雷鳴、そしてカブトムシ
坑道の出口。岩肌に刻まれた陽射しの筋が、戦いの終わりを告げていた。
そこに立っていたのは、あの黒髪の依頼主である。男は気まずそうに手をこすり合わせ、無理やり作った笑顔を浮かべた。
「ご……ご無事だったんで……さすが使徒様で……」
だが、リゼリアはその前で静かに足を止めた。口元には笑み。だが、そこから漏れ出す気配は、まさに暴風の名にふさわしかった。
「……入り口をトラップで塞ぎ、私たちを閉じ込める。なかなか思い切ったご判断でしたわね」
そう言いながら、彼女は坑道入口の残骸を指し示す。その残滓には、魔力の痕跡がまだ燻っていた。
「私たちを葬った後、あらためて“緊急災害依頼”を出す。低予算で解決できて都合が良かった──ということですわね?」
男は唇を震わせた。
「うっ……」
リゼリアの笑みはさらに角度を深める。それは貴族令嬢の微笑ではなかった。天秤を支える刃のような、正しさの暴力である。
「違約金と、私たち個人への賠償金の準備は……いつまでに整いますか?」
男は一歩、後ずさった。
「そ……それは……」
そのとき、剛心が前に出た。表情は柔らかく、だが確かな響きをもって言った。
「いいじゃないか。もう終わったことだろう?」
「ゴウシン!? これは立派な重罪ですわよ?」
「だが、鉱山は再開できる。労働者も……助かるんだろう?」
その一言に、リゼリアはわずかに目を伏せ、そしてため息をついた。
「……わかりましたわ。今回は……あなたに免じて」
「さすが使徒様……! その心の広さ、私も見習い、今後とも国のため粉骨砕身、心して──」
「では」
リゼリアが一言だけ、だが有無を言わせぬ声音でさえぎった。
「ギルドへの報告は控えます。その代わり……私個人への賠償金だけで結構ですわ」
「……へっ?」
「暴風のリゼリアと申しますわ。私の価値に見合った金額を、“少しだけ”請求させていただきますわ」
剛心は隣でにこやかに頷き、正拳突きを始めた。
男は青ざめ、歯を食いしばるように頭を下げた。
「……承知いたしました」
帰路の準備をする剛心とリゼリア。その背で男は鞭を握り怒声を張り上げた。
「貴様ら!さっさと動け!損害分を取り戻すぞ!」
その瞬間、剛心の目に入った。坑道の影──そこにいたのは、鎖に繋がれた人間たち。そして獣人たち。
その多くは、傷を負い、地面にうずくまり、目を伏せていた。
「……あっ、あれは何だ?」
剛心は立ち止まり、困惑とともに問いを漏らした。
「奴隷がどうしたのですか?」
リゼリアは、不思議そうに首を傾げた。
「なぜ彼らは、ああなっている?」
「色々ですわ。聖典の指示に従わなかったり……あとは薄毛だったり。毛が無かったり」
「……どういうことだ……?」
剛心の声は低く、しかし確実に変化していた。そこには、怒りの種が音もなく宿りつつあった。
「聖典は、皆が幸福になるように導くものですわ。そこから外れる行いをした方は……自然と別の役割に導かれますわ。
髪のない方も、戦えず働けず、キュ力も流れませんから……聖典がそのように判断したのでしょうね。
誰かが“ああなる”ことで、皆が安心して暮らせているのですわ。
でも……聖典に従いさえすれば、いつかきっと“本来あるべき幸福”が訪れるはずですの。」
「それは……本気で言っているのか?」
剛心の声が、地面を穿つような硬質な響きを帯びた。
「髪がないだけで、聖典に従わないだけで──鍛えることも、選ぶことも、許されないのか?」
リゼリアが戸惑いの声を漏らした。
「えっ、でっ……でもこの世界では……」
その困惑をよそに、剛心は黙って歩き出した。坑道の壁に繋がれた者たち──鎖に繋がれ、黙々と岩を砕いていた人間や獣人たちのもとへ。
