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金剛兄弟は途方に暮れる  作者: 山神まつり
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第二十話

三男、広見くんの中学時代エピソード、ラストになります。

思いの外長くなってしまいました。

壮年の男性はひたすらに楢崎姉弟に照準を合わせ、時折にやにやと嫌な笑みを浮かべている。隣にいる俺を一瞥すらもしなかった。


別に自分の存在に気付いて欲しいとは言わないが、路傍の石ばりの対応に少なからず怒りを覚えていた。


「僕の知らないところで、姉さんとコンタクトを取っていたことは知っている。でも、おまえに介入するなと父さんに言われているから、言いたくても言えなかったんだ。だけど、今日僕はいい加減堪忍袋の緒が切れた。姉さんを、あんたの捌け口にするな!姉さんは受験生で、あんたに構っている時間なんて無いんだよ!」


今まで見たことのない怒りの形相で、光くんが激高している。その事実だけで、目の前のこの男性は、楢崎姉弟にとって忌むべき存在ということを瞬時に悟った。


「へぇーこの俺にそんな言葉を吐けるだなんて、おまえも随分と偉くなったもんだねぇ。おまえらの父親が多額の借金を抱えて、母親が水商売で何とか返していたけど体を壊して返済が難しくなって、少しは伯父という立場もあったから待ってやったってのに、そんなこと言えんの?長いこと、俺はお前たちの生活費を捻出してやったんだよ?晴が中学生になったんだから、それなりに払えるようになっただろ?まさか、楽しい中学生生活を送って、受験して楽しい楽しい高校生生活をこのまま送れるとでも思ってんの?借りたものは返す、そんなこと小学生だってわかることだろ?」


「―――だから、姉さんじゃなくて僕が稼ぐ。中学を卒業したら、すぐに就職して少しずつ借りたお金を返していく。だから、姉さんにその責を負わせないで欲しい。お願いします」


光くんはその場に跪き、頭をコンクリートに擦り付けた。


「―――光!やめて!」


楢崎先輩は光くんの背中に抱き着いた。


部活帰りの生徒たちが男性に土下座している中学生の姿に気付き、足を止めて集まり始めた。


「……ちっ、今日は人の目もあるからこのまま帰ってやるよ。だけどな、光。中卒で稼ぐって日当がどんなもんだと思ってんだ?雀の涙をよこしたって、借金は膨れ上がるばかりだよ。おまえが晴を助けたくても、現実はそう簡単にいかないってことをよく肝に銘じておくんだな」


男性はそのまま踵を返して、去っていった。


あまりの展開に、俺はただ傍観することしか出来なかった。


楢崎姉弟を見ると、楢崎先輩は光くんの汚れた制服を払ってあげている。その目にはうっすらと涙が浮かんでいた。


「おーい、金剛ー!」


向こうから自分を呼ぶ声が聞こえ、顔を上げると人垣をぬって不可解そうな表情の山口くんが現れた。


クラスが同じになってから、彼は他人行儀な呼び方から苗字呼びに変わった。


「……山口くん」


だけど、俺自身は呼び方が変わることはなかった。


「え、何?何の騒ぎ?楢崎先輩たち、何かあったの?」


真相を知りたい、とその目にはあきらかに書いてあったが、俺自身も整理できていなかったのでそのまま白を切ることにした。


「いや、俺もよく分かってなくて。何か知らないおじさんが因縁をつけてきてさ。楢崎くん、あ、光くんが何とか言いくるめてくれたんだよ」


どこか拍子抜けな表情を浮かべたが、山口くんは安心したようにうなづいた。


「そっかー、なんか大変だったな。でも、何事もなくて良かったよ。楢崎先輩たちも大丈夫でした?」


ぼんやりとしていた楢崎先輩ははっとしたように表情をいつもの明るいものに変えて頷いた。


そして、これ以上楢崎先輩たちと一緒にいない方がいいと判断した俺は、そのまま楢崎先輩たちに一礼すると、前をずんずんと歩いて行った。


「え?金剛、一人で帰るの?じゃあ俺も一緒に行くよ」


もやもやとした感情を一人で鎮めさせるのは難しい。今は山口くんの単純さを有難く思えた。




前の日の騒動などなかったかのように、科学部では楢崎先輩は笑顔で部をまわしていた。ただ、光くんは話しかければ受け答えはしてくれるが、余計なことを口にしないよう話す内容に気を付けて話しているようだった。


