建築とは、災害から始まる
陽の高まりとともに、丘の上の道場建設現場には今日も槌音が響いていた。未完成の柱と梁が風に軋み、剛心は膝を折って一本の材木の強度を確かめている。
その静寂を破ったのは、どこか演劇的に調律された声だった。
「──ここにいたんだね、剛心」
その声音には不思議な高揚があった。まるで舞台の幕が上がった瞬間のように、登場の意図が過剰に詰まっている。
声の主、優希。光を帯びた黒髪に整った装い、堂々とした姿勢で現れた彼は、決して場違いではなかった──ただし、意図せぬ意味において。
「ふふ……君が現れないのも計算のうちだったよ。“中央広場南の鍛錬場”、いつもの場所で、いつものように待ってたんだ」
しかし剛心は、図面に視線を落としたまま静かに口を開いた。
「巻藁も作らなければな……稽古の基礎だ」
「──僕の話、聞いてますか!!?」
ようやく顔を上げた剛心の眼差しは真剣だった。ただし、向けられていたのは彼の言葉ではなく、言葉そのものの構造であった。
「なんだ?」
「なんで来てくれないんですか!南の鍛錬場!」
優希の語気には、薄く滲んだ失望と、咄嗟に隠した羞恥があった。だが彼はあくまで勇者の面構えを崩さず、さらに言葉を重ねる。
「この間は朝の五時まで待ってたんですよ!? 早出の商人が“あれは新手の立ちんぼか?”みたいな顔で見てきたんです!」
剛心は静かに眉を寄せた。
「……待ち合わせしていたのか?」
「違います! 流れです! お約束です!!」
その言葉を聞いた剛心は、一瞬、何か遠い世界の言語を解読しようとする者のように考え込んだ。そして、重々しく結論を下した。
「……“お約束”?」
傍らで見守っていたリゼリアが、咳払い一つ、やや戸惑いながらも頷いた。
「ま……まぁ確かに、“お約束”という流れ……ありますわね。物語的に……」
「いや、待て!」
剛心が唐突に声を上げた。鍛錬場に響いたその声は、問いではなく、指摘であった。
「5W1Hが欠けているぞ! 日時、場所、目的、同行者、所要時間、連絡手段──すべて明示されていない!」
彼は腕を組み、真剣な面持ちで続ける。
「さらに、相手が行ったことのない場所である場合は、地図アプリのリンクを添付し、交通手段や所要時間、乗り換え回数も併記すべきだ。これが基本だ」
それは“待ち合わせ”についての講義であった。いや、剛心にとっては“人間関係の道場”における基礎稽古なのかもしれない。
だが──
「違うぅ!!」
優希が声を張り上げた。張り上げながらも、どこか泣きそうだった。
「ここ、異世界なんです!! 地図アプリなんてないんです!! 空気読むんです!! “なんとなく”で察して動くんです!! そうしないと……話が……進まないんですぅ!!」
彼の叫びは、文法よりも文脈を、論理よりも物語を優先する世界における“やられ役”としての悲痛な魂の叫びであった。
──そのとき。
空間が一瞬、軽くざらついたような感覚が走る。
優希の視界に、唐突に文字列が浮かぶ。
⸻
【UI通知:現在、シナリオ進行が停滞しています】
【推奨アクション:建築中の拠点(道場)の一部破壊】
【目的:対立構造による物語の加速と感情的インパクトの創出】
⸻
「っ……!」
優希の瞳が見開かれる。心臓が嫌な拍動を刻んだ。
(ま、待ってくれよ……この人たち……きっと、ここまで建材を……全部、自分たちで運んで……)
優希の脳裏に、剛心が巨大な木材を肩に担ぎ、汗を流していた姿がよぎった。あの、恐ろしいほど真剣な眼差し。あれを、“ただの素材”と焼き払う……?
