扇風機とグリフォン
道場が完成した。
剛心の手によって築かれたその建物は、外見こそ質素ながら、どこか神域めいた気配を湛えていた。徐々に人々が集まり始めていたが、その多くが、共通の“喪失”を抱えていた者たちだった。
——髪を失った者たち。
キュ力を失い、社会の底に落ちた彼らにとって、この場所はただの建物ではなかった。希望の砦であり、再生の場であり、再び立ち上がるための“床”そのものだった。
建築職人たちもまた、噂を聞きつけて見学に訪れていた。
「……これが、あの“水の蓋”か……」
一人の職人が、排水口の中を覗き込む。彼は長く衛生設備に携わってきたが、そこに見たものは、未知の思想だった。
「水で……臭いを封じる……。まさか、そんな発想が……!」
排水口の先に広がるのは、無臭の奇跡。名も知らぬ異邦の技術、それは彼らにとって“術”に等しかった。
一方、若き弟子が、中央の柱を見つめていた。
「し、師匠……! これ……載せてるだけですよ!?」
石の上に無造作に据えられた柱。固定もなければ、補強もない。どこかの工事現場なら、即刻やり直しの命令が出るだろう。
「モルタルも……アンカーも……なにも……!欠陥住宅にも程が……!」
だが、その訴えに、老いた師匠は沈黙で応じた。
しばしの沈黙——そして、低くつぶやく。
「……地は、息をしている」
弟子はぽかんと口を開けた。
「えっ……?」
「地は、震える。うねる。裂ける。人の手など、それに抗う術はない。
だがこの柱は……見ろ。固定せず、縛らず、ただ“在る”のみ」
師匠は拳を握りしめ、遠くの山を睨んだ。
「これは……地と共に生きようという構え……!
地の脈動に、柱ごと“同調”しようという、悟りの建築思想……!」
「い、いや……多分、面倒くさかっただけなんじゃ……」
弟子のつぶやきは、空気を裂く雷鳴となって跳ね返ってきた。
「愚か者!!!!」
「ひっ!?」
雷鳴の如き怒声に、弟子は縮こまる。
「お前は知らんのか……四十年前の噴火を!!あのとき、強固な礎を誇った教会も、城壁も、崩れ落ちたのだ。
されど、山間の町家は生き延びた。なぜか……わかるか?」
「え、えぇと……」
「それは、固定しなかったからだ!抗わなかったからだ!地の怒りを受け止め、いなしたからだ!!」
弟子はごくりと唾を飲む。
「し……師匠、つまり……」
師匠は目を閉じ、詩人のように語り出した。
「空を縛らず、海を囲まず、大地と和し、人を導く……。
この建築は、もはや“構造”ではない。思想だ。存在そのものだ……」
鼻息荒く、師匠は門前に立ち叫んだ。
「ゴウシンどのは、いらっしゃるかッ!?」
リゼリアが、やや呆れた様子で応じる。
「……さっき『散歩してくる』と出て行きましたけど。もうすぐ戻るかと」
リゼリアが肩をすくめたその瞬間——
丘の向こうから、なにやら巨大な影が現れた。よく見れば、それは——全長三メートルを超える魔獣、グリフォン。その屍を背中に担ぎ、悠然と坂を下ってくる剛心の姿だった。
その圧倒的な光景に、誰もが言葉を失った。沈黙ののち、最初に声を発したのは、例によってハーゲンである。
「……えっ!? グリフォンじゃねぇですか!? ど、どうやって……?」
剛心は平然とした顔で応じた。
「あぁ、今日は焼き鳥だと思ってな」
一同、沈黙。誰ひとり、冗談か本気かを判別できなかった。
「なかなか面白かったぞ。最初は突風で間合いが取れなかったからな」
武道家としての純粋な所感だった。だがそれを聞いたリゼリアは、ふむと頷く。
「確かに、グリフォンの突風は岩も破壊しますわ」
「うむ。だが、なんとか近づけたのも、“心の強さ”あってのことだ」
「……心!?」
あまりにも精神論に寄った結論に、リゼリアの理性が悲鳴を上げる。
しかし、問題はその“論理の飛躍”に誰も疑問を抱かないことだった。
「なるほど……やっぱり最後は“心”なんですな……」
「風に負けない気持ち……それが強さ……!」
弟子たちは深く頷き、感銘を受けた様子で拳を握りしめていた。
「違いますわ!! 違いますわよ皆さん!? 実際どうやって近づいたのですの!? 技術的な話ですわ!」
動揺しながらも、リゼリアは冷静さを失っていないつもりだった。
剛心は静かに頷き、言った。
「四股立ちだ。低く踏み込んで、骨盤を落とし、肩で風を切りながら進んだ」
リゼリアは思わず立ち上がる。
「やっぱり技術ですわよね!? その“シコだち”ってどうやるんですの!? 教えてください!」
だが剛心は、彼女の熱意を軽く制し、静かに語る。
「……リゼリア、ちがうぞ」
「……えっ?」
「最も大事なのは“心の強さ”だ。子供の頃、俺は扇風機に“あー”って言いながら抗っていた……知らず知らず、“風の理”と向き合っていたんだ」
この言葉に、なぜか弟子たちの瞳が潤み始める。
「せんぷうき……?」
「……きっと、すごい鍛錬の道具だ……」
リゼリアは震える唇で呟く。
「多分ですけど、違うと思いますわ……」
しかし、周囲はすでに幻想へと突入していた。
「“風を読む”って……奥が深いんだな……」
