第十八話
末っ子、広見くんの過去編です。
スマイルのシールがずっと口元に貼りつけられているみたいだよな、と玲に言われたのはいつぐらいのことだったか。小学校の頃だった気がする。
家の中では皆一人一人があらぬ方向に意識を向けていて、自分自身に意識を向けてくれるのはパートの安岡さんくらいだった。遅くまで近所の公園でうろうろしていて帰ったこともあるが、皆ぞれぞれがそれぞれの場所でご飯を食べたり過ごしていたりして、「おかえり」なんて声を掛けてくれさえしなかった。
そして、小学生の俺は、この家族に家族らしい扱いをして欲しいという期待は一切捨てた。皆、店のことや自分のことや自分の境遇への反発や畏怖で忙しいのだ。俺は、大してそういう感情を持ち合わせていなかったので、ただ淡々と駒の一つとして生活していた。
だけど、無表情でいると小学生男子というものはからかいの対象になってくる。だから、俺は常に笑顔で対応することにした。笑顔でいれば、同級生だって先生だって悪い気はしないだろう。笑顔で機嫌よく柔軟に接していればそれ以上詮索だってしてこない。小学生女子からの反応だって、悪いものにはならないだろう。
そう、俺は笑顔を張り付けて誰にも踏み込んで来れないよう境界を作っていた。
だけど、付き合いの長い玲には不自然に映っていたようだ。悟られてしまったことに、反省だ。
中学生に上がると、笑顔を作って対応しているだけではダメだと分かった。ただの薄気味悪い人に印象が変わってくる。人によっては、何でそんなにずっとへらへらしているの?と疑問符が浮かんできてしまうらしい。別の防護壁を作る構想を練る必要があった。
「金剛くんの家って、あの商店街のお惣菜屋さんなんだってね?私、あそこのメンチカツが大好きなの」
科学部の活動で、中庭で生物の観察をしている時に声を掛けられた。肩に掛からないくらいの長さの髪を耳にかけながらにっこりと笑みを浮かべている。右目の下に泣き黒子があった。見覚えがあるはずが、なかなか名前が脳内に浮かんでこない。女性は地面につかないようスカートをたくし上げながらゆっくりと座って目線を合わせた。
「もう忘れちゃった?先週、紹介したんだけどなぁ。新しく部長になった楢崎晴です。金剛くん、すっごい優秀なんだって?文化祭での研究発表ももちろんだけど、有志で近くの科学館でサイエンスショーなんかにも数人参加しているの。自分たちだけで企画立案、構成なんかを考えて発表するの。金剛くんも、良かったら参加してみない?」
「俺……がですか?他の先輩方を差し置いて、まだ入ったばかりの1年がでしゃばると後々遺恨を残しそうで怖いので辞退してもいいですか?」
「何か用意しておいた言葉を淡々と述べているだけのような気がする。それは本当に金剛くんの意思なのかな?」
「科学館のサイエンスショーって土日とかですよね。土日って店の仕事に駆り出されたりするんですよ。だから、参加しますって確約できないんです。すみません」
またあの張り付けたような笑みを乗せてしまった。小学生からのくせで、ついやってしまった。
楢崎先輩はぱちりとゆっくりと瞬きをすると、うーんと考え込むような姿勢を見せた。
「んーそれもそうだね、お家が自営業なら土日は猫の手も借りたい状況だろうし、仕方ないよね。もし、時間が出来そうだったら声を掛けてもらってもいい?」
「あ、はい……」
そのままさっさとその場を離れ、別の後輩たちの方へ向かっていった。あまり深入りしていないことに微妙に拍子抜けしつつも、突き放すような対応でもなく絶妙な距離感を保っての反応に流石部長になる人は器が違うと感心せざるを得なかった。
中学の科学部は週に三日ほどの活動で、観察に加えて様々な実験なども行った。あとは数人で班をつくり、興味のある分野の研究を行い発表するなど様々な活動内容でとてもやりがいがあった。何より、部長の楢崎先輩が各方面に意識を伸ばし、進捗状況などを確認したりアドバイスなどをしてくれたり精力的に援助をしてくれたのは大きい。
何となく私生活に影響が少なそう、という理由だけで科学部に入ったのだが、なかなかに科学の面白さや探求心を育む要素が揃えられている気がした。
「金剛くん、帰る方面一緒だろ?途中まで一緒に歩いてもいい?」
同じ科学部で隣のクラスの山口くんに声を掛けられた。俺自身、山口くんの家の場所を把握していない。
「俺さ、なーんとなく上下関係とか面倒じゃなさそうで、なんとなーく緩い感じだと思って入ったんだけど、思いの外楽しくてちょっとびっくりしてる」
「あ、それは俺も思った」
思わず山口くんを指さしてしまったが、山口くんは機嫌を損ねるようなことはなく、嬉しそうににかっと歯茎を見せた。
「あれやれ、これやれって強制されないからかな?自由に興味を持ったものを研究させてくれる感じがいいのかも。顧問もイッシーだし」
イッシ―こと石浜先生は現国の先生だが、中学と高校と科学部だったらしく積極的に部活に顔を出してくれるしアドバイスもしてくれる。授業も冗談を交えながら楽しく教えてくれることもあって、生徒からの受けもいい。
