綿毛の飛ぶ、その前に——穴を掘れ
優希は拳を下ろしたまま、うつむいていた。
その肩が、わずかに震えている。
「……ふざ……けるなよ」
ぽつりと、しかしはっきりとした声音が落ちた。
「それは……さ……結局あんたが強いからだろ?」
顔を上げた優希の瞳には、怒りではなかった。
ただ、どうしようもなく拭いきれない劣等と、滲むような恐怖があった。
「僕なんか、学校もダメでさ……友達もいないし ずっと家に閉じこもってた。
話し相手もいないし、誰にも期待されない。……家の中じゃ、まるで空気だった」
それは、己を語るというよりも、どこか独白のようだった。
「……自分で何かを決めたことなんて、たぶん一度もなかった。
全部“聖典”が指示してくれるから、それで良かった。楽だった。だって、自分で決めるって怖い……じゃん……」
言葉を紡ぐたびに、彼の足元に広がる影が、少しずつ膨らんでゆく。
「でも、指示がなくなると……どうしていいか分からないんだ。
誰かに“これが君の役目だ”って言ってもらえないと、自分が存在してる意味すら分からなくてさ……」
優希は拳を見つめた。震えているのは、寒さのせいではない。
それは、過去の自分がずっと封じてきたもの——空虚という名の亡霊だった。
「僕は……ずっと、自分が“空っぽ”なんじゃないかって、怖かった……」
その言葉は、もはや戦いとは関係のない、深く沈んだ心の底からの音だった。
そして——沈黙の中に、剛心の声が響いた。
「……それでお前は、強くなったのか?」
その声音に、怒りも憐れみもなかった。ただ静かに、問いを投げかけるような重さがあった。
優希は、少し目を伏せ、かすかに肩をすくめた。
「……知らないよ。そんなこと」
少年の声音には、拗ねたような響きと、しかし奥底に燃える熱があった。
「でも……困ってる村人を助けた。……はじめて、感謝されたんだ」
その一言に、どこか照れたような、けれど誇らしげな響きがあった。
「偏屈で、誰とも口きかないって噂の、あのおばあちゃんの依頼も受けた。……最初はすごい怖かったけどさ……」
優希の瞳が、ふっと遠くを見た。どこか、ぬくもりを懐かしむように。
「……一緒に食べたご飯、本当にあったかくて……美味しかったんだ。
僕の目を……ちゃんと、見てくれた。僕が“僕”としてそこにいるって、ちゃんと……わかってくれてた」
小さな吐息が、夜気に滲む。
「……あんたみたいに、自分の中に芯があるヤツは、いいよな。羨ましいよ」
そして——言葉は、静かに核心へと近づいていく。
「僕はさ……誰かの“笑顔”を見ないと、自分の輪郭がわかんないんだよ。
嬉しいとか、悲しいとか、誰かの反応がなきゃ、僕がここにいるって……確かめられないんだ」
その吐露は、もはや言い訳でも、理屈でもなかった。
ただ、心の底にある、拭いがたい欠落をそっと差し出すような声だった。
——そして、沈黙を割くように、優希は続ける。
「……もしかしてあんたさ、そんな“誰か”のことも……全部、“自分の修行の糧”にしてんじゃないのか?」
その言葉は、呟きだった。
だが、それはあまりに静かであったがゆえに、まっすぐ剛心の胸の最奥に届いた。
叫びではない。怒りでも、憎しみでもない。
——ただの観察。
ただの、事実の指摘。
「……今、何て言った……?」
剛心の声音が、わずかに震えた。
その震えは、冷気ではない。驚愕でもない。
——痛みだった。
重く、濁流のような沈黙が落ちる。
剛心の顔に浮かんだ表情は、もはや“表情”ですらなかった。
強い意志の仮面が、わずかに剥がれ、そこに現れたのは——迷い。
わからなかった。
これまで誰にも指摘されたことのない違和感。
誰も見抜けなかった、その欠落。
だが今、優希のたった一言が、その見えない“影”を浮かび上がらせた。
彼は半歩、無意識に後退した。
重心が揺れる。呼吸が浅くなる。
その“半歩”には、数十年分の沈黙が宿っていた。
「…………っ」
剛心は、自分の胸の奥を、拳でゆっくりと押さえるように、言葉を飲み込んだ。
——俺は、誰かの顔色など気にせず生きてきた。
だからこそ、迷いがなく、まっすぐで、誰よりも速く、強くなれたと思っていた。
