拳が届かぬ理由
優希の声がひと際高くなり、様式美へと回帰する。
「君のようなスキルなしの下民が、僕と戦えることを──光栄に思うといい!」
その演出力は、もはや芸術の域に達していた。
──そう、これは舞台なのだ。
(さっさとやられて……あとは聖典の指示通りに……)
内心ではそう考えていた。見栄え良く、劇的に、かつ致命傷にはならぬ程度に敗北する。それが“やられ役”の美学であり、彼の矜持だった。
魔力が奔流する。魔法が次々と重なり、空気が虹の揺らぎを帯びる。全身を包む光輪とエフェクト。まさに“魔法陣の暴力”とも呼ぶべき光景が広がる中──
「いくよ──」
その言葉を最後まで告げる間もなかった。
疾風が地を裂いた。否、疾風ではない。肉体という名の弾丸。東雲剛心は、彼が口を開くその瞬間に、“先の先”を捉えて動いていた。
ごうっ──
爆音めいた踏み込みと共に、剛心の拳が閃く。まるでカミソリの如き鋭さと、銃弾のような質量を併せ持つ拳。軌道は読めず、速度は視認できず、ただ一つ、優希の顔面へと一直線に放たれた。
直撃。
そのまま優希の身体は音もなく宙を舞い、後方の岩肌に激突。大地が鳴動し、土煙が空を覆った。
一瞬の静寂。
「す……すげぇ……」
「キュ力、使ってないよな……?」
ハゲたちが、恐る恐る声を漏らす。畏怖と歓喜が入り交じった、敬虔な囁きであった。
「……どこかで見た光景ですわね……」
リゼリアはため息をつきながらも、微かに微笑んでいた。これは、あの時と同じ。初めて剛心と拳を交わした、あの痛烈で不可解な敗北と──同じ軌跡。
だが。
もやが晴れるように、土煙の中から一つの影が現れる。炎の中から現れた鳳凰のように、それはゆっくりと、堂々と──まるで何事もなかったかのように、歩みを進めていた。
「そんなものかい? 君の拳とやらは──」
悠然としたその姿には、動じた様子は微塵もなかった。声は滑らかで、表情には余裕が漂っていた。
「なっ……! シンの一撃ですわよ……!?」
リゼリアが驚愕するのも無理はない。あの拳を受けて立ち上がるなど、常識では考えられぬ。
だが、優希の内心は──
(ちょ、ちょっと待って……!? あれ……人間の拳だよな……?)
(ぜぜぜ、全然見えなかったんだけど……!?)
(チートがなかったら……確実に死んでた……いや今も全身しびれてる……っ!!)
その心は、青ざめた涙色に染まっていた。
──そして、それを知ることのない剛心は、静かに、しかし確かに一歩を踏み出す。
「……ありがたいな」
その声音は、心からの敬意と、そして戦士としての歓喜に満ちていた。
「これなら──遠慮せず“殺すつもり”で撃てる」
(……殺すって言った!?)
(言ったよね!? 今“殺す”って言ったよね!?)
優希はひきつる笑顔を浮かべながら、一歩前に出た。
「……負け惜しみにしか聞こえないな。次はこっちからいくよ」
(えっ!? さっきのが本気じゃなかったの!?)
(ぜぜぜ、絶対ウソ! 嘘であってくれよぉ!!)
震える膝を誤魔化すように地を蹴る。彼の身体は魔力の加速を帯び、瞬時に剛心の懐へと迫った。
「──《ゴーストカット》!」
優希の振るう魔剣は幻影のごとく空間を裂き、実体と見えざる衝撃波との二重奏で襲いかかる。が──
剛心はまるで水面の波紋のごとく、自然に身をしならせて剣戟を避けた。体軸はぶれることなく、そのまま反転し、反撃の体勢へ。
だがその瞬間、彼の足がひとつ後退する。
その瞬間、背後の木々が、まるで刈り取られた草のように、根元から薙ぎ倒された。
「危なかったな」
その一言が、全てを物語っていた。
「……気付いたみたいだね」
優希の声はかすれていた。
「僕の《ゴーストカット》は、剣戟と……見えない衝撃波の二段攻撃……なんだ」
(みみみ見えない攻撃、避けたぁぁあ!?)
(な、なにこの人、こっっわ!!!)
