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看板の山と、母の三角絞め

「……くそ……なんで……」


それは、剛心に向けられた言葉ではなかった。

ただ、自身の中にある“なにか”に抗うように漏れ出た、ひとしずくの感情だった。


そして、砂埃だけがその場に残った。

決着のつかぬ戦いの終わりにして、物語の幕間のような、沈黙の時間だった。


「お前は、良き師に巡り会えなかっただけだ。……俺もそうだった」


東雲剛心は、優希を見下ろしながら、どこか遠くを見つめるように言った。


「俺もかつて、お前のように自分の力を誇示し、慢心し、なりふり構わず闘いをけしかけていた時期があった」


ハゲたちが、小さく顔を見合わせる。


「……シン?」


その問いかけにも、剛心は応えず、ただ空を見上げる。

そして、ぽつりと語り始めた。


「——あれは、俺が十七の頃だった」


夕暮れの木造道場。

畳には汗と土埃が漂い、若き剛心の呼吸だけが空間を満たしていた。


「そこまで!」

気色ばむ師範代の声が響く。


剛心(十七歳)は息一つ乱さず、黙って拳を引いた。


「……俺の勝ちだな。約束通り、この道場の看板、もらっていくぞ」


その言葉に、門下生たちが一斉に立ち上がった。


「師範!あんな若造に……!」

「ここで帰すわけにはいきません!」


しかし、年老いた師範は、無言で頷くだけだった。

剛心は彼らを見渡し、冷たく吐き捨てる。


「師範も師範なら、門下生も大したことないな。勝負は終わったんだ……」


「お前たちは弱い。それだけだ」


誰も言い返さなかった。

空気が凍りついたまま、剛心は壁に掲げられた看板を引き剥がし、無言のまま去っていった。



「——俺はあの頃、あちこちの道場を破りまくっていた」


今、静かに語る剛心の声には、かつての傲慢さは微塵もなかった。


「酔っていたんだ。自分の力に、拳に……。

誰かの誇りや、信じてきたものを踏みにじっているなんて、考えもしなかった」


彼は拳を見つめ、握り、そして再び開く。

その動作の中に、かつて壊してしまった多くのものの重さが込められていた。


リゼリアが、そっと声をかけた。


「……シン」


「想像もできねぇ……」

ハーゲンが呟く。

どこかで神格化していた“シン”の、思いもよらぬ過去に、ハゲたちも言葉を失っていた。


リゼリアは問う。


「それで、良き師とは……誰ですの?」


剛心は、少しの間、黙っていた。


彼の瞳に、過去の景色がよぎっている。

そのまま語らず背を向けるかと思われたが、やがて低く、しかし確かな声で口を開いた。


「……あぁ。そうだな」


「順番に話そう」


「道場破りを繰り返していたある日、俺の前に……異変が起こったんだ」


その言葉の先に、剛心を変えた出来事があることを、誰もが直感した。


そして、誰も口を挟まず、その続きを静かに待った。


剛心は静かに、だがどこか懺悔にも似た響きで語り出した。


──かつて、若き日の剛心が暮らしていた実家の六畳一間の静謐な城。

だが、その静けさはある晩、突如として崩れ去ることになる。


「剛心! あんた、いつまで起きてんのや! 電気もつけっぱなしで! ああこわ!」


怒声が玄関を突き破らんばかりに響いた。

その主──剛心の母が、バサリと襖を開けて現れたその姿には、夜の平穏を破壊するだけの迫力があった。


「うるせぇなぁ……勝手に入ってくんなよ……」


ソファに座し、腕を組み、鋭利な眼光で己が“戦利品”を睨めつける少年──東雲剛心、十七歳である。


室内には、看板があった。

いや、それはもはや“ある”という次元ではない。

『無心館』『撃心流』『誠拳道場』『白蓮塾』──全て、かつて剛心が叩き折った道場の名残である。

看板は廊下にまで積まれ、冷蔵庫は封印され、トイレは接近困難、風呂場は入室不可。

そこにあるのは、ただの“道場破り遺跡”であった。


「なんやこれ! また汚い木、拾ってきて!」


「拾ったんじゃねぇ。勝ち取ったんだよ……」


「なぁ、聞いてんのか!? この木の板のせいで掃除機のコードが引っかかってしゃーないんや!」

ブン、と母は掃除機のホースを振り回す。その動線に引っかかるは“拳風館”の看板。バキィン、と鈍い音を立ててホースがひしゃげた。


「勝手に触るなよ! あとで片付けるって言ってんだろ!」


「片付けるて!? あんた、風呂場もトイレも、ぜーんぶこの板で埋まってるやないか! 看板屋でも始めるんか!?」


「これは……俺の誇りだ……」


「誇りで廊下が埋まるかアホ! 冷蔵庫にすら行かれへんやろが!」


母の声は雷鳴の如く部屋に轟き、遂に剛心の堪忍袋の緒が切れた。


「うるせぇんだよクソババァ!!」


沈黙。

時が止まる。


「……ババァやて?」


その瞬間、空気が一変した。


母は背後に回り込み、電光石火の動作で剛心の首に右腕を巻きつけた。

足が絡む。腰が回る。布団が舞う。

三角絞め──地上最強の寝技が、容赦なく炸裂する。


「このクソガキがぁぁ!!」


「かぁちゃん……ごめん……タップ……タップしてるから……ごめんなさ……」


眼が反転し、魂が遥か拳の彼方へと飛び立っていった。


──その夜、六畳一間の“闘技場”に響いたのは、少年の敗北宣言であった。


翌朝。部屋は空虚であった。


看板の山は消え、そこには清掃された床と、まだ温もりの残る茶碗が一つ。


すべては、粗大ゴミ回収車へと運ばれていた。


そして剛心は、その空虚の中に、己の傲慢と、母の愛の重さを見出す。


拳より重く、勝利より鋭い──

それが、母の三角絞めだった。


彼の語りは、どこか厳かな調べを帯びていた。


「空になった部屋で、初めて気づいた。

俺は——他者を打ち倒すことでしか、己の“価値”を確認できなかったんだ。

勝利とは声なき嘆きの裏返し。その叫びに……唯一、気づいていたのが母だった」


一拍の間。


「その瞬間、俺は……母の力で、拳よりも重い“生き方”を教えられたんだ」


剛心は、まっすぐに空を見上げた。


リゼリアは、沈黙ののち、深くため息を吐いた。


「お片付け……したかったんですわね……」


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