そして、何の躊躇もなく右手を振り上げ、平たく構えた手刀で鎖を──一刀のもとに断ち切った。
甲高い金属音とともに、拘束具が床に跳ねた。
「つ、使徒様……これはいけませんな……っ」
依頼主の男が、慌てて駆け寄りながら声を上げる。
「彼らは、わたくしの正当な所有物でして……お立場は重々承知しておりますが、公にすれば、いかに使徒様でも……っ」
その言葉が終わる前に、剛心は男に向き直った。
言葉はない。ただ、鋭い眼差しが男を射抜いていた。
「ちょっ……何をする気ですの!?ゴウシン!!」
リゼリアの声が響くが、剛心は応じない。無言のまま、一歩、また一歩と、男へと歩を進める。
湿った坑道の空気が張りつめ、男は後ずさる。
視線を逸らせない。逃げられない。息が詰まる。
ただの人間であるはずの男が、そこに「立っている」というだけで、空間が歪んだかのような威圧が満ちていた。
「ひっ──」
男の膝が折れた。全身が震え、手足が空打ちのようにわななく。
「いけませんわゴウシン!そのような……!」
だがその叫びも届かぬまま、剛心は立ち止まり、大きく息を吸い込んだ。
そして──
「破ッッ!!!」
乾いた爆音が坑道に轟いた。
空気が震え、岩壁がわずかに軋んだ。男はその一喝を浴びただけで、白目を剥き、昏倒した。
そのまま石畳に崩れ落ちる。泡すら吹けぬ、完全な失神だった。
静寂。
剛心はゆっくりと振り返り、鎖から解き放たれた人々を見つめた。
その顔には、微笑みが浮かんでいた。
「さあ、お前たち──これで自由だ」
しかし──返ってきたのは、沈黙だった。
あまりに静かすぎる反応に、剛心は眉を寄せた。
「どうした?」
一人の男が、おずおずと口を開く。
「あ、あの……自由って言われても……なにをすれば……」
「それを探すんだ。世界は広い。技術を学ぶもよし、学問を志すもよし、商売でも構わん。自分の可能性を──」
だが、その声を遮るように、別の男が口を挟んだ。
「……そう言われても……俺たち、髪もないし……こうして働くのが合ってるって、聖典も言ってて……」
また別の男が、ぼそりと呟いた。
「そうだ……あんたみたいに、毛がなくても生きていけるような強さなんて、俺たちには……」
言葉が途切れる。だがその表情が語っていた。
諦め。習慣。従属。
彼らは“納得していた”。いや、“納得させられていた”。
剛心は言葉を失った。
まるで、遠い記憶を振り返るかのように、虚空を見つめる。
「……そうか……お前たちも、か」
その声には、かつての自分に向けたような、深い哀しみが滲んでいた。
「……悪いことをしたな」
それだけを呟くと、剛心は背を向け、坑道の出口へと歩き出した。
「リゼリア、行くぞ」
「えっ、えぇ……」
その背を追いながら、リゼリアはふと足を止める。
振り返った坑道には、倒れた依頼主と、鎖を失っても立ち尽くすだけの奴隷たち。
解放の意味を知る前に、希望を忘れた者たちの姿があった。
(ゴウシンの行いは、この世界の理から見れば間違っている……けれど……)
ふと、胸の奥にうまれた小さな違和感が、形にならぬまま、言葉にならぬまま、彼女の歩を前へと進めた。
麓へと向かう山道。二人とも言葉を発しなかった。風が枝を揺らし、道の小石を転がす音だけが、二人の足音をかき消していた。
剛心は黙して歩き、リゼリアもまた、ただその背を追う。
しかし、やがて堪えきれず、リゼリアはふと口を開いた。
「……あっ、あの、ゴウシン……」
歩みを止めぬまま、彼は短く返す。
「どうした?」
「うまく言葉にできませんが……でも、あなたらしいと思いましたわ……」