額に汗が滲み、視線は定まらない。膝はかすかに揺れ、しかし口元だけは、演じる者としての微笑を崩さない。
「……どうした? 足元がぶれてるぞ?」
剛心はまるで“体調を気遣う師範”のような声音で、優希の様子を見つめていた。だが──
「まさか……!? 新しい“チートスキル”とやらの準備か!?」
その瞳に宿るのは、期待。しかも“とびきり嬉しそうな笑み”つきである。
「ふっ……さて、どうかな?」
優希はわざとらしく肩をすくめ、芝居がかった余裕を装った。
「想像に──まかせるよ」
その実、彼の視線はちらりと聖典のインターフェースに向けられていた。
(……よかった)
(これで“終われる”。ちゃんと、予定通りに──)
⸻
【UI表示:戦闘ログを確認中】
【UI:テンプレ進行条件を再計算中】
【UI:目標達成のため、《敗北イベント》への誘導に切り替えます】
Note:ユーザーイベントを破棄すると、再チューニング対象となります。
⸻
(あとは剛心に派手に負けて、僕が“努力しました”って形だけ残せばいい)
(そうすれば、また“強化スキル”がもらえる。失敗から立ち上がるための、ご褒美が)
(……選ばれし勇者なんだ。間違ってなんか、ない。これは……正しい順番だ)
(自分で選ばないで済むって、楽だ。だって選択には、責任が伴うから)
(この“聖典”が全部決めてくれるなら……僕は、間違えないで済むんだ)
「……あぁ」
剛心が低く頷いた。もはや冗談めいた調子は消え、そこには一切の虚飾なき“武道家”の貌があった。
「なら、俺も“本気”で打つ」
突如として、空気が張り詰めた。風が止み、鳥が鳴くのをやめ、草木すら呼吸を潜める。
その只中で──東雲剛心は、構えを変えた。
低く、重く。中段の正拳突き。
それは彼のすべてを体現する技。
長き鍛錬の果てに辿り着いた、ただひとつの解答。
すべてを貫く“理”そのもの。
この一撃に、言葉は不要であった。
剛心の眼前に立つ優希も、また、黙して構えをとった。
傍らで、それを見守る者がいた。
「……あれは……最後に、ゴーレムを貫いた……!」
リゼリアが、ぽつりと呟いた。
彼女の眼には、もはや戦技というより、祈りの儀式のように映っていた。
剛心の呼吸が、深く、そして静かに落ちる。
(これは……)
心中で彼はただ一つのことを確認していた。
(俺が積み重ねたもの。誰に見られなくても、何も評価されなくても……)
(“俺だけは信じている”拳──)
張り詰めた空気のなか、ただ一つの動きが空間を裂いた。
剛心が中段突きの構えから、爆ぜるように地を蹴る。
瞬間、周囲の景色が引き絞られ、視界は一点へと狭まる。
疾風のごとき踏み込み。
拳が閃光のように突き出される。
わずかに沈み、絞り込まれた筋肉が解き放たれ、空気を圧縮する。
その射線の先には、優希の身体がある。
(──入った)
剛心の思考が、確信と共に脳内で響く。
距離、間合い、相手の重心。
あらゆる要素を読み切り──拳は“勝利”の座標を捉えていた。
──だが。
その一瞬、剛心の身体に、微かな“違和感”が走る。
ほんの刹那。
(……これは)
その瞬間、剛心の身体が止まった。
いや、“止めた”のだ。
拳がまだ届かぬ寸前。指先すら触れぬ場所。
だが確かに、“間”を殺す一撃だった。
それを、剛心は中断する。
理由は一つ。
違和感。
(……これは、“受ける構え”じゃない)
目の前の少年、優希の身体に、応じる気配がなかった。
(……いや、“闘う姿勢”じゃない──)
まるで己の敗北を受け容れるために、ただ立っている。
それは防御ではなく、放棄であり、ある種の“自傷的な信仰”であった。
剛心の拳が、風を裂くだけで止まる。
ズン……ッ
空気がねじれ、地表が低くうねり、周囲の塵が風に巻かれて舞う。
剛心の腕は、優希の目前で静止していた。
あと、数ミリ。
それだけで、肋骨を砕き、胃を抉る力があった。
拳が「届かなかった」のではない。
拳を「届かせなかった」結果である。
剛心の拳は、寸分違わぬ間合いで停止していた。
優希の胸元すれすれに、静かに、けれど圧倒的な威圧を残して。
剛心は、拳を止めたまま、絞るように言葉を吐く。
「……やめだ」
その声は、怒りでも嘲りでもなく、ただ凪いだ湖面のように、静かだった。
その瞬間、優希の呼吸が途切れた。
身体の力が抜け、ふらりと膝をつく。
その表情には驚愕と困惑が入り混じり、けれど、どこかに安堵の色が微かに滲んでいた。
彼は、ぽつりとこぼす。
「……なんで……?」
剛心は、ゆっくりと拳を引きながら、細めた目で優希を見つめた。
「……闘う意志がない者と、俺は戦わん」
「拳の速度でも、力でもない。“覚悟”が感じられなかった」
その言葉には、厳しさではなく、哀しさに似た響きが宿っていた。
それは、己が信じる武の道に背を向けることへの拒絶であり、また、それを貫けぬ者への諫言でもあった。
優希は、うつむいたまま拳を握りしめていた。
唇を強く噛み、わずかに肩が震えている。
剛心は、もうそれを見ようとはしなかった。
背を向け、歩き出す。
砂煙の向こうに、その背中が遠ざかってゆく。
「……その拳、お前は“誰かの顔色”を伺ってる」
その言葉だけを、風が運ぶ。
刺すような責めではなかった。ただ、冷たい事実だけがそこにあった。
風が、舞った。
崩れかけた道場の骨組みに、ひゅう、と細い音を鳴らしながら吹き抜けていく。
優希は、拳を握ったまま、ぽつりと呟く。
「……くそ……なんで……」
(ちゃんと……終われたのに……)
それは、剛心に向けられた言葉ではなかった。
ただ、自身の中にある“なにか”に抗うように漏れ出た、ひとしずくの感情だった。