俺は、もともと人と深く関わろうとはしないのでその距離感でいることは普段と変わらないことだった。それなのに、今まで積み上げてきた信頼が格段に変化しているように感じるのは、単なる思い込みなのだろうか。


そして、極めつけはあきらかに光くんは俺を避けるようになったことだ。俺と視線が合っても、そのまま逸らして違う同級生と話したり、部活が終わった後もすぐに姿を消してしまうようになった。


楢崎先輩ともあまり話せないまま、気づいたら中間テスト、期末テストも終わり、3年生は引退の時期が迫ってきていた。俺は山口くんと相談し、2年生全員を集めてサプライズで先輩たちの部内での感謝を伝える催しを企画していた。


1年生にも協力してもらい、1学期の最後の部で簡単なサイエンスショーや3年生に向けての感謝の言葉を述べ、最後に俺から楢崎先輩、高木先輩、星田先輩、三宅先輩に花束を渡すと、4人はとても喜んでくれた。


「みんな、私たちのために色々と準備してくれてありがとう。これから高校受験という高い壁が待ち受けているけれど、乗り越えるよう頑張りたいと思います」


楢崎先輩は涙ぐんでそう話すと、そのままふっと真摯な表情になると俺をしっかりと見つめた。


「私たちは、今後の科学部の構成をきちんと話し合って決めました。部長は金剛くん、あなたに引き受けてもらいたいと思います。そして、副部長は山口くん。この2人なら支えあって今後の科学部を引っ張っていけると思います」


俺は、かなり戸惑った表情をして少し後ずさりをしていたのか、楢崎先輩に「大丈夫だよ」と小さく告げられた時、一気に恥ずかしくなった。


自分には人を引っ張っていける自信がありません、とこの場で豪語したかった。だけど、周りの先輩たちの期待に溢れた視線を浴びている最中にそんな否定な言葉を吐けるわけもなかった。


「―――金剛先輩、僕たちは、あなたについていきます。頑張ってください」


唐突に後ろから声がしてゆっくりと振り返った。


頬を赤く上気させた光くんがこちらを見つめていた。きちんと視線を合わせたのが久々で、俺はそのまま何も言えず立ちすくんでいた。すると、近くにいた山口くんが隣に来てくれて、そのままばんっと少し強い力で背中を叩いた。


「大丈夫だって、俺が参謀になって金剛を導いてみせるから。どーんと大船に乗ったつもりでさ、金剛は構えてくれてればいいよ」


参謀って、戦場に出るとかじゃないんだからという突っ込みを入れる間もなく、俺は緊張感の抜けたへらっという笑いを向けてしまった。




部長という重圧を抱えたまま、夏休みに突入した。


今年は科学館が長期の改修工事に入ったようでサイエンスショーには参加できなかった。来年は3年生で1学期には部活を引退してしまうので実質去年参加したので最後になってしまったことに寂しさを覚えた。だけど、山口くんがいうには冬にサイエンススノーマジックという小学生の冬休みに向けたイベントが開催されるらしく、それに向けて2学期は準備することになりそうだ。


あまりにもぼんやりと歩いていた所為か、前から玲が走ってきていることに気が付かなかった。


タックルされそうになった時に、俺はさっと横に飛びのいて事なきを得た。


「―――おまえを俺を殺す気か!」


「ちっ、折角お祝いのタックルを決めてやろうと思ったのによ」


「お祝い?」


「山口から聞いたよ。広見が部長に任命されたって。凄いじゃん」


「あ、うーん、でもやっぱり自信ないよ。俺はてっきり山口くんが部長になるとばかり思ってたし。だけど、光くんが推してくれたから嬉しかったかな」


「光くん?あ、楢崎光くんか、1年生の」


「そう、玲、知ってるの?」


玲は少し気まずそうに下を向くと、「これはさ、あくまで噂な」と口にした。


「先週末にソフトの子たちがさ、ここから3駅くらい先の駅前で楢崎光くんがおっさんと言い争うところを見たらしいんだよ。近くには多分、3年の楢崎先輩がいて、やたらと短いスカートを履いて化粧をしてたって……家庭の事情はあまり分からないけどさ、あれはエンコウじゃないかって」