剛心はわずかに目を細め、そして、どこか寂しげに、口元を綻ばせた。
「そうか」
その一言を受けて、ふたりは再び歩き出す──。
そのときだった。
「だんなあああああああ!!!!」
突如として空を切るような大声が山道に響き渡った。
振り返れば、山道の先、息を切らしながら四つの影がこちらへと駆けてくる。
先頭には背の低い丸坊主、続いてずんぐりとした中年男、怯えがちな若者、そして猫耳をつけた黒髪の獣人の少女。
彼らは先ほど坑道で見た、鎖につながれていた者たちだった。
「おれ……なんか……ぐっときた……だから追いかけた」
息を荒げながら、最初に口を開いたのはずんぐりとした中年男だった。虚ろな目に、なぜか光が宿っていた。
「あっしも……っす」
続いて、背の低い丸坊主の男が、くしゃりと顔を歪めながらうなずく。
その背後で、青年が、おどおどと小さくうなずいた。
「僕は……なんだか面白そうって思ったにゃ!」
最後に、猫耳の少女がにぱっと笑いながら叫んだ。彼女の瞳は、何か未知の希望を映しているようだった。
剛心は一同を見渡し、静かに尋ねた。
「お前たち……名前は?」
猫耳の少女がすかさず胸を張る。
「えへっ、僕の名前はクロだにゃ!」
「……クロだな」
「ゴウシン?」
リゼリアが小さく首を傾げたが、剛心は気に留めなかった。
「おれは、ハーゲンってんで。気軽に“ハゲ”って呼んでくだせぇ!」
自信満々に告げる彼の表情には、一抹のためらいもなかった。
「なっ……!?」
剛心は思わず言葉を失う。
だが、リゼリアが解説するように口を挟む。
「ハーゲン、それは“雷鳴”という意味ですわね」
「本当に!?本当にいいのか!?“気軽”のレベルを飛び越えてるぞ!?」
「えぇ!もちろんで!」
剛心の衝撃はさらに続く。
「お、おでは……ウス・ゲー。みんな、ウスゲって呼んでる!」
「ダメだろ!」
思わず叫ぶ剛心を横目に、リゼリアが静かに口を開く。
「たしか、古代エルフ語で“ウス”が“巨大な”、そして“ゲー”が“身体”を意味しますわ」
「違うんだ!そうじゃなく!」
混乱する剛心の前に、最後の一人が恐る恐る名乗った。
「わ、私は……エンケです……」
「そうか。エンケだな」
「はっ……はい……正確には、エンケ・ダ・ツモウショです……」
「リゼリア、名前の意味は!!」
助けを求めるように問いかける剛心に、リゼリアは平然と応じた。
「カブトムシという意味ですわ」
「どういうルールなんだ!!」
剛心の叫びは、山々にこだまし……そして風に流された。
やがて、エンケがぽつりと尋ねた。
「あ、あの……あなたの、名前は……?」
「剛心だ」
「じゃあ……シンって呼んでいいですかね?」
不意の提案に、剛心は一瞬、固まった。
「……シン……」
「ど、どうしましたか?」
「いや……そういう、あだ名で呼ばれた経験がなくてな……」
彼は遠い目をした。そこには、孤独と武道の日々があったのだろう。
だが次の瞬間、彼は静かに微笑みを取り戻す。
「いいな……よし、俺のことはシンと呼んでくれ」
その言葉に、皆がうなずいた。
「よし──行こう!」
かくして、新たな仲間と共に、剛心たちは山を下った。
青空が広がっていた。
それは、誰もが同じ空の下に立っていると、そう思わせてくれるほど澄んでいた。
剛心の背に陽光が差し、山の風が彼の道着をはためかせた。
その背中には、かつてはなかったもの──他者の声と、希望の気配が、確かにあった。
名を呼ぶ声。足音の重なり。
今は、その静かな音のひとつひとつが、妙に心に残った。
剛心は背を向けたまま、ただひとつ、微笑んだ。
そして──
その背を見て、一人、また一人と、歩き始めた。