異世界トラック、交通違反です
深夜。
人の気配のない住宅街の大通りに、ひとりの男が歩いていた。
白い道着の上衣が、夜風にわずかに揺れる。帯の結び目も、どこか使い込まれた色褪せた風合いを帯びていた。
それは、たとえば夜道に稽古着のまま現れた“道場の幽霊”のような存在だった。
街灯がまばらに照らす歩道。
男は淡々と、一定のリズムで歩いていた。目的地もなければ、急ぐ理由もない。ただ、無言で、静かに。
そのときだった。
ギィ——という異様に長いブレーキ音とともに、前方から突如として一台のトラックが交差点をはみ出して現れた。
ヘッドライトが異様に眩しい。運転手の姿は見えず、ただフロントに大きくプリントされた《異世界》という文字だけが、白く夜に浮かび上がっていた。
それは、明らかに男の存在を狙っていた。
スピードは、もはや制御の範囲を超えている。反射神経や運動能力でどうにかなる速度ではなかった。人間なら──いや、常識の範疇なら、誰であれ吹き飛ばされ、命を落とす。
だが、男は動いた。
いや、もはや動いたとは言えなかった。
“置いた”のだ。
左足を前に。
右足は鋭く地を蹴り、身体を低く構える。
前屈立ち。
姿勢は微動だにせず、腰が沈む。
右拳が、自然と──だがあまりに正確に──中段に浮かぶ。
地面から跳ね返るエネルギーが、足裏から脛、膝、腰、肩、肘、そして拳へと流れるように通り抜けた。
それはまるで、地球そのものを媒介にした巨大な回路。
その一撃が、トラックのフロントと真正面からぶつかる。
──ガグァッ!!
金属が悲鳴をあげた。
ただの板金ではない。これは明確に、構造体が崩れた音だった。
太く、分厚く、重量車両の命とも言えるラダーフレームが──折れた。
無数のリベットが内側から外れ、シャーシを構成していたH形鋼がねじれるように変形し、運転席の足元からひしゃげていく。
衝突の直前まで走行していたはずの巨大なトラックが、まるで壁に叩きつけられた空き缶のように、形を失った。
だが、その場にいた男は──動いていなかった。
吹き飛んでいない。押し戻されてもいない。
その姿は、あまりにも静かで、あまりにも整っていた。
不可解だった。
何百馬力ものトルクで前進していた鉄の塊と、人間の拳がぶつかり──なぜ、潰れたのがトラックのほうなのか。
なぜ、吹き飛ばされたのが金属で、人間ではなかったのか。
──しかし、問いの時間は与えられない。
背後から、二台目のヘッドライトが襲いかかる。
またしても、車体の側面に《異世界》の三文字。
まるで、何度倒しても蘇るテンプレのように。
振り返りもせず、男は腰の軸をずらし、身体を半身に構えた。左拳を腰に、右拳を流れるように突き出す。
衝突。
鉄が破裂音を上げて宙を舞う。ボンネットが跳ね上がり、運転席がえぐられ、エンジンブロックごと地面に激突する。タイヤがちぎれ、火花が舞った。
それでも男は動じない。
三台目。
今度は左から。道を塞ぐように迫ってくる。
だが、男はすでにそこにいなかった。
半歩先に出ていた。
構え──捻り──打ち下ろすような逆突き。
破壊。
横からの衝突でさえ、もはや意味をなさない。
鉄骨は空中で折れ、前輪が持ち上がり、重心が崩れて横転する。
──数瞬。
吹き飛ばされた3台のトラックの残骸が、金属のうめき声を上げながら軋んでいる。
フロントガラスは砕け散り、フレームは曲がり、エンジンオイルの匂いが夜風に乗って漂う。
その真ん中で──男は仁王立ちしていた。
拳を下ろし、わずかに肩を揺らしながら。
だが──次の瞬間。
彼の脳内で、ある種の“解析”が始まった。
回転する思考。
繋がる点と点。
この異常な出来事の全貌が、彼の中で、極めて整合された答えが——
「……なるほど……」
「——これが物流業界の人手不足か!!」
「長時間労働による注意力の低下……トラックの操作ミス……!」
「さらに巨大EC企業による過剰な流通の圧力!配送量の飽和!」
「行政は一体何をやっているッ!!」
正義感と労働問題がごちゃ混ぜになった顔で、彼はなおも言葉をつづける。
「……しかし……妙だ」
ふと、男は潰れたトラックのボンネットに視線を落とす。
そこには、白文字で大きく──《異世界》と書かれていた。
「……異世界……?」
砕けたトラックのフロントに刻まれたその三文字を見つめ、男は一瞬だけ足を止めた。
夜風が吹き抜ける。額の汗が冷たくなる。
逡巡。
だが次の瞬間、再び脳内の歯車が全速回転を、そして脳細胞が一つの解を探し始める。
「まさか……この表記……!」
「これは……そうか、そういうことか……!」
小さく呟きながら、拳を握りしめる。
「“異世界”とは、現代社会における——」
「ブラック企業のメタファー……!!」
顔を上げた男の目は、まるで真実にたどり着いた預言者のように澄んでいた。
「長時間労働、過労死ライン超えの勤務シフト、理不尽なノルマ……」
「もはやここは、現実と呼べない……働く者にとって“異世界”ということか!!」
叫んだ。住宅街の夜空に、突然。
「これは……トラックに乗る彼らの、最後のメッセージ……!!」
拳を強く握り締める。震えていた。
「助けてくれ、と。もう戻れない、と。どこまで走っても、そこは俺たちの世界じゃない、と……!」
決意のように言い放ち、男は立ち上がった。
その姿は、まるで“労働組合の最後の代弁者”のようだった。
「……俺が変える。労働環境を! 配送現場を! 社会を!」
「……どこかで止めなければ。いずれこの国の配達伝票すべてに“異世界”と書かれる日が来てしまう……!」
彼の心そして目に一点の曇りもない。
夜の住宅街に、あまりにも熱すぎる社会批判が響いた。
だが、その直後──彼ははっとして振り返る。
「いや、それより先にドライバーを助けなければ!」
トラックは三台とも運転席が潰れている。
男は駆け出す。
「また俺の悪い癖だ……!」
──そのときだった。
足元が、ぼんやりと光り出す。
「……?」
じんわりと広がる青白い光。
まるで地面に浮かび上がる幾何学模様——それは、明らかに魔法陣だった。
だが、男は目を細め、しゃがみ込み、じっと光の輪郭を見つめる。
「……発光塗料か?」
指先でそっと触れようとする。だが、塗布面の感触はない。
「……いや、さっきは光っていなかった。となると……」
ごくりと喉を鳴らす。
「……これは……LED? いや、まさか……バカな……アスファルトに?」
顔を上げ、辺りを見回す。誰もいない。
深夜の住宅街に、突如出現した円形の発光体。構造物はなし。電源供給も不明。
「……蓄電式か?自動点灯式?まさか温感センサー?……だとすれば、俺の体温に反応……」
その瞬間、足元の魔法陣が一際強く光を放ち、空間が歪む。
音もなく、地面が抜け落ちるように、男の姿が──ふっ、と消えた。
……静寂。
ただ、潰れたトラックのフロントガラスに、倒れた標識が反射していた。
このとき、まだ誰も知らなかった。
この男が、
神に説教をかまし──
やがてその神と、交わることなき思想の喧嘩別れを経て、
異世界へと送り出されるという、
異世界召喚史におけるもっとも厄介な例外になることを。