「あとは……楢崎先輩も、班ごとの研究を頻繁に見に行ってくれてるし、部活の雰囲気なんかを良くしてくれてる印象があるかな」
ぽつり、と呟くと、見てもいないのに隣の山口くんが意味深な笑みを浮かべているのが分かった。
「べ、別にさ、そういうことを言っているわけじゃないから!」
「えー俺、まだ何も言ってないよー」
山口くんは後頭部に両手を当てながらるんるんとスキップを踏んでいる。
これ以上弁解しようものなら揚げ足を取られそうな気がしたので、俺はぐっと唇を結んで耐えた。揶揄い甲斐のない俺に、山口くんは寂しそうに眉を下げて見つめているが、素知らぬ顔で歩き続けた。
ある週末、どこかのインフルエンサーが美味しいコロッケとSNSであげてくれたらしく、見たことがないほどの若者の行列が開店前から出来ていた。
二度寝をして微睡んでいた時に、階下から母の怒号が響き渡りその静寂は壊された。俺と良知兄さんは慌てて用意をしていたけれど、多聞兄さんは頑として部屋から出てこなかった。良知兄さんは恨めしそうに部屋のドアを見つめていたが、俺は一環とした多聞兄さんの態度に羨ましくも思えた。
俺はパートの西岡さんを手伝って接客の対応をしていた。昼を過ぎても客足が途切れることがなく、朝御飯を食べ損ねた俺は空腹で倒れそうだった。でも、それをおくびに出すことなく笑顔で対応することを心掛けていた。それが功を奏したのか、「かわいい」「何歳?」など、特におばちゃんたちから声を掛けられるようになった。
「やっほー金剛くん、ごめんね、こんなに混んでいると思ってなくて」
聞き覚えのある声に顔を上げると、髪を二つ結びにした楢崎先輩が立っていた。
「楢崎先輩―――!来てくれたんですか?」
「うん、ここのメンチカツが無性に食べたくなって。こんなに混んでいるとは思っていなかったけれど、いつもはこんなに混んでいないよね?」
「そう、ですね。何かSNSで我が家のコロッケを紹介してくれた人がいたみたいで……」
「姉さん、早くメンチカツを買いましょう。後ろが詰まってますよ」
会話を遮るように楢崎先輩の横から声がした。身を乗り出して覗いてみると俺よりもはるかに笑顔らしい笑顔を浮かべた少年が立っていた。楢崎先輩と手を繋いでいる。俺と目が合うとさらににっこりと笑みを浮かべた。
「はじめまして、楢崎光です」
「あ、弟なの、小学6年生」
6年生にしては大分小柄だった。そして、営業スマイルとばかりの、顔に張り付けたような表情もどこか自分を思わすようでぞくっとしてしまった。
「来年、この子も同じ中学に入ってくると思うの、科学部に入りたいみたいだからよろしくね」
「よろしくお願いしますね、金剛先輩」
ぺこり、と一礼され、俺はまだ先輩と言われ慣れていないのでこそばゆい気持ちになった。
「じゃあ、コロッケを4つと、メンチカツも4つで」
「姉さん、あと1つずつ買って行った方がいいかも」
楢崎弟の言葉にどこかはっと気づかされたようで、「やっぱり1つずつ追加で」と焦ったように言った。
「毎度ありがとうございます」
紙袋にコロッケとメンチカツを入れると、楢崎先輩は嬉しそうに受け取った。
「ありがとう、じゃあまた、月曜日にね」
二人はずっと手を繋いで帰っていった。6年生男子でも、姉と手を繋ぎたい年頃なんだなぁと思いながら後ろ姿を見送った。
SNSの恩恵はあまり長く持たず、いつの間にかいつもの常連さんたちだけが訪れるようになり、土日は二度寝の他に昼寝といった惰眠を貪れるようになった。
ただ、きっかけはそれだけのことだったが、俺は前日の申し出を受けてみようと思うようになった。
「え!?本当に?」
「まぁ、はい、何かあの行列もいつの間にか出来なくなったので、土日も空いています。なので、科学館でのサイエンスショー、まだ募集しているなら……」
「空いてる空いてるよ!良かったー金剛くんが参加してくれるなら百人力だね」
「いや、それは過信しているというか」
「金剛くん、サイエンスショー出るの?じゃあ、俺も出ようかなぁ?楢崎先輩、いいっすか?」
「あ、山口くん?いいよいいよ。1年生は誰も参加者いなかったし、嬉しいなぁ。2年生は私と高本くんと、星田くんと、みかるんが出る予定だよ」
「みかるんって?」
「あ、ごめん、三笠優佳のことね。2学期には文化祭の発表もあるから忙しくなるけど、科学館は基本的に夏休み中の土日とかでやると思うから時間は取れると思う。頑張ろうね!」
楢崎先輩が両の手の平を見せてきたので、俺と山口くんは意味がわからず首をかしげていると、
「手のひらを見せたら、こうでしょ。はい、タッチ!」
ぱんっ
俺と山口くんの手のひらを交互にタッチし、楢崎先輩はにこっと笑みを浮かべた。
急な接触に戸惑いながらも、隣をちらりと見ると山口くんも照れたような表情を見せていたので、どこかほっとしている自分がいた。
今までは、あまり面倒そうなことには首を突っ込むのを控えていたけれど、いざ自分から飛び込んでみるのも悪くないな、と思うようになった。
終わらなかったので、前後編になると思います。