「エンコウって?」


「援助交際だよ」


玲の口から吐き出される四字の言葉に、どこかもやもやと霧がかかっていた現実が晴れてくるようだった。


ヤニで歯が薄汚れていた壮年の男性の言葉の意味が腑に落ちて、その次に湧き上がってくるのは誰にもぶつけることのできない感情の塊だった。


これは、怒りだ。


「……広見、大丈夫か?何かおまえ、めっちゃ怖い顔をしてるぞ」


「大丈夫、玲、色々とありがとう」


どこに行こうとしているのか、踵を返そうとすると後ろからぐっと手を引っ張られた。振り向くと、青ざめた表情の玲がこちらを睨みつけている。


「噂、って言ったよな。冷静にものを考えるのが、昔から知っている金剛広見だぞ。怒りの感情をもろに出して突進したからって、絶対にいい結果にはならないからな」


言い聞かせるようにゆっくりとそう話す玲に、ふっと一瞬沈静する感覚があり、そのまま力が抜けていくようだった。


「―――うん、そうだね、ごめん。このまま家に帰るよ」


「絶対だぞ。帰るところ、ここで見ているからな」


腕を組んで仁王立ちしている玲に苦笑いしつつも、心に滾る炎はずっと燻っているままだった。




さくさくさく


俺は久々に彫刻刀を手にし、無心で木を削っていた。


怒りとは、「無知」や「むさぼり」と並ぶ根本的な煩悩であり、手放すべきものと仏教の教えで説かれている。


似ても似つかないが、目の前の仏像は不動明王の形状を成してきている。不動明王の憤怒の表情は、慈悲で人々を救うための強い力や、煩悩を断ち切るための「力強い怒り」として表現されていることがある。怒っているようで、その裏では人を正しい道へ導こうという深い慈悲が込められているのだ。


炎までは難しくて作れなかったが、俺は彫りながらどこかで哀願していた。


あの時、込み上げてきたのは怒りだけではない、虚しさもあった。


頼られているようで、実は頼られていなかったのだという考えが打ち払おうとしても去来してしまい、虚しさ故に削るのを止めるわけにはいなかったのだ。


そんな感情は独りよがりで、ただの勘違いにも甚だしいのに。


楢崎先輩に背中を押され、光くんに認めてもらえたというその事実だけで十分なはずなのに、何を不足のことがあるというのだろうか。


助けてください、助けて欲しい、俺が助けたかった。


蚊帳の外に出された俺が、あの姉弟を助けたかったのに。


がっ


気付いた時には、目の前の不動明王は腹の部分を削りすぎて下半身から崩れてしまっていた。その憤怒の表情には憐憫が滲んでいるように見えた。


不動明王様、不動明王様、どうか、正しい道へとお導き下さい。どうか、どうか。




夏休みは店の手伝いをし、ミスミ青果への出張手伝いにも駆り出され、あとは図書館と学校の往復で終わった。


夏休み中の部活で、冬に行われるサイエンススノーマジックの協力を仰いだところ、数人の1年生が参加を願い出てくれた。光くんは申し訳なさそうに欠席を伝えた。夏休みの科学部は運動部と比べたらほとんど活動はなかったが、5日の内すべてに光くんは参加してくれた。ただ、参加するたびに顔や腕などに傷が増えていくのが気がかりだった。


そして、部活に顔を出さなくなった楢崎先輩が何をしているのか気になった。


だけど、直接光くんに訊いたとしても訝しがられるだけだろう。


怒りや虚しさの感情が外に出ないよう、山口くんと喋る時や後輩たちに指示を出したるする時、俺はこっそりと内側の腕の肉を引っ張りながらへらっとした笑顔を向けるようにしていた。




あっという間に2学期が訪れ、文化祭でのサイエンスマジック、研究発表も何とか間に合わせることが出来た。今年の研究発表の内容は、「植物と過酸化水素水から発生する気体の発生量に関する研究」と題して発表に必要な簡易的なロケットも設置した。


「相変わらずよく分からんなぁ」と山口くんには言われたが、並行して準備した割には満足したものが出来たので嬉しかった。文化祭には良知兄さんと連れ立って多聞兄さんまで来てくれた。