(違う……僕はただ、“シナリオ”を……“お約束”を進めたいだけで……でも、それが……こんな……)
「……聖典は……絶対……。じゃないと……僕は……」
小さく呟いたその言葉は、剛心にも、誰にも届かないほどに弱かった。
だが、次の瞬間──
優希は静かに腕を掲げた。
「……詠唱破棄」
短く、決意を込めたその声に、風がざわめく。
「《ファイアブラスト》!」
爆炎が奔る。まだ柱だけが立ったばかりの道場が、炎に包まれた。
(ああ……やってしまった……)
優希の胸が軋む。
「みんな、建物から離れろ!!」
剛心の声が轟く。反射的に動いたのは、かつて“従属者”と蔑まれた者たち──いや、今や己の拳と汗を信じ始めた、無冠の弟子たちである。
「怪我はないか! 確認しろ!」
「シン、こ、これは……!」「火ぃ! 火ぃぃぃ!!」
あわただしく動くハーゲンたちの背後で、リゼリアが深く息を吸い込み、静かに呟いた。
「──静寂なる深淵。千尋の重みで包み込め」
それは水系上級に属する魔術。
「《ハイドロプレッシャー》!」
次の瞬間、空中より叩きつけられた水圧の奔流が、火を包み、軋み、制した。
轟音とともに、炎が掻き消える。
──道場は、全焼を免れた。
残されたのは、まだ立ち上がったばかりの、煤けた柱。そして、濡れた土の匂いと、静寂の余韻。
その場に立ち尽くす優希は、唇を噛みしめていた。
だが、次の瞬間──
「リゼ、それ! 使えるな!!」
その場に響いたのは、驚きと喜びの入り混じった、実に晴れやかな声だった。
「この災害を逆手に取れたな……災害は“設計の母”だ!」
あまりに突飛なその発言に、ハーゲンたちはぽかんと口を開けるしかなかった。
剛心は続けた。すでに表情は戦場に立つ設計士のそれである。
「よし、これで水回り設計も完璧に近づいたぞ!」
「えっ!?」「は、はぁ……?」
剛心の一言を皮切りに、道場の建設に携わる一同が、声をそろえて絶句した。
「正直、給排水の問題よりも──水源をどうするかを考えていたんだ」
剛心の眼差しは、もはや燃えさしの木材ではなく、そのさらに彼方、未来の配管網の輝かしき理想を見据えていた。
「だが、見えた……! 天井に貯水槽を据えれば、水の確保は可能となる。リゼリアの魔法を動力とし、重力による圧力で各部へ供給……そうだ、ついでに湯の配管も引けるな……!」
「……あの、さっきまで火事だったのに、もう次の話に行ってますわよ?」
リゼリアが思わず小声で呟くが、剛心には届いていない。
「よし、強度計算をやり直すぞ! 配管の重量が加算されるからな、梁の太さを再検討だ!」
剛心が手元の設計図に再び鉛筆を走らせようとした刹那──
「……あの……」
剛心は図面に向かいながら答える。
「ん? 何か言ったか?」
「その……だからッ!!」
優希の目が揺れる。彼は今、確かに“シナリオを進行した”はずだった。破壊を齎し、ドラマを起こし、対立を──
──だが、なぜかすべてが、より良き建築の糧になっていた。
その違和感に、彼は声を上げた。
「……闘えよ! 東雲剛心! もう……さっさと終わらせよう!」
その叫びは、激情でも憎悪でもなかった。
あくまで、“構造上の矛盾”に対する、苛立ちであった。
剛心が顔を上げる。設計図の中にあった鋭さは一瞬にして消え、彼は静かに、空を仰いだ。
「……試合か」
その口調は静かで、どこか過去と向き合うような、憂いすら漂わせていた。
「シン、気をつけてください! ユウキ様はあなたと同じ“使徒様”……つまり、チートスキル持ちですわ!」
横から叫ぶリゼリアの声に、剛心が目を見開いた。
「なにっ!? それは……“硬い”ということか!?」
喜悦すら宿す表情で、彼は拳を握りしめる。筋肉が瞬時に膨れ、気合が皮膚を震わせた。
「えっ、えぇ……硬いというか……色々ですわ……」
「色々!? 素晴らしいな!! 複合的ということか!?」
この期に及んで剛心の関心が“硬度と属性の多様性”に集中している様は、もはや神域である。
「いいぞ、優希。やろう──とことんだ」
その一言に、優希の表情がふと揺れた。
「……やっと……やっとシナリオが進むんだ……!」
先刻まで浮ついていた演技の仮面が、微かに軋み、ひびを入れる。少年の頬には涙の光が浮かび、目元には、どこか故郷を思うような、素の彼が宿っていた。