けれどその結果、誰の顔も思い出せないほど、独りになっていた。
“お前の全力を、俺の修行の糧にする”
その言葉は、ただの決意ではなかったのかもしれない。
他者との関わりすら、知らぬうちに“道具”として捉えていた。
そうすることでしか、強さを築けなかった。
そして、そうすることでしか、自分の価値を測れなかった。
優希の声は、まるで剛心の心臓の真上で鳴った鐘のようだった。
——確かに、自分はずっと、“ひとりで強くなる”ことしか、知らなかった。
優希は、笑ってなどいなかった。
ただ、剛心を見ていた。
誰も言えなかったことを、恐れもなく口にしていた。
剛心は、ゆっくりと目を伏せた。
拳を見た。長年打ち込み続けた、自らの象徴。
だがその拳に、いま初めて、ひとすじの空虚さが混じっていた。
静寂。
そして、風がひとすじ吹いた。
それは、剛心という男の内部にあった“確信”が、いま、初めて揺らぎ始めた証だった。
だが、ぽつりと、小さな声が響いた。
「ちっ、ちがう!」
言ったのは、ウスゲーだった。
わずかな焦りと熱を浮かべ、精一杯の語彙で剛心を止めようとする。
「シンは……確かに、そういうとこ、あるけど……でも、おで、それだけじゃ……ないと思う!」
彼の声は、震えていた。けれど、それでも退かなかった。
その言葉を受け継ぐように、今度はエンケが静かに口を開いた。
「俺たち……ただの“ハゲ”だった。何も持ってなかった……希望も……誇りも、未来も」
語る声に、過去の影はなかった。ただ、真っすぐな回想だった。
「でも……シンは手を引いてくれた。何の見返りもなく……」
「その“強さ”がさ……それだけで、ありがたかった……」
隣で頷いたハーゲンが、腕を組んで言う。
「たとえ“自分のため”に振るってた拳でも、俺たちにとっちゃ関係ねぇんだ」
「助けられた側からしたら、どんな理由だろうが、それが“事実”なんだよ」
その言葉に、剛心は俯いたまま、深く息をついた。
しかし、語られた言葉の重みは、静かに、彼の心を貫いていた。
やがて、剛心は拳ではなく、言葉を絞るように口を開いた。
「優希……お前の言葉、効いたぞ」
声は低く、そして静かだった。けれど、確かに“打撃”よりも深いものがそこにあった。
「どんな技より、ずっと深く入った」
その瞬間、優希が小さく目を見開く。
「……は?」
気の抜けたような声。まるで突拍子のない場面に放り込まれたような反応だった。
剛心はゆっくりと顔を上げ、その瞳に、これまでなかった種火のようなものが宿っていた。
「“他人を助けること”が、お前の強さか」
「俺はずっと、自分を鍛えることでしか、強さを作れなかった。頼るのは甘えだと、関わるのは雑念だと……そう思ってた」
そこには、道着に染みついた孤独のにおいと、拳の形に固まった人生があった。
「だけど……誰かと関わることで、迷いながらも、前に進もうとしてきたお前は……」
「……俺とは、まったく別の“強さ”を持ってるのかもな」
その言葉は、評価でも称賛でもなかった。ただ、剛心という“孤独な武”が、初めて見出した“他者”という風景だった。
その言葉を受け、優希は戸惑うように眉を寄せ、わずかに目を伏せる。
長く影を落としていたまぶたの奥から、やがて、くぐもった声が漏れた。
「……でも俺、何かを鍛えてきたわけじゃない。ただ……誰かに喜ばれたくて、聖典の言うままに動いてただけで……」
その声音には、自嘲と不安と、それでも確かに紡ごうとする意志があった。
だが、剛心はその目を逸らさず、まっすぐに見据えて言う。
「それでも、“誰かのために動いた自分”を、後悔していないなら——」
「それが、お前の“強さ”なんだろう」
静かだった。
力で押しつけることもなく、教え導くでもなく。
ただ、一人の武道家として、言葉で示された“他の道”への敬意。
優希はしばし俯いていたが、やがて顔を上げ、小さく、だが確かに頷いた。
「……あんたの言ってること……よくわかんないけど……」
「僕は僕のまま……誰かを助けるよ……これからも」