12月の冬休みに入ると、すぐにサイエンススノーマジックの最終チェックに追われた。スノーマジック、と謳っているので雪を降らせる化学実験をやろうということになった。


昔観たアニメで、雪を知らないある王国の王女様に雪を見せてあげようと映写機を使って見せてあげようとするものがあった。結局映写機に映る雪の映像が機械の故障か何かで逆に空に昇って行ってしまったという結末だったので、映写機は避けようと思った。


科学の力で人工雪を作る方法はいくつかある。その中で、食塩水にエタノールを加え、食塩が結晶化して雪のように降ってくる現象を利用することにした。水に食塩を溶かせるだけ溶かして飽和食塩水を作る。その食塩水に割り箸などを伝わせるように無水エタノールをゆっくりと加える。境界面で食塩の結晶が生成・降下するという流れだ。大々的に雪を降らせることは難しいが、コップの中で雪を降らせる実験を行うことにした。


去年の夏休みに比べ、寒さや短期間のあるのかあまり子供たちが集まらなかったが雪を人工的に降らせると歓声が上がった。


俺はとなりの山口くんとハイタッチをした。


この年の締めくくりとしてはいい思い出になった。残すところ、俺はまた店の手伝いに追われ、帰省をすることもなくあっという間に終わるのだろうと思っていた。




朝から科学館のイベントに掛かりつけだった俺は、駅に着く頃は足元がフラフラしていた。イベントを成功させなければという、重圧や責任感にもずっと苛まれていたからだろう。


「金剛、お疲れ様!打ち上げってわけにはいかないけどさ、駅前のファミレスで温かいもんでも食べていかないか?」


山口くんの声に視線を上げると、1年生の数人も初めてのイベントの成功に喜びで目が輝いていた。そう、去年の自分もサイエンスショーに手を叩いて喜んでくれた子供たちに心が躍ってなかなか興奮が冷めやらなかったんだ。


そんな初々しさを思い出しながら、俺は科学部の皆でファミレスへ向かった。


1時間ほどファミレスのドリンクバーでカフェオレや紅茶を飲んで成功を分かち合うと、そのまま「良いお年を」とお互い声を掛けて別れた。


家に帰る途中、見覚えのある後ろ姿を2つ見つけた。ずっと隣の人に何か言いかけているが、隣の人はかぶりをふるばかりだ。


俺はそのまま気づかない振りをして二人を抜いていいのか、悶々としていた。


意を決して少し首元のマフラーで鼻まで覆い、無言で通り過ぎようした。


「……金剛くん?」


すぐにバレてしまった。ゆっくりと後ろを見やると、笑顔の楢崎先輩と少しバツが悪そうに視線を背けている光くんがいた。


「もしかして、サイエンススノーマジックの帰り?」


「……そうです。知ってたんですか?」


「うん、石浜先生から聞いていたから。凄いね、金剛くん。山口くんと1年生を引っ張ってくれてるって聞いたよ。やっぱり、私たちの目に間違いはなかった」


本当に嬉しそうに笑顔でそう言われると、何だかこそばゆくなり楢崎先輩と視線を合わせるのが恥ずかしくなってしまった。


「光も、参加できなくてごめんね。私はせっかくなんだから参加しなよって、言ったんだけど」


「―――だって、僕がいなかったら姉さんが何をするか」


そこまで言って、光くんは慌てて両手で口を覆った。楢崎先輩も先ほどの笑顔と一変し、どこか咎めるように光くんを小さく睨んだ。


何か問いただすべきなのかもしれなかったが、俺はその対応もどこか傷つきながらも気づかなったふりをした。


「今から、「惣菜の金剛」に行こうと思ってたの。メンチカツもコロッケも本当に美味しかったから。あとほうれん草の白和えもとても美味しかった」


「あ、それ、兄さんの好物なんです」


「金剛くん、お兄さんいるんだね」


「はい、1番上と2番目の兄が。俺は3兄弟の末っ子なんです」


「兄弟が多いと、楽しそうだね」


そこまで会話をすると、楢崎先輩はさっさと歩き始めた。俺は拍子抜けしながらも、ゆっくりと後を追った。どうせ同じ道なりだ。その後を光くんが付いてくるようだったが、直接声を掛けては来なかった。


雪は降らないようだが、足先まで冷えるほどの寒さだ。夕方になると、レインボー商店街の通りは人通りが多くなってくる。店に着く前にミスミ青果店の前を通った。玲がお客さんに何かを説明していて、俺たちには気づかないようだった。


今更だが、もう年末なのだ。楢崎先輩たちは年が明けると受験が過熱し、あっという間に卒業してしまうのだろう。そう考えると、目の前の楢崎先輩がいなくなってしまうことが無性に寂しくて仕方なかった。


「そういえば、来年はついに入試ですね」


何となく話したつもりだったが、目の前の楢崎先輩がぴたっと歩みを止めたので背中にぶつかりそうになってしまった。


「そうだね、世間では推薦入試、一般入試とバタバタしてくるよね。でも、私はみなと同じ入試は受けないつもり。定時制に行こうと思ってるの」


「―――僕は、反対だから!」


俺が何か言う前に、後ろの光くんが声を荒げた。


「なんで?就学支援金制度で授業料は実質無償だし、返済不要の給付奨学金で教科書費や制服代なども賄える。日中は働いて、夕方から4時間くらい勉強すれば卒業できるし就職へのサポートも手厚いのよ」


すらすらと紙面を読み上げているように口にする楢崎先輩に、光くんは何も言えずにいる。


「姉さんは、学校の先生になりたいって言ってたよね。定時制は、自由だけど大学に進学しないと教員免許は取得できない。進学のサポートは手厚くないんだよ」


「光、何年前のことを言ってるの?そんな夢、もう持ち合わせているわけないじゃない。我が家の家計は火の車なのよ。いえ、むしろ借金だらけ。現実を見ないといけないの。あなたが卒業するまでなんて、待っていられないのよ」


「嫌だ!僕が、姉さんを守るんだ……僕が一生懸命働いて、借金を返してみせるから」


膝をついてしまった光くんに手を伸ばそうとしたが、楢崎先輩にぐいっと手を掴まれた。「行きましょう」と言われ、俺はそのまま歩いて行った。


「驚いたよね、ごめんね。借金を返すためにはこうするしかないって、何度もあの子に話しているんだけど」


「光くんは、楢崎先輩のやっていることを止めて欲しいんじゃないですか?」


楢崎先輩は目を見開いてこちらを見つめている。


膝をついて絶望している光くんの姿が脳裏に貼りついて離れない。


どうせ、自分のことはどうでもいいと思っているんだ―――そんな家族に希望を持てず打ちひしがれている昔の自分と重なったからだ。


そして、そんな自分を顧みることなく前を歩いて行ってしまった両親の姿を楢崎先輩に投影していた。


「……誰からか、聞いたの?」


声が震えている。眉は吊り上がり、目を血走っている。


優しく微笑んで花束を受け取ってくれた、あの時に先輩の姿はどこにもなかった。


「ねぇ、どこで見たの!?誰かに私のことを話したの!?」


「……話してないです」


小さく呟く俺に、楢崎先輩は勢いよくコートの襟を掴んで睨みつけた。


「あんたには分からないわよね。両親にも兄弟にも恵まれて、ぬくぬくと育っているあんたには!私は両親も弟も一人で何とかしなきゃいけないのよ!それなら、自分自身を売るしかないじゃない。男が喜びそうな服を着て、厚い化粧をして、加齢臭を漂わせている脂ぎった中年オヤジの腕に絡みついて、媚びる言葉を吐いてお金を貰うしかないじゃない」


矢継ぎ早に捲し立てる楢崎先輩に、俺は立ち尽くすことしか出来なかった。


商店街を通る人たちはあまりの剣幕にこちらをちらちらと見ている。


「楢崎先輩、落ち着いてください。すみません、余計なことを言いました」


早く事態を収拾したくて俺は頭を下げた。


俺の言葉にはっと何かに気付いた楢崎先輩は、落ち着かせるようにふーっと長い息を吐いた。


「……金剛くんも、前に伯父に会ったよね。伯父は街金という肩書らしいんだけど、闇金に近い商売をしていたみたいで。お父さんは借金分の補填を伯父にしていて、どうしようもない状態なのよ。母も、今は少しずつスーパーのパートに出られるようになったけど、それじゃもうどうにもならないの。そんな状態で、今更夢を叶えたいなんて夢を語れるわけないじゃない」


泣き笑いのような表情でこちらを見る楢崎先輩に、俺は自然と手を伸ばしていた。


その時、後ろから来た誰かに強くぶつかれて、俺は大きくよろめいた。


「―――帰りが遅いから、家族ほっぽり出して逃げたのかと思ったわ」


視線を上げると、肩を掴まれ嫌悪にまみれた表情を向けている楢崎先輩の姿に目に入ってきた。


「―――姉さん!」


俺の隣に光くんが立っている。


「メンチカツとコロッケを買うのに、どんだけ時間掛けてんだよ。買うのだって俺の金だっての忘れていないだろうな。さっさと行くぞ」


強く肩を押して男性―――楢崎先輩の伯父は目の前に見えている「惣菜の金剛」へ向かった。


ぼっと、目の前に火焔を背負った不動明王の姿が立ち上る。


手には利剣と羂索を携えて、悪を打ち破り正しい道へと導くはずのその姿は、俺に何も指し示してはくれない。自分の中の「広目天」が同時に立ち上る。武将のような甲冑姿で、同じく怒りの表情を浮かべている。その足元には邪鬼を踏みつぶしているはずが、そこには俺自身がうつ伏せで倒れている。


それは、広く物事を見る力を持つ広目天のこれから自分の姿を暗示しているのだろう。


分かっている、分かっているけれど、俺は真実を見抜くための智慧を人々に授けるような高尚な行いは出来そうにもない。


俺はそもそも、怒りのコントールもままならない煩悩だらけの人間なのだから。


不動明王は一瞬悲しそうな表情を浮かべて、消えた。




店番は良知兄さんがしていたようだった。


後方に俺がいることに気が付くと、小さく手を振ってくれた。


「これこれ、ここのメンチカツとコロッケがめちゃくちゃ美味しかったんだよ。普段からこういう地元の惣菜屋とかで買ったりしないけど、これは何度も食べたいな。ほら、晴と光も食えよ。晴はさっさと食べて帰ったら用意しろよ。6時から約束が一件入ってんだからな」


光くんは何かを口にしようとしたが、後ろに俺がいることに気が付くとそのまま悔しそうに唇を噛みしめた。楢崎先輩は考えることを放棄したのか、どこかぼんやりとした表情でメンチカツを口元に当てたまま動かない。楢崎先輩の下唇が揚げ物の油でてらてらと光っている。


そして、「もう、やめたい」とぽつりと呟いた。


「―――あ?」


伯父の男性がどすのきいた声を出した。


「もう、やめたい!もうこんなこと、やりたくない!」


楢崎先輩がそう叫ぶと、男性はダッフルコートのフードの部分を掴み、そのまま商店街の外へ向かって早足で歩きだした。あわてて後を追う光くんの背中を見つめながら、俺は一歩を踏み出した。


商店街を出て、人通りの少ない路地に入ると、楢崎先輩は思い切り頬を張り飛ばされ地面に叩きつけられた。「姉さん!」と叫び、光くんが傍に駆け寄った。


「誰のおかげで今の生活を送れているか分かっていて拒否すんのか?その権利が、お前にあんのか?むしろ、じじいとデートしているだけで金を稼げてるなんて良すぎるくらいだろうが。今後は年齢誤魔化してキャバクラで働いてもらうからな。昼も夜もぎっちり働いて借金返してもらうから、定時制に通いたいなんて望みは完璧に捨てろよ」


「18歳未満がキャバクラで働かせることは風営法の立派な違反ですよ。それに、原則として午後10時から午前5時までの深夜時間帯に働くことも禁止です。店舗側にも違反すると営業停止処分や罰金などの罰則も科せられるので難しいと思います。あと、きちんと今の言葉録音したので言い逃れは出来ないですよ」


俺の言葉に、いきおいよく振り返った男の顔は憤怒そのものだった。


「誰だ、お前は!身内のことに口出しするな!」


「先ほど買われた惣菜屋の息子です。あと、貸金業法で家族への取り立ても禁止されていますよ。暴力や脅迫も違法です」


「うるせえ!部外者が口出してくるな!何なんだ、おまえは、まだ中学生のくせにべらべらと余計な知識をひけらしがって」


そう言うと男はにやりと下卑た笑みを浮かべた。


「そっか、おまえはこいつが好きなんだな?こいつはな、やりたくないといいながら嬉々としておっさんと絡んでたんだよ。生まれながらのビッチなんだよ。むしろ俺が適職を斡旋してやったといってもいいんじゃねぇかな?」