「つまり、“拳”とは風ってことっすね!」
場は異様なほどの感動に包まれていた。
——そこで、限界を超えたリゼリアの声が響く。
「もう全員一回黙ってください!!!」
地の底から絞り出すような絶叫に、さすがの一同も静まり返る。
彼女の目には、常識という名の最後の砦が、崩れ落ちる音が聞こえていた。
だが、不思議なことに、リゼリアはその沈黙の中で、ふと笑った。
理解できないことばかりだった。理屈が通じない。論理が迷子になる。
……けれど、不思議と怒りは持続しなかった。
心のどこかで、誰より自分が“この空間の熱”にあてられているのを、感じていたからだ。
言葉にならない“何か”が、確かにここにはあった。
だから、気づけば——彼女の頬には、笑みがこぼれていた。
「よし、では……組み手だ」
重々しく、だが何気なく、剛心はそう口にした。
「防具をつけろ。稽古開始だ」
その声に、道場中が一斉に震えるように応えた。
「押忍ッ!!」
声が揃う。その響きはどこか戦場の号令にも似て、実際、これから行われることの多くが、正面からのぶつかり合いであった。
そして今、数多の“毛髪を失った者たち”の中でも、特に目覚ましい成長を遂げつつある二人の若者がいた。
ひとりは、ハーゲン。
「てぇや!!」
その肉体は細く、動きは軽い。だが、その身に宿る脚力は、まるで野性の獣であった。足元が霞むほどの高速ステップから、鋭く放たれる蹴り。
「は、速っ……!? 目が追いつかねぇ……!」
対する相手は、よろけながらも懸命に防ごうとするが——捌きが間に合わない。技の精度よりも、速度がすでに“見えない”という次元に到達しつつあった。
「瞬発力……!あいつ、ほんとにハゲか……?」
誰かが呟いたが、誰も否定できなかった。
もう一人は、ウスゲー。
「ふんっ!!」
ただ、それだけの音だった。だが、突き出された拳は、空間ごと破壊するかのような重さを伴っていた。
「ぐっ……払えない!?」
受けた者の腕が、軋む。質量、それは物理法則を裏切らない。巨体を生かした剛拳は、もはや“戦術”ではなく“現象”として迫ってくる。
剛心は静かに見守りながら頷いた。
「——いい踏み込みだ、ウスゲー。だが、腰が甘い。次はそこで崩れる」
「押忍ッ!」
その声に、巨体がぴたりと静止し、次の瞬間にはまた雷鳴のような一撃が稽古場に響く。
だが、勝者がいれば、敗者もまた存在する。
そのひとりは、リゼリア。
「——はっ……くっ……!」
荒い息。ふらつく膝。その背筋には、いつも漂っていた貴族的な気品の代わりに、土埃と汗がこびりついていた。
突きを受け、ひざまずくリゼリア。その目の前に立つのは、ウスゲー。巨大な影が、申し訳なさそうに頭をかく。
「リゼ……あんまり無理すると、よくない……おでとおまえじゃ、でかさが違いすぎる……」
しかし、その声に答えることなく、リゼリアは黙って口元を拭った。鼻筋に沿って落ちる血の筋すら、彼女にとっては装飾のようであった。
「……それでも、もう一本……!」
静かに、だが確かに、立ち上がる。握られた拳が震えている。
その一言に、すべての感情が込められていた。敗北、悔しさ、未練、意地。生まれて初めて味わった“自分が下に立つ”という現実。それでも、彼女は諦めなかった。
「もう一本!!」
叫ぶその声は、気品をも理性をも脱ぎ捨て、ただ一人の武道家としての意思に染まっていた。
その目には、まだ戦いが終わっていないことが、確かに刻まれていた。
——しかし、その一方で。
「ひいっ、やっぱりムリ……!」
その声は、場の隅から。まるで猫背の怯えた小動物のように、エンケは床を這うようにして柱の陰へと逃げ込んでいた。
「エンケ、そんなに逃げ回られたら練習にならねぇって」
ハーゲンがやや困ったように声をかける。
「わかってる……けど……怖いんだ……殴られるの、あの頃みたいで……」
誰もすぐには言葉を返せなかった。
先ほどまでの熱気とは対照的に、道場の一隅だけが、ぽっかりと静けさを宿していた。。
道場の片隅、木陰のような場所に座っていたクロが、耳をぴくりと動かしながら、静かに剛心に問いかけた。
「……剛心、リゼとエンケ、正直ついてきてないにゃ」
その声音には、少しの心配と、少しの寂しさと、少しの諦めが混じっていた。
だが、剛心はただ、静かに頷く。
「あぁ。だが……“今じゃない”だけだ」
「にゃ?」
クロが首をかしげる。
「“できない”のと、“まだできてない”のは、全然違う。……焦る必要はない」
その言葉に、クロは目を瞬かせた。だが剛心は、それ以上は語らない。ただ遠くを見るように、次の瞬間の彼らを信じるかのように、視線を向けていた。
そしてふと、目線をクロに戻す。
「それより、クロ。お前は稽古に入らないのか?」
その問いは、柔らかく、それでいてまっすぐだった。
クロはほんの少し、目を伏せた。
「……僕は、できないにゃ」
「そうか」
剛心は、それだけを言った。問い返すことも、理由を求めることもしない。ただ、そこに“できない者”を責めぬという姿勢があるだけだった。
静かな時間が、ふたりの間に流れる。