘘偽りなく言える」
そして、真っ直ぐにエンケの名を呼んだ。
「——お前は、間違いなく“強い男”だ」
エンケは、すがるように視線を剛心に向けた。だがその目には、まだどこか怯えた影が残っていた。
「でも……俺、やっぱり怖いんです」
声は震えていた。けれど、それは泣き声ではなかった。かすかに笑うような、苦い諦めのような、それでも何かを伝えようとする勇気が滲んでいた。
「組み手になると、頭が真っ白になって……」
それは、昔と同じだ。奴隷として殴られ、怯えていた日々の記憶が、拳を構えるたびによみがえる。足がすくみ、膝が凍り、声が出なくなる。
だが、剛心は首をゆっくりと横に振った。
「エンケ、お前……今までの稽古で、有効打をもらったことがないだろう?」
「……え?」
意外すぎる問いに、エンケは目を瞬かせた。確かに言われてみれば——ウスゲーの巨拳も、ハーゲンの疾風の蹴りも、すんでのところで外れていた。打たれた記憶が、ない。
「……たしかに、そうですけど……」
「気づいていないだけだ」
剛心の声は、ひどく静かだった。
「お前は、とんでもない才能を持っている」
静寂が、道場に満ちた。
「恐怖が動きを止めるのではなく、恐怖が“見えている”という証だ。お前は、相手の動きを先に察し、無意識に逃している。その才は……誰よりも強い“技”になる」
エンケの唇が、かすかに震えた。
「俺にも……力が……?」
「ある」
剛心は断言した。
「“才”と“技”をどう合わせるか……考えてみろ。それは他人に教わるものじゃない。自分の中で練るものだ」
「……合わせる……考える……?」
エンケは、己の拳を見つめた。
あれほど震えていたその指が、ほんのわずかに、だが確かに、静まった。
「そうだ、考えるんだ……俺もこの前、スライムロードと対峙して……関節技を決めようとしたらな」
剛心は、腕を組みながら静かに語る。
「“あれ? そもそもコイツ、関節どこだ?”ってな……」
まるで古代の賢者が哲学的難問を語るような声音であった。だがその実、問題はもっと根源的かつ生物的なものである。透明な球体に見える部位を極めることは、未だ現代生物学の到達していない領域であり、剛心はその答えに正面から挑んだ武道家であった。
エンケは沈黙した。
だがその肩はわずかに揺れていた。それは嗚咽の兆しか、あるいは笑いの堤防の決壊か、一見して判断がつかなかった。だが次の瞬間、彼の唇がわななく。
「……シンも……!!」
涙が頬を伝い落ちる。絶望の涙ではない。ましてや痛みの涙でもない。これは、奇跡的に“理解された”者だけに許された、救済の泣き笑いであった。
剛心は無言のまま、その肩に手を置いた。
「動きは、技だけじゃない。“思考”にも型がある」
その言葉に、道場の柱が軽く震えた……ような気がした。夜の静寂が、わずかにどよめいたのは、おそらく月の気紛れである。
「お前は、すでに型はできている。だから、次は——組み直す番だ」
声は低く、だが確かに響いた。
「お前がそれを見つけたとき、誰よりも強くなる」
剛心の目は真剣であったが、その発言の余韻には、未だ見ぬスライムの関節構造に挑みかかる者だけが持つ、静かな狂気が漂っていた。
こうして、エンケの胸に灯ったのは“希望”であった。
──そしてスライムの話、必要だったのだろうか。
夜は既に深く、道場の裏手に広がる林の奥、月が静かに照らす小さな空き地に、ひとりの少女が立っていた。
白の道着に紅の帯。金色の縦ロールは汗に濡れ、重く肩にかかっている。だが彼女は気にする様子もなく、正拳突きを繰り返していた。型は拙く、拳はまだ軽い。だがその一撃一撃に宿るものは、紛れもない“覚悟”だった。
「いち……にっ……! はあっ……!」
息を吐くたび、吐息が白く散った。季節は春とはいえ、夜気はなお冷たかった。
そして、彼女は足を止める。回し蹴り——半ば反射的に足を振り抜き、近くの老木に打ち込んだ。
バゴン、という音だけが鳴り響き、老木は微動だにしなかった。
リゼリアは膝をつきかけ、肩で息をしながら、唇を噛む。
「……やはり、ダメですわ……」
夜風が彼女の額に落ちた汗をさらっていく。
「魔法を使っても、詠唱の隙で潰されますわ……」
拳を見つめる。細く、白く、鍛えられてはきたが、それでも“戦い”には遠かった。
「体格でも、力でも……私は、みんなに敵いませんのね……」
自嘲するように、ぽつりとつぶやく。
「もう……」
その言葉の先を、彼女は言いかけて、首を振った。まるで、そこに触れることすら許されぬように。
「……何を考えてますの、私。みんな、私の練習に……ちゃんと、付き合ってくださってるじゃありませんの」
そして、ふと視線を落としながら、小さく呟いた。
「はじめは……見下していましたわ。毛根が死んでいると……」
それは事実であった。彼らの頭髪は、異常なまでに生命力を失っていた。しかしそれは、この地における高潔と誇りの象徴でもあったのだ。
「でも、ここにいる皆さまは……優しい。お世辞も、社交辞令も抜きに、まっすぐ向き合ってくださる」
小さな声で、そう言った後、彼女は拳をゆっくり握り直した。
「……自分が、恥ずかしい。だから、次の試合で……見せないと!」
答えなど、まだ持っていない。
だが、問い続けることはできる。拳で、自分に。
「……まだ、答えは出ませんわ。でも——それでも、振り続けますの。いまの私にできるのは、それだけですわ」
もう誰も見ていないこの夜の林で、少女は再び拳を振り上げた。
拳を振るたび、月光にその髪が揺れる。
それは、答えなき問いかけ。だが確かにそこに“意志”があった。
そして月は、ただ静かに、その小さな決意を照らし続けていた。