「違う!違う!」


ぼろぼろと涙を流しながら楢崎先輩は訴えた。ぺっと唾棄すると、男は目の前の俺を見据えた。


「そんな正論吐いたところでこいつらを救う道は俺しか握ってないんだよ。俺に生き方を縋るしか、方法はないってことだ。おまえは余計なことをしたな」


それだけ言うと、残っていたコロッケを地面に投げ捨てた。


俺はそのまま楢崎先輩と光くんに駆け寄った。楢崎先輩は光のない眼で地面を見つめている。


「楢崎先輩、お父さんが借金を返済できないようであれば債務整理という方法もあります。法律に従って借金を減額したり免除出来たりも出来ます。まずは弁護士さんに相談を―――」


「……何で、あんなこと言ったの?」


「楢崎先輩?」


「しばらく殴られていればあいつだって溜飲が降りて満足しただろうに。今まではエンコウだけで済んでいたのに、多分怒りに任せてもっと酷いことされるかもしれない」


楢崎先輩の目に光はなくても、静かな青い炎がそこには宿っていた。


赤くはないけれど、それは不動明王の火焔のようで、自身の行いを責められていることに納得がいかなかった。


「……だって、やりたくないって言ったじゃないですか。やりたくないことをやらないことが一番ですよね?」


「そりゃあやりたくないよ。だけど、さっきのは少しの抵抗を示しただけで、完全に止めるように移行させようとは思ってなかったよ。止めることなんて出来ないって分かっていたから」


あっけにとられたように見つめる俺に、心底呆れたように息を吐いた。


「私、金剛くんに助けて欲しいって言った?言ってないよね?」


その人を嘲るような言葉に、心の底からはぜる思いが湧き上がってきた。


「人の善意をなんだと思ってるんですか?エンコウだなんて汚いことを堂々とやって金を稼いで家族を救ってるつもりですか?光くんだってそんな先輩見ていられないから何度も止めにいっているんでしょう?教師になりたいとか夢を語っていた人が、恥ずかしくないんですか―――」


そこまで言って、はっと我に返った。


今自分は楢崎先輩に何を言った?何ていう暴言を浴びせた?


楢崎先輩はははっと乾いた笑い声を上げると、「それが君の本音だね」と呟いた。


「やっぱり、金剛くんはそういう人だよ。孤高の人を演じながらも、ただ周りの人間を見下しているだけのクズだよ。自分の心の声も、怒りの感情もセーブできない哀れな人」


それだけ言うと、楢崎先輩はふらっと立ち上がり狭い路地を戻っていった。あわてて後を追う光くんは今まで見せたことのない怒りの眼差しを向けた。


路地の傍らにぐちゃぐちゃにつぶれたコロッケが無様に転がっている。




それからの俺は魂が抜けたような無気力な日々を過ごした。


次の日に、科学部を退部した光くんとは階も違うからか会うこともなくなった。


俺の落ち込み具合と光くんの退部に何かを察したものがあるのか、山口くんはしばらく様子を見ていてくれていたが、俺から科学部の部長を辞退したいと申し出た。


山口くんが部長になり、2年生の沢渡さんという女子に副部長をお願いした。もう、前までのような科学の楽しさや面白さを伝えていきたいという気力も失われてしまった。


あっという間に3月を迎えて、3年生は卒業した。


遠くから楢崎先輩が颯爽と体育館を出ていく姿を見送る。定時制に入れたのか、彼女の進路を聞く権利はもう残されていない。


春休みが終わると、桜の季節がやってくる。


最後の1年が始まる。


今年は玲とも山口くんともクラスが離れ、少し寂しいながらも知り合いがいない1年にほっとしている自分がいた。


科学部には顔を出していたが、山口くんの指示に従いながら粛々と行っている感じだ。


相変わらず仏像は彫り続けている。


さくさくさく


不動明王も広目天もきちんと未来を示唆してくれていたのに、俺はそれを享受して抗うことが出来なかった。感情のままに、彼女に酷い言葉を吐いてしまった。


彼女の行く末がずっと気になっていたが、ある休日に楽しそうに笑いながら三宅先輩と連れ立って歩いているのを見かけた。科学部で見かけた時の楢崎先輩の表情に間違いなかった。


最悪な未来を迎えていなかったとどこか安堵しながらも、自分が犯した罪が軽くなることはなかった。


ずっと、ずっと、心の中で業火が燻り続けている。

読んでいただきありがとうございました。

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