その声は、決して大きくはなかった。けれど、そこには“自分で選んだ言葉”という確かな輪郭が宿っていた。
剛心は無言で、それを受け止める。表情に浮かぶのは、わずかな、それでも確かに温もりを湛えた静寂。
「じゃ」
そう言って、優希は背を向け、歩き出す。足取りに迷いはなかった。
彼の後ろ姿が遠ざかる。
けれど、その胸の中では、何かがふわりと浮かびはじめていた。
(……なんだろ、不思議と胸が軽い。怒られると思ってたのに……)
(……そうか。こんなふうに誰かと……ちゃんと話して、ぶつかって……)
(うん。少しずつでもいい。僕も……やってみよう、僕なりに)
振り返ることなく、まっすぐに。
その瞬間だった。
風が、ふと吹いた。
優希の足元の草むらで、ひとつのたんぽぽが揺れる。
小さな綿毛が、静かに空へと舞い上がった。
風に乗って、ふわり、ふわりと昇っていくその姿。
まるで迷いを手放した心が、ようやく解き放たれ、どこまでも自由に昇っていくようだった。
誰かに認められたいと、ずっと渇いていた心。
その乾きが、今ほんのわずかに潤いを帯びていく。
綿毛は回転しながら、ゆっくりと空を渡る。
高く、高く、まだ見ぬ場所へ向かって——
それは優希の心が、“誰かの言葉”によって、初めて風を得た証だった。
まだ不安定で、今にも崩れてしまいそうな小さな輪郭。
けれどその軽さこそが、過去の重みから解き放たれたしるしだった。
その小さな解放が、優希にとって、なによりの救いとなる。
彼は立ち止まり、ふと空を見上げた。
目を細めながら、空に漂う綿毛を、しばし見送る。
その唇の端には、かすかな、けれど確かに微笑みが——
「……ちょっと待て。」
剛心の声音は、低く、澄んでいた。まるで師範の号令のように、一切の余韻を断ち切った。
優希は足を止める。
その背に汗が伝うのを、自分でも感じた。
「えっ……?」
彼は振り返る。そこには、ゆっくりと、しかし確実に歩を進めてくる剛心の姿。
「お前の言葉には、たしかに心を動かされた。……だが、それとこれとは別だ。」
凍るような沈黙。
「……どれとどれが?」
「道場だ。燃やしたよな。直していけ。」
その言葉は、予想の斜め上を遥かに越えていた。
「えっ!? 今いい感じで終わる流れじゃなかったですか!? 感動のフィナーレだったでしょ!? 風も吹いてたし! 綿毛も舞ってたし!?」
「ええ、たしかに……」
リゼリアは神妙に頷いた。
「あの締め、かなり良かったですわ。涙腺にきましたもの」
しかし、剛心の顔は微動だにしない。
「知らん。俺の中では“放火事件”の記録しか残ってない。」
「ぬ、ぬう……」
優希は顔を歪め、目尻を引きつらせた。
「放火は……あかん……」
ウスゲーが小さく呟いた。語尾にユーモアの気配はない。まるで詠唱のように重い一言だった。
剛心は腕を組み、静かに宣告する。
「“放火”は、俺の世界でも立派な犯罪だ。」
そして次の場面。
——地を穿つ音だけが響いていた。
「……ぐぅ……ぐぅぅ……」
スコップを握った優希が、己の罪と向き合うように土を掘っていた。傍らには、深く掘り進められた基礎の穴。汗が額から滴り、風に乗って飛んでいく。
「もっと深く掘るでやす、ユウキさん!」
ウスゲーは陽気に、だが手は決して止めぬまま呼びかける。
「サボっていると、作業増やしますわよ!」
リゼリアの声は麗しいが、もはや現場監督の貫禄があった。
「お前の構え、腰が浮いているぞ。」
剛心は真顔で技術指導を始めていた。
それは、かつて彼が語った“受けの美学”よりも、ずっと厳しく、ずっと土臭かった。
優希は大きく息をつく。
掌に握られたスコップが、少しだけ軽く感じられた。
(……今までの俺は、誰かに評価されるために頑張ってきた。
でもこの場所では——)
「サボるなー!」
「ほら優希、こっち手伝え!」
命令じゃなくて、やりとりの一部みたいだった。
そのすべてが、不思議と温かい。
(“役割”じゃなく、“居場所”って……こんな感じなんだな)
春風が通り抜けた。
たんぽぽの綿毛が、またひとつ空へと舞い上がる。
誰も茶々を入れない。誰もオチを入れない。
——今度こそ、綿毛は名シーンのまま